現在位置:
  1. トップページ >
  2. 健康・福祉・子ども >
  3. 福祉 >
  4. 三重県戦争資料館 >
  5. 体験文集 >
  6.  111人の語り部
担当所属:
  1.  県庁の組織一覧  >
  2.  子ども・福祉部  >
  3. 地域福祉課  >
  4.  保護・援護班 
  • facebook
  • facebook share
  • twitter
  • google plus
  • line
平成20年09月09日

三重県戦争資料館

111人の語り部

〈三重県戦後50年体験文集〉
21世紀への伝言
-111人の三重のかたりべたち-

平成七年は、太平洋戦争が終結した昭和二十年から五十年目の節目にあたりました。三重県では、この記念すべき年に、改めて、戦争という非人間的行為がもたらした悲惨さ、残酷さを思い起こし、戦争を知らない世代の人達に語り継ぎ、今、享受している平和の尊さをともにかみしめあう機会としたく、体験文集の発行を企画いたしました。

先の大戦で、日本は「大東亜共栄圏」を旗印として、アジアの諸国に多大の犠牲と損失を与え、また、自国も二百万余の犠牲者を出し、国土も焦土と化してしまいました。しかし、終戦後、民主主義を学び、平和憲法のもとで、今日の経済大国へと発展してまいりました。本県もまた、各地で瓦礫の中の苦しみを味わいながらも、立派に復興し、この五十年間に、大きく進歩発展を遂げてまいりました。そして、さらに、生活先進県・三重を目指して、豊かな県土づくりに取り組んでいるところであります。現在の繁栄は、これまでの県民の皆様の努力と、五十年にわたる日本の平和があってこその成果であります。

この節目にあたり、戦中・戦後のさまざまな体験を思い起こし、本県の戦後五十年の歩みを振り返ってみることは、大変意義のあることと思います。このため、三重県民の戦中・戦後の体験を記録して後世に残し、あわせて、平和への願いを新たにするため、広く県民の皆様から体験文を募集いたしました。この呼びかけに対し、予想をはるかに上回る六二〇編の応募をいただきました。中には、海外の県人会を通じて、アルゼンチン、ブラジルの方からも応募をいただきました。また、さまざまな思いのこもった写真等の貴重な資料三九四点も提供していただきました。

本来なら、全作品、全資料を文集に掲載すべきところでありますが、紙数の制約上、不本意ながら、111編の体験文と資料の一部を選び、三重県戦後五十年体験文集「二十一世紀への伝言-111人の三重のかたりべたち-」としてまとめ、発行させていただきました。体験文や写真をはじめとする貴重な資料をお寄せいただきました皆様に、改めて厚くお礼を申し上げます。残念ながら掲載できなかった皆様には、誠に申し訳なく深くお詫び申し上げます。なお、寄せられたすべての体験文や資料は、当時を語る貴重な資料として、永く保存をさせていただきます。

語られている体験は、戦争という異常な時代においてのことであり、とても考えられない、心痛む内容のものも含まれていますが、お許しを願い、掲載させていただきました。

また、体験文を掲載するにあたり、当時の時代背景の中で、やむを得ず、支配する側としての言葉が用いられているところがありますが、日本の支配を受けたアジアの国々などの皆様にとっては、許しがたい言葉であることを、私たちは深く心に刻まなければなりません。当時一般に使用されていた用語が、今回の体験文においても、意図的ではないにしても、随所に見受けられました。不適切と思われるような言葉は、できるだけ現在一般に用いられている言葉で表記するようにいたしました。

掲載された体験文は、ほぼ時系列により「出征・軍隊・戦地」「学徒動員」「外地で」「留守家族」「学校生活」「戦中のくらし」「空襲」「引揚げ・抑留」「戦後の耐乏生活」「復興・新教育・女性の活躍」「平和を願って」の十一の分野に分類いたしました。

最後になりましたが、この体験文集の発行に、ご協力、ご指導をいただきました方々に厚くお礼申し上げます。この文集が縁となり、日本の平和が末永く維持され、さらには、平和な地球が実現して、素晴らしい二十一世紀が開けてゆくことを願ってやみません。

付記

一、この体験文の募集期間は平成七年八月一日から九月三十日までとしました。

二、十一の分野と、そこに収めた作品は、できるだけ時系列に配列しましたが、最後の「平和を願って」は年齢順としました。複数の分野にわたっている作品はその中の主な内容によりました。

三、体験文は、できるだけ、原稿通りに掲載しました。ただし、先にふれました用語・表現は、本人の了解を得て、変更、または、注を付けました。

四、若い世代の方々に読んでいただきやすいように、本人の了解を得て、できるだけ、現代かなづかいに書換えさせていただきました。

五、使用されている漢字は、できるだけ常用漢字を使い、誤字と思われるものは訂正いたしました。また、読みのむずかしい漢字には、「ルビ」を追加しました。

六、体験文末尾の住所・年齢は応募原稿記載のものです。

目次

<出征・軍隊・戦地>

氏名 一木 幸治
タイトル 兵隊送り
本文  ひぐらしやかつては兵の征きし道
 NHK学園で俳句を学んでいるが、この句は私が選んだ互選句のひとつである。小学生だった頃私は多くの出征兵を見送ったのだが、その情景は今も鮮明である。しかし、現在の私には非常に重いものに感じられる。征ったまま帰らぬ人もまた多かった。ひぐらしはその象徴に思えるのである。つらい句である。
 兵隊送りの日は早朝五時に村の神社に集まるのが慣例であった。社殿前では軍服に身をかためた出征者が村人の挨拶を次々と受けている。夏の朝はさわやかだが、冬の五時はまだ暗く冷たかった。家族、親戚、隣組、青年団、婦人会をはじめ、村中総出である。社殿で武運長久祈願の式があり出発である。
 天に代わりて不義を打つ 忠勇無双のわが兵は 歓呼の声に送られて
 今ぞ出でたつ父母の国 勝たずば生きて帰らじと 誓う心の勇ましさ
 歌い出せば今でも最後まではっきりと覚えているのが不思議である。この歌を歌いながら村はずれまで一粁(キロメートル)余、小学生を先頭に日の丸の小旗を手に手に行進である。昭和十九年四月、私は村の国民学校高等科二年に進級、川原区の通学団長となる。前年度の団長から受け継いだ兵隊送り用の日の丸を掲げ、一年間その先頭に立って歩いた。
 当時は木の橋だった川原橋を渡ると、道ははぼ直角に右に曲り坂にかかる。ここが「別れの坂」である。
区長さんが激励の言葉を述べ、出征者が別れの挨拶をする。その締め括りは「では元気で行きます」と決まっていた。出征者の多くは若者だったが、妻子持ちの人もあった。どんな思いで別れの挨拶をしたのだろうかと思うと心が痛む。「行って来ます」ではなく「行きます」と言うのである。「行って来ますは、行って帰って来ると言うことで、女々しい事だから言わないのだ」と父から聞いたことがある。当時の禁句のひとつであった。深く意味を考えることもなく、むしろ浮き立つ思いで歌っていたことが恐ろしいことだったと、今思うのである。「勝たずば生きて帰らじと」の句は、大君の為に死ぬことこそ本懐という当時の風潮を見事に表わしているからである。妻子のために生きて帰りたいと思ったに違いない。しかし、それを言葉には絶対に出せない時代であった。
 最後に万歳三唱があり、兵隊送りは終る。出征者とその家族は、電車の駅まで更に六粁余を歩くことになる。「別れの坂」を通る度にこんなことを思い出すのである。
 出征者はまた、武運長久と書き、家族や親戚の名を寄せ書きした国旗を肩から斜めに掛けていた。生きて帰ってほしいとの願いのこもっていることを、出征者自身が一番重く感じとっていたはずである。
 また、千人針があった。私の記憶では、手拭二、三枚を合わせて針を通し玉結びするものだったが、母や姉が作っているのをよく見たものである。一人がひとつの玉結びを作るのだから、一枚の千人針ができ上がるためには数多くの女性の参加が必要であった。でき上がった千人針は刺し子のように丈夫であった。出征者はこれを腹に巻いて弾除けにするのだとも聞いた。しかし、永遠の別れになる可能性の多い夫を、子を、恋人を、兄弟を送る人達にとって、この千人針にこめられたものは、言葉にはならない「祈り」以外の何ものでもなかったろうと思う。そして、それを受ける出征者はその千人針を肌身離さず持つことで、一針々々縫ってくれた女達の祈りを決して忘れることはなかっただろう。それにしても、千人針は誰が考え出したのだろうか。国策に協力するものとして創り出されたとしても、千人針をつくる者と、受ける者との間に生まれる共通感情は、兵隊送りの歌や別れの坂での出征者の挨拶とはちがったものであったと、今私は思うのである。戦争が生み出したものでありながら、戦争を越えたものとでも言えばよいのだろうか。
 昭和十九年九月、師範学校を繰り上げ卒業して教師になっていた兄も、間もなく出征者の仲間となった。しかし、千葉県の松戸の戦車学校で終戦を迎え復員したので、わが家は遺族にならずに過ぎた。
 川原区は当時も戸数百七十戸程であった。近藤重太郎著「川原郷土史」によると、太平洋戦争への出征者は百名を越え、そして遂に故郷の土を踏むことのできなかった出征者は三十五名だったと伝えている。官・階級・氏名・年齢・散華年月日と場所・続柄が詳細に書かれている。二十歳代が殆どだが、三十歳代六名、四十歳代二名が含まれている。
 あれから五十年の歳月が流れた。太平洋戦争殉職者の「合祀碑」が村はずれの出合と呼ぶ地に建っている。高さ八尺、巾三尺余で、くずれ積みの台石に乗っているが、だんだんと忘れ去られようとしている昨今である。
(北勢町 65歳)

氏名 白塚三千雄
タイトル 私といくさ
本文  私は軍隊に約八年も在隊していた「たたき上げの兵隊」だった。軍隊の表も裏も知りつくした兵隊だった。実際に鉄砲玉が飛んでくる所にいた兵隊だった。冒頭、私の軍歴を略記しよう。
 昭和十三年一月十日、私は現役兵として歩兵第三十三連隊歩兵砲中隊(現久居市)に入営、同年五月から翌十四年八月の部隊凱旋まで中国に出征して徐州、漢口などの大会戦に参加した。帰国後は原隊で足かけ三年内地勤務、昭和十六年十一月十七日動員下令で名古屋港を出航した。
 十一月二十九日パラオ島に到着、太平洋戦争出撃に備えた。十二月七日パラオ島を出発、十二日フィリピン・ルソン島南端のレガスピーに無血上陸、息つく間もなく部隊は一路首都マニラに向け進撃、翌十七年一月六日マニラに入城、暫時、マニラ郊外の米軍兵舎に駐留していたが、一月二十九日風雲急を告げるバターン半島戦線に投入された。
 三月二十九日敵砲弾破片で右腰部負傷、台湾を経て臨時東京第三陸軍病院で闘病生活、十八年九月原隊復帰、内地勤務を経て終戦に至る。
 私はこのように中国や比島(フィリピン)で戦っているが、今でも私の脳裏に強烈に焼きついているバターン半島の戦場、とくに敵戦車との戦いや私の負傷について述べる。

一「敵戦車との戦い
 当時私は第二大隊本部(安田部隊)で命令受領をしていた。所属部隊は第二大隊砲小隊であったが、命令伝達以外は大隊本部で起居していた。二月七日昼下り、突然ジャングルの中から「キイー」「キイー」という甲高(かんだか)い金属音が聞こえてくる。何だろうと前方を見ると敵戦車が三台、わが陣地めがけて突進してくる。ジャングルの樹木や草を薙(な)ぎ倒してやってくる。まさか、こんなジャングルに戦車が、友軍は全く意表をつかれた。
 大轟音とともに戦車砲の弾丸が太い樹木を倒す。戦車との戦いが初めての兵士は怖ろしさの余り右往左往して逃げ出すので、戦車の格好の餌食となり、死傷者がでる。安田大隊良は「壕へ入れ」と怒鳴るが、あまり効き目がない。肉迫攻撃班が出て戦車に登り、天蓋(てんがい)を十字鍬でこじ開けようとするが、先に射たれて地上にころげおちる。
 大隊長はついに、「大隊砲で戦車をうて」と命令した。私はこの命令を隊長に伝えたが、対戦車砲である速射砲ならともかく瞬発信管をつけている大隊砲の弾丸で、果して戦車に効果があるだろうか、と疑問をもった。二門の大隊砲が火を噴いた。そのとき戦車は数メートルの近距離まで迫っていた。まともに当たった先頭の戦車は一時動かなくなったが、やがてきびすを返して後退、あとの戦車もこれに続いた。
 大隊砲の攻撃で、戦車を陣地から排除したことは一応評価されるが、近距離発射で友軍にも多くの死傷者がでた。わが大隊砲小隊も小隊長・指揮班長などが負傷、観測班の上等兵が観測器材を負ったまま死んでいた。そのため私はその日から小隊長代理、そして負傷するまで悪戦苦闘の連続だった。

ニ、遂に負傷
 昭和十七年三月二十九日はよく晴れ渡り、前方にはマリベレス山がくっきりとその雄姿を現わしていた。四月三日の神武天皇祭の総攻撃に備えて、私は陣地構築に余念がなかった。
 突然「ガアーン」という大轟音とともに辺りは真っ暗になり、私はその衝撃で地面にたたきつけられた。一瞬、戦場特有の硝煙の匂いが鼻をつく。あちこちで戦友のうめき声、断末魔の叫びがする。今まで頭上を飛んでいた敵砲弾が、樹木の梢に当たり炸裂したらしい。
 私はやおら身を起こし、立とうとしたが、右腹または右腰から、どろっと血が噴き出していて立ち上がることができなかった。思わず「俺もやられた」と叫び、「俺の生命もこれまでか」という思いが頭をよぎった。
 翌朝仮包帯所で、衛生兵を助手に軍医の砲弾破片摘出手術が始まった。「戦場だから麻酔はない。痛いだろうが辛抱せい。」と軍医はいって、ピンセットを傷口に差し込み破片をまさぐったが、腰骨に食い込んでいる破片は取れなかった。そのため軍医はヨードチンキを右手にぶっかけ、人さし指と中指の二本を傷口に入れて、ようやくにして破片を摘出した。そして軍医はひとこと、「腹でなくてよかった。」とつぶやいた。

 ″戦友の眠る常夏レイテ島″
 私は負傷したため九死に一生を得たが、バターンで戦った戦友はレイテで玉砕した。改めてめい福を祈念したい。人間最悪の所業は戦争、二度と繰り返してはならぬ。ポスト戦後五十年も平和を希求してやまない。
(鈴鹿市 76歳)

氏名 中村 眞一
タイトル 若き兵士の未明の朝食
本文  五十年前の八月十五日、蝉しぐれの降りそそぐ晴れ上がった空から暑い太陽が照りつけていた。街中は連日の敵機からの機銃掃射も止み、異様なまでに静まり返っていた。
 正午、四球真空管の古びたラジオから雑音の激しい中で終戦の大詔が放送された。
 母と妹等は空襲を避けて郊外の農家に疎開していた。職場から昼食に戻っていた父と、当時中学一年生であった私とが家にいた。
 ラジオにかじり付いていた父が「戦争が終ったァー。」と突然叫んだ。私は「神国日本」は今に「神風」が吹いて敵は降伏し、日本は戦いに必ず勝つと信じていた。
 私は「そんな馬鹿なことがあるもんか。」と、父に反論した。ラジオから流れる言葉が判じ得ぬままに何度も父に反論した。
 父は私の言葉に耳も貸さず「戦争は終った。」 「終った。」 「終った。」と、なかば独り言の様に繰り返していた。
 戦争が始まり、職烈(しれつ)な戦争のなかで生き、そして終戦、昭和六年生まれの私は当時の心境として、いつ死んでもよいと、覚悟を決めていた。
 五十年の歳月を経ても、なお深く刻まれている、あの日、あの時の体験は昨日の如く強烈な印象となって甦(よみがえ)って来る。
 その一つを書き記して置きたい。
 昭和十七年、当時の海軍は鳥羽市にある「相島」、現在観光のメッカとなっている「ミキモト真珠島」を借り受けて伊勢湾沿岸を防衛する戦略上の基地が設置されていた。文献によると、横須賀鎮守府所属の第四特攻隊の司令部が置かれ、船艇による迎撃準備が成され、湾内には機雷付設艦が停泊していた。
 その基地に、まだ二十才にも満たぬ一人の若き兵士が配属されていた。
 基地は時折「半舷(はんげん)上陸」と称して民間に一晩の宿泊を許されていた。我が家にも頼まれるままに泊まりの宿を引き受けて、時折「上陸」してくるその兵士の宿を提供していた。世話好きな母親は、不意に訪れる兵士の来訪を快く引き受け、風呂を沸かし、手料理を作り家族ぐるみの奉仕をしていた。
 そのような出会いが三、四回あったある日、彼の若き兵士は対岸の伊良湖方面の基地へ転属していった。
 終戦の年の四月末ごろか、突然、その兵士が「公用」と赤く染め抜いた腕章を巻いて、夜遅く我が家を訪れて釆た。
 家族一同に大事に扱われていた兵士は、軍の要務を帯びて伊勢湾防備隊の鳥羽の基地へ出張に来て、任務を終えて後許されて一泊の宿を願い出たのであった。一同歓迎するところでその夜は遅く寝た。
 翌日未明、台所で物音がするので床より起きて見ると、兵士と私の母が向かい合って食事を摂っていた。小さな卓祇台(ちゃぶだい)を境にして正座した二人は、ただ黙々と食事をしていた。防空上、灯火管制の厳しい時代、二燭(しょく)の電球に尚黒い布を被せた暗い電灯は二人の持つ茶碗の中の御飯のみがやけに白く見え、兵士と母の顔は定かには見えなかった。……しかし、ゆっくりゆっくりと無言の中に口に運ぶ「味噌汁と漬物」だけの未明の食事の光景は、私には一つの儀式のように感じた。
 母親のお代りを勧める声は涙声の様に思えた。前夜の遅い就床、尚未明の食事は余り進まなかった様でもあり、兵士は一杯の御飯と、それでも熱い味噌汁をすするときは「おいしい」と小さな声でつぶやいていた。
 母親は残る御飯を握り飯にして、梅干とたくわんをそえて兵士に持っていくように勧めた時、兵士はやおら正座の姿勢を改めて母親に向かい「お母さん、有難うございました。」と台所の板間に手を突いて深々と礼を言った。……母親はうつむいた兵士の背中に手を当てて軽くさすりながら声もなくうなずいていた。目には涙がいっぱいたまっていた。既に出立の時間が釆たのか兵士は急ぎ「公用」の腕章をはめ直し軍靴を履いて玄関の戸を開き、母親の作った握り飯の包みを捧げる様に持ち、挙手の礼をして明け切らぬ鳥羽の暗い街を基地へと去っていった。
 時々母は「お母さん、僕と一緒に御飯を食べて下さい。」と言った声が忘れられない、と言うていた。後で聞いた話では「特攻要員」として新たな基地に赴任するとのことであった。
 世話好きな母親は既に亡くなり、その兵士からもその後の便りもなく、行方は定かでない。健在ならばお会いしたい……。
(鳥羽市 64歳)

氏名 宇利 貞利
タイトル 海軍徴用船
本文  昭和十八年九月、海運業を営んでいた父のもとにも「第二八千代丸を海軍に徴用する。大阪に画航せよ。」という召集令状がきた。そのとき私は尾鷲尋常高等小学校高等科一年で十二歳だった。船は父と叔父の二人だけなので、私は船に乗る決心をした。
 九月十二日に、父の船長と叔父の機関長と私の三人が乗った第二八千代丸は、在郷軍人会、国防婦人会の人々の万歳の声に送られて尾鷲を出港した。
 大阪に着いてから船の修理をし、操舵室の上に機銃台の取り付けをした。二人の乗組員が配属されてきた。満蒙開拓義勇軍で満州(中国東北部)にいたが凍傷にかかり、内地にもどされ、この船に配属されたのだという。二人とも私より二歳年上で、足の親指はなかった。船は呉海軍軍需部配属となった。呉には「大和」「武蔵」をはじめとする数えきれないほどの軍艦がいたので、日本は絶対に戦争に負けないと思った。
 私たちの船は呉を根拠地として、瀬戸内海の島々の基地や、軍艦や大型の貨物船に弾薬や物資の運送をしたり、積み込みをしたりするのが任務であった。 十九年の夏ごろから呉もB29の空襲があり、海軍工廠(こうしょう)が爆撃された。秋月へ避難したが、凄い爆風で飛ばされるかと思った。
 船尾には「三重、尾鷲港」としてあるので、昼の休憩時に同郷人が訪ねてくれたことがあった。一人は岩国で、少年兵に志願して行った同級生が声を掛けてくれた。きびしい訓練のようすを話していった。もう一人は、竹原の港で声を掛けてくれた。学徒動員で来ているとのこと。腹をすかしていた。船へ上げていっしょに昼飯を食べた。
 日が経つにつれて呉に停泊する艦船の数もだんだん少なくなってきた。物資の輸送に軍艦や赤十字のマークの入った病院船を使うようになってきた。航空母艦が砂糖を積んできて、それを新居浜に運んだこともあった。
 二十年になり、尾鷲は津波で大きな被害が出たという話が伝わってきた。三月に大阪に物資を積みに行くことになったので、父と私は尾鷲に立ち寄った。家は流失を免れたが一階の天井あたりまで潮がきていた。隣近所は私の家に折り重なっていた。幸いにも家族は皆無事で叔母の家で世話になっていた。母は流れ残った家財を洗って干していた。食糧がなくて難儀している家族をあとに船に帰った。
 ある日、秋月の岸壁で火薬を満載した。ところが、艦載機の呉大空襲があり、離岸せよとの命令が出たので、沖合百メートルのブイに停船した。艦載機と日本軍艦とのものすごい戦闘になった。じつとしておれず、船室を出たり入ったりしながらその様子を見ていた。軍艦は呉を離れて少しずつこちらへやってくる。至近弾の波が何本も司令塔の高さまでのぼる。雨のように落ちてくる弾丸の破片……。空襲が終わったとき、私たちの船の近く三百メートルほどで一等巡洋艦「最上」が右に大きく傾き、呉のドックに入れられた。船のマストには直径三十センチメートルほどの弾丸の破片がささっていた。よくも助かったものだ。
 しかし、昭和二十年七月二十四日の大空襲では、父も、叔父も、二人の船員も海の藻屑と消えた。
 その日の朝、海底電線を積んで山口県上関を出港し呉に向け航行中、広島湾の中央で艦載機の大空襲に遭遇、父の「空襲だ。」の声で、私と二人の乗組員の三人は船室に入る。父は操舵室に、叔父は機関室にいた。が、間もなく、おびただしい機関銃の音がして船のエンジンが止まった。船室は煙が立ちこめ何も見えない。二人に声を掛けたが返事がない。息苦しいので外に出ると、デッキではすでに、父はうつぶせに、叔父は上向きに、二人とも血だらけで倒れていた。ゆり動かせど動かず、呼べど返事なく、船は火災をおこして燃え盛る。熱くてどうしようもなく、海に飛び込んだ。船は惰力で百メートルほど進んで行った。次々とやってくる艦載機は、泳ぐ私の上に銃弾を浴びせる。銃弾は帯状に水しぶきを上げて幾筋も私の前や横をすり抜けてゆく。そんな中で、四人を乗せた船は燃えながら沈没していった。空襲が終って私は岩国航空隊の高速艇に救助された。高速艇は燃えている船を回りながら、私の船もさがしてくれたが破片すら見つけることができなかった。岩国から呉に帰りその顛末(てんまつ)を報告した。そして、別の船に配属となり、以前のような任務についた。
 八月六日、呉から江田島に向けて航行中、広島手品の沖で、突然、目もくらむ大閃光(せんこう)があり、同時に「ドッカーン」という大音響があった。茶色っぽい煙が立ちのばり、これが暫くすると、きのこのような形になった。呉に帰ってから「ピカドン」という爆弾をアメリカ機が落としていったと聞いた。
 八月十五日敗戦となり、尾鷲に帰った。明日の食べ物さえない状態の中で、一家を支える生活が始まった。
あれから五十年たった。
(尾鷲市 65歳)

氏名 河瀬 整治
タイトル 私の青春時代
本文  昭和十九年(1994)一月十日、村はずれの庚申(こうしん)堂前で村民の皆様に「国の為君の為一身を捧げて参ります」とお別れの挨拶をし、「祝出征河瀬整治君」と大書した幟(のぼり)を先頭に各戸一人ずつ総数五十人程の人達に、当時の国鉄山田駅(現伊勢市駅)までお見送りをして戴き、駅頭では会社の方達の「君が代」と「出征兵士を送る歌」の大合唱で励まされ、九時三十六分発の汽車に乗り万歳の声援に応えて、窓から身を乗り出して手を振り声張り上げて「頑張って参ります」と出発した光景は遠い過去のようでもあり、然し私の脳裡には今も鮮やかに思い浮かべる事が出来る。
 この事は日本国中が聖戦であると信じ、天皇陛下の衝楯(みたて)となって死ぬ事は男子の本懐であり、大東亜共栄圏建設の礎となる事に何の疑いも持たない時代であった。主として東海近畿の同年の者達が広島に集合し、一日は身体検査を受け、その夜は当時の風習として身内の者がつきそってきたから、私も父と兄と旅館で最後の一夜を共にし、二日目に一ツ星の軍服と着替え広島駅で肉親の見送りを受け出発した。
 関釜連絡船で釜山に着き公会堂らしき建物の板敷きにごろ寝したと覚えている。翌日軍用列車に乗り一路現地入隊先の独立守備歩兵大隊四四一部隊が駐屯していた当時満州国三江省羅北県鳳翔へ向けて出発した。途中京城(現・ソウル)であったと思うが、満期除隊する人達とすれ違い、任務を終えて故郷へ帰る者とこれから初年兵として任地へ赴く者とが、お互い汽車の中から手を振り合った光景が眼に浮かぶ。北へ進むに従って積雪が厚くなり、汽車の蒸気が日本では見られない程白く濃いものが吐き出されていた。
 任地に着いて古兵のしごきに耐えながら三か月間小銃の基本訓練を受け、次の三か月は重機関銃の訓練と演習に明け暮れ、部隊長の検閲を受けて全員二ツ星の一等兵に昇進した。軍隊という特殊な組織の中では、昭和十九年から二十年の中国や南方での戦争状態や国内の状況を知る由もなく、只時折戦友達が新品の軍装に着替えて転属して行く先が南方らしいといううわさは耳にしたが、自分達は関東軍の精鋭である事を誇りにしながら守備地である満州(中国東北部)で勤務していた。
 昭和二十年八月七日早朝突然に起った轟音と銃声に見舞われた我々はソ連軍の侵入を知る。当時部隊の主力は国境の陣地構築に行っており、二百数十名の留守部隊であった我々は、ソ連軍の重戦車の砲火と引金を引いているだけで数十発の弾丸が連発する歩兵と対戦したが、貧弱な武器しか持たぬ我々はその地を離れ本隊に合流すべく転進に移った。
 山の中を何日も歩き飢餓と開いながら、八月十五日の敗戦も知らず、二十五日日本の将校が同行したソ連兵によって武装解除を受けた。各地に集結した軍人、軍属、開拓団、地方人は千人単位に区切られシベリヤに連れて行かれる。編成の最後尾にいた我々は三百数十人の軍人、開拓団、地方人の混成集団で十一月ソ連へ連れて行かれた。
 満州の一冬を経験していた我々も、寒さに耐え得る被服や食糧の少ないシベリヤの冬は身にこたえた。満州から徴発してきたらしい糧株(りょうまつ)は籾(もみ)米、精白前の高梁(コーリャン)、石炭ガラのまじった粟等到底人間の食せるものではなく、またその量も少なかったから四六時中空腹のままで、作業だけは一人前のノルマを達成するよう追いまくられる毎日であった。話題と云えば、何時頃帰れるだろうか、帰ったらボタ餅を腹一杯食いたいといっ
た事ばかりであった。頻を洗わず、歯も磨かず、勿論入浴もなければ洗濯も出来ない毎日であれば、シャツの縫目にはシラミが行列をつくり不衛生な宿舎の南京虫に悩まされ、それでも昼間の疲れでいつの間にか眠ってしまう。
 入ソ二年目位から糧株と被服が多少改善されたが、その頃から洗脳が始まり作業の休憩時間には日本新聞の輪読を強要され、作業出発前には民主委員会のアジティションを聞かされ、作業場までの道程では赤旗の歌を歌いながら行進し、夕食後集合がかかれば共産主義の教育であった。軍国主義の教育同様その事に同調しなければ仲間から無視され、精神的な虐待を受け、いつ帰れるかわからない他国でいい知れぬ孤独を味わう人達を見聞きしているうちに、いつの間にやら自分も染まっていった。どうにか命を持ちこたえた私は、昭和二十三年十一月三日、恵山丸で舞鶴に上陸したが当時の日本は未だ物不足で大変な時期であった。
 五十年前の我々の青春は今にして思えば灰色どころか、暗黒の時代であったわけだ。しかし現在は東西の冷戦も終り世界各地で民族紛争はあるものの日本自体は平和そのものである。この平和を未来永劫(えいごう)維持する責任は現在生きているものの責任であると思う次第である。
(御薗村 72歳)

氏名 加藤 良行
タイトル パゴタは見ていた地獄への進軍
本文  日本の無条件降伏により、既に生き地獄と化していたビルマ(現・ミャンマーの戦場から這(は)い出し、敗戦による降伏軍人として、英軍の捕虜収容所へ収容され、ラングーンで二年間屈辱の強制労働に服し、昭和二十二年七月夢に見た祖国へ生還し、戦争を仕掛けた日本で、いま平和の有難さをしみじみと噛みしめる今日である。ビルマ地獄と呼ばれた戦場では、幾度かマラリアで倒れ「明日は俺ものたれ死にか」と覚悟したこともある自分が生還出来た不思議な運命を回顧する今日この頃である。内地で犠牲になられた方々もあり、戦場で散った戦友(とも)はもう選ってはこない、これ等の方々の尊い犠牲のうえに今日の日本の繁栄があることを、決して忘れてはなるまい……。
 おもうに戦前戦中の吾々(われわれ)一般国民は、軍国主義で洗脳されていたと言えよう。吾々は軍隊で「軍隊は天皇陛下の軍隊である。上官の命令は天皇陛下のご命令と心得よ」と厳しく教育され叩き込まれた。依(よ)って大東
亜戦争も陛下のご命令と信じ、召集は陛下のお召しと心得て応召し、出征したのである。
 戦後悲惨な戦場の一つとしてビルマの戦場が話題になった。依って私がビルマで体験しこの目で見た戦場回想の一端を綴ることとするが、何分紙面に限りあり意を尽くせない点があるがお許しいただきたい。
 京都第五十三師団(以下師団という)の司令部と先発の京都歩兵一二八連隊は、厳冬の内地から常夏のマレーと仏印に至り後発部隊の到着を待つ。十九年三月ビルマではインパール攻撃隊がチンドウィン河畔へ集結中で、その背後は空白地帯となり、そこへ敵空挺旅団が降下して陣地を構築し、友軍の補給路を破壊し遮断す、依って第一線の友軍が孤立した。
 三月二十七日南方総軍は師団に対し、後続部隊の集結を待たずに直ちにビルマヘ前進を命じ、ビルマに入るやビルマ方面軍は、北ビルマの敵空挺部隊を撃滅し翌友軍救出を命じた。師団はインドウへ前進し仏印から駆けつけた歩兵一二八連隊二個大隊をして五月初めモール空挺陣地攻撃を開始、五月に入り内地から直行した久居歩兵一五一連隊一個大隊が合流し残敵追撃戦となる。されど友軍機は一機も飛ばず頭上は敵機のみ、依ってジャングル内を進撃しホーピンを経て、更にナムクイン陣地を激戦の上撃滅するも我が方の損害大、この直前より本格的な雨季に入りマラリア、赤痢など風土病猛威をふるい患者続出し師団兵力半減状態となるも、夜間泥沼の中をモガウンに至り孤立友軍を救出す。されど急進軍の為泥中に倒れし者収容されず悲劇を生むことになる。師胃第一線となるも弾薬糧抹(りょうまつ)の補給なし。ところが米英中の連合軍が猛反撃を開始し、こちらが一発撃てば百発撃ち返してくる近代兵器には勝てず。じりじりとジャングルを後退し、立止っては戦う撤退作戦となる。
 この頃インパール攻撃も物資の補給なく撤退に転じていた。昔から腹がへっては戦にならんと言うが、近代戦争で空軍ゼロ、弾薬食糧医薬品なしでは戦争にならんだけでなく、日本軍撤退の道中には生き地獄絵巻を繰り広げ、おそらく白骨街道になっていたことと思う。
 二十年三月にはイラワジ河を挟んで死闘を演じていたが二十日頃後方へ敵戦車約二千が突入しラングーン街道を遮断し友軍を包囲す。依って東方ジャングル地帯へ撤退、六月には南端のシッタン河口東岸へ追い詰められ、逃げ遅れた部隊やラングーン在留邦人の脱出支援となり、シェジンで渡河となったが、渡河中に空襲に遭い雨季の濁流へ飛び込んだ溺死体が昼夜吾々の眼下を流れ下った。終戦となったが吾々は脱出完了後の九月に脱出者の通ったジャングル内のけもの道を後退したが、そこはビルマ地獄の縮図となっていた。
 ビルマ戦線は北端から南端まで日本軍の歩いた跡は生き地獄街道に変貌していたと言える。無理もない、「糧株は敵に求めヨ!」と一喝して強行させたインパール作戦、これが全軍を振り廻したもので、かかる無謀な命令の犠牲となった戦没戦友達の憤りくやしさを代弁し得る者は吾々をおいて他にはない。依ってここに概要を綴り、せめて戦没諸兄への供養の一灯になればと念ずるものである。ビルマ各地の丘にはパゴダ(仏塔)が聳え立ち、下界を御照覧である。日本軍の補給なき進撃は地獄への進軍になることをお見通しだったと思う。
 人命を軽視し、人間を消耗品扱いにして、個人的には何の恨みもない人間どうしが互いに殺し合う、残酷極まる戦争は人類の敵である。この様な戦争を二度と再び繰り返すことがないよう、切に祈るものである。
(四日市市 75歳)

氏名 筒井 寿尓
タイトル 九死に一生
本文  戦争は日を追って激列を極め内地も戦場となり、連日の敵機空襲により都市は焦土と化し、それでも尚本土決戦で勝利を信じ歯を喰いしばって戦を続けた将兵や国民は、長崎、広島の原爆投下により多数の犠牲者を出し最早これまでと終戦となったのは五十年前、尊い命を国の為に捧げて散った若者は二度と帰ることなく五十回忌を迎えました。
 私も赤紙一枚で海軍に召集され短期間に厳しい訓練で″義は山よりも尚重く死はこう毛より軽し″と覚悟せよとの軍人精神の基本をみっちり注入され喜び勇んで死地(戦場)に向かったものです。私は船舶警戒兵として武装商船岩木丸に乗組みました。海なんて見た事もなく、まして船に至っては一度も乗った事のない山猿です。ものすごく船酔いをしました。
 その時隊長が直心棒(野球のバットと同じ)で海軍軍人が船に酔っていては使い物にならんと尻を四発なぐられ、その痛さは今でも忘れる事が出来ません。でもこれは本当の意味で愛の鞭でした。それ以来お蔭でその痛さが身に染みて絶対酔わなくなりました。よ-し思う存分国の為に戦うぞと敵愾(てきがい)心に燃えた二十一才の青年でした。
 船は北海道小樽を基地として、武器弾薬、食糧、人員を搭載し七隻船団とし護衛艦に護られ千島列島最北端の占守島及び幌蓮島へ出港しました。昭和十九年四月敵潜水艦の魚雷攻撃、空中よりの攻撃に対戦しながら無事目的地へ到着しました。帰りも辛うじて北海道へ戻りました。
 第二回の目的地は中千島松輪島へ五隻船団で青森県大湊港を出港、函館他の港で搭載を完了し目的地へ航海を続けました。途中幾度となく攻撃を受け、護衛艦共々交戦を続けながら松輪島へ入港、即荷揚げ、人員の下船を終えました。帰途は現地(松輪島)でアリューシャン″キスカ島″を撤収して同島に集結していた兵員を多数乗せ北海道へ向け夕方出港しました。
 明日は内地へ帰れると、キスカ島を撤収した兵達は甲板に出て各自故郷を思い浮かべながら喜びに充ちあふれる涙をおさえてはしゃいでいたのが印象的でした。なんとしてもこの兵隊達を無事内地へ送り届けたいの一念でした。然しこの航海が悲劇の最期を遂げるとは誰が予測したでしょうか? 勿論全船に分乗です。夜航海で、翌朝濃霧のため船団はバラバラとなり無線連絡をすると敵潜水艦にキャッチされるので、霧の晴れるのを待って船団再編成のため船足を止め、散らばっていた各船は次々と集合して釆て四隻の船舶と護衛艦二隻が集合完了、一隻は遠く船団より離れ船影は見えない海上からSOSを発信、潜水艦の攻撃を受けている旨を受信したその直後、我が船団も敵潜水艦に包囲され一斉魚雷攻撃され、先ず護衛艦二隻が沈没、断末魔の汽笛が艦影が水面より見えなくなるまで鳴り響いて誰一人飛び込む者はなく全員艦と運命を共にしました。
 護衛艦に引続いて商船も全船沈没。私達の船のみ撃沈を免れ全速力で出港した松輪島へ引返しました。夕方入港一夜が明け、やっと安堵感で笑顔が戻ったのも束の間、見張りをしていた警戒兵から「左90度敵潜水艦」と悲壮な声で連絡、時を置かず「ドカーン」と大音響と共に戦闘配置に着く間もなく船は真っ二つに折れ沈没、便乗の兵隊や船員達も大混乱となり、船と共に海中に没する者、必死で厳寒の海に飛び込む者、又爆風で海中に飛ばされた者、私達は最後まで船を離れる事が出来ないため、飛込まずに残っていたが、既に死体は数知れず浮き沈みし、飛込んでも冷たい水中で到底長時間命を保つ事は不可能で体の自由もきかず,救助船も潜水艦が浮上して機銃攻撃をしているので思う様に活動が出来ない状況です。
 敵潜水艦は浮上してアザ笑うかの様に英語でペラペラしゃべりながら機銃攻撃を容赦なく敢行してきます。
 攻撃も終り救助艇に助けられた時は百人位は生きていたと思いますが、救助後次々死んで行き、残ったのは僅か十数名、戦死した将兵や船員(軍属)の数は全船団でおびただしい数です。
 九死に一生を得たものの、明日は内地へ帰れると喜んでいた兵隊達は一人も帰る事なく厳寒の海深く眠っている。ああ生きて故郷に帰りたかっただろうにと思い複雑な気持ちでした。
 死に直面し天皇陛下万歳と叫ぶ者、悲壮な声でお母さ-んと母を呼びながら死んでいった者、それは今でも脳裏から離れません。
 以上が戦後五十年、私の戦中の貴重な体験です。
(美杉村 72歳)

氏名 金五  満
タイトル 軍国少年の挽歌
本文  『海軍二等水兵を命ず』 昭和十九年五月二十五日、時に十五才、いや正確には十四才と七か月。海軍特別年少兵また一人誕生す。
 歓呼の声や日の丸の旗に送られ、故郷をあとに一昼夜、緊張に震えながら大竹海兵団の営門をくぐつた。あれから五十一年過ぎたのに、まるで昨日の事のように憶えている。
 海軍特別年少兵は、一般に『特年兵』と呼ばれた。昭和十七年九月第一期生が生まれ、十九年は第三期、この年、呉鎮守府の大竹(広島県)には九首四十名が入団した。同期は皆、十四、十五才の子供達、今でいえば中学三年生になったばかりといったところか。
 同じ少年兵でも歌になった『予科練』とか、陸軍の『少年戦車兵』等は、さかんに宣伝されかっこよかったが、我が特年兵の存在を知る人は意外に少ない。
 それ故か『幻の兵隊』といわれたり、また『昭和の白虎隊』と詠んだ詩人もいるにはいたが、ようするに、帝国海軍が産んだ史上最年少の兵隊だったのである。
 この十四才の少年を、一途に戦場へとかり立てたものは一体何であったのか。
 昭和十八年、戦局の行方など小学生に判るはずもなかったが、アッツ島では守備隊が玉砕し、また連合艦隊司令長官が壮烈な戦死を遂げたのも、この年の四月であった。
 決戦の秋きたる。少国民は何を為すべき。答は一つ、海ゆかば水漬く屍……、山本長官に続け、である。学校卒業をひかえ、私は迷いなく海軍を志願した。ただ戦争に勝たねばならない、ひたすらそう思った。『お国の為に尽せ』と朝に夕に叩きこまれてきた。
 死の本当の意味を知るにはあまりにも幼なすぎたし、親達もよく許してくれたと、今でも不思議に思うのだが……。
 かくして試験に合格、卒業前には早々と採用通知がきて『大竹海兵団』に入団が決定された。嬉しかった。行先に死が待っているというのに。これで、お国の為、少しは役に立てるのだと、子供心にも、それがたまらなく嬉しかった。
 忠君愛国、滅私奉公、撃ちてし止まん……。絵にかいたような軍国少年であった。私の入団は五月で、卒業から二か月はど間があったが、同じように合格した友の一人は、晴れの卒業式も待たず二月に、海軍通信学校に行ってしまった。俺も直ぐ行く、今度は靖国で会おうぜ、なんてのは、てれくさくてとても口にはだせなかったが……。
 やがて私も待望の海兵団に入った。だがそこは、まさしく地獄の一丁目。かねて覚悟はしていたものの、シヤバでは想像もつかぬ厳しい訓練(基礎教育)が待ち構えていた。夜は夜で、兵舎の中は鉄拳とバッター(木刀で尻を叩く)の嵐が吹きまくった。理由なんかどうでもよい、『海軍魂』を入れてやる、という鬼教班長の暖かい思いやり?あれもこれも、総て一人前の水兵になるためと、少年達は歯をくいしばって必死に耐えた。
 超猛訓練と、罰直と、こうして徐々に徐々に、いつしか兵隊らしくなっていった。
 総員起しから巡検まで、およそ自由のきかない日常の中で、楽しみはやはり食う事のみ。でも、あの頃何故ああも腹が減ったのか。食った先から腹が減る、という感じのなさけない日々であった。
 兵舎の拡声器が告げる。
 『食事、食事、よく噛んでゆっくり食べよ』そして静かに音楽が流れる。さすが海軍、とこれを真に受けたのは子供。最初そのとおりのんびりと食っていたが、程なくして教班長の怒声がとんだ。拡声器より大きく。
 『貴様らそんな事で戦さができるか、バカモン!早メシ早グソ芸のうち、分かったか!』
 食前食後、三百名の分隊員が斉唱する、ありがたい言葉(諺)があった。
 著とらば天地御代(アメツチミヨ)の御恵み、君と親との恩を味わへ
 箸を置く時に思えよ報恩の、道に怠りありはせぬかと
とてもとても、君の恩も、親の恩も味わう余裕などありはしなかったが……。 つらい新兵にも月日は流れる。鍛え抜かれて十か月、勇躍、海兵団を巣立つ時がきた。だが何たる不運(幸運)、その頃には、もう我々を乗せてくれる艦も少なく、大方は内地の特攻基地や、航空隊に一兵員として配属され、空しく終戦を迎えるに至った。故に特年三期の戦死者は少ない。
 がしかし、先輩はとなれば話は別。一期、二期併せて六千百名。そのうち熱帯の海にまた孤島に、力戦及ばず散華せる童顔の特年兵、実に三千二百名。
 共に海軍に入った級友の一人は、戦いが終わって乗艦が内地帰投中に触雷し、そして遂に選ることはなかった。痛恨ここに極まる。
 今なお深海に眠る、汚れなき幼な顔の戦友を偲びつつ……。
(鈴鹿市 65歳)

氏名 廉  隆司
タイトル 終戦前後の回想記
本文 ニューギニア、オーストラリアの北に位置するこの大きな島で、半世紀前日本草と米豪軍との苛烈な戦いがあった事を、皆様、特に若い方々は御存知でしょうか。
 終戦時、私は東部ニューギニア(現在パプアニューギニア)の山南地区の小部落に三名で守備についていました。
 当時、連合軍の包囲圧迫は日を追ってはげしく戦線は錯綜し、七月には第十八軍全員玉砕の命があり、その時期は概ね九月頃と伝達されていました。小銃弾十発足らず、手榴弾一発では最後の戦いは数分で終った事でしょう。
 終戦を知ったのは一週間位後でした。しかし、敵の銃爆撃、砲声は十六日以降はたと止み、「日本降伏、直ちに戦闘を停めよ」と云うビラが散布され、何時ものご馳走のカラー絵入り降伏勧告ビラとは違うため、三名で敵の謀略だ、いや負けたのだ、俺達は豪州で強制労働させられる、いや日本へ帰れるのだ等、話し合った事を覚えています。
 数日後、連隊本部へ集結、何日間かの山越えでしたが、十九年七月、十八草あげてのアイタペ攻撃で食糧、弾薬つき、二十日程で打切られ、自活のため山越えをした時の苦労と比べれば生きる希望を得た山替えでした。海岸ボイキンで武装解除、十八軍全員ムシウ烏に送られ捕虜生活、ここでも飢餓、病気のため多くの兵隊が亡くなりました。
 二十一年早春、復員船「高栄丸」に乗り、十日後浦賀に上陸、異常な寒さに閉口した事を覚えています。
 思えば日本は大東亜共栄の名の下に、北へ、西へ、南へと戦線拡大、多くの国々へ犠牲を強いました。東部ニューギニアにおいても然り、原始生活に近い暮らし(特に山の部族)ではあったが、平穏な生活をいとなんでいた処へ突然武力進出、いや応なしに戦争にまきこみ、三万とも四万とも云う犠牲者を出してしまいました。
 私の限られた戦争体験ですが、特に若い方々に知って欲しい事を話しましょう。
 十八軍、十四万とも云われた兵隊が生還復員者一万名、十三万人の日本兵が戦没、私の所属していた連隊も例外ではありませんでした。
 戦後の遺骨収集は、厚生省発表では四万七千柱とか。アイタペ作戦前、転進と云う名の下ひたすら西へ(ウエワク地区)後退していた頃、セピック川の大湿地帯を通過した時、放置された遺体中、既に白骨化したおびただしい遺体の数、正に地獄絵の様で今でも脳裏に焼きつけられています。
 アイタペ戦後の山準え時も同様、飢餓と病魔のためでした。恐らく十万近い遺体が土と化して彼の地に眠っている事を忘れてはなりません。又、十八軍の中、二十師団には多数朝鮮の人達が動員され、日本名で戦没しています。台湾の高砂族(先住民族)も同様でした。その遺族は終戦後、日本国簿を離れたためその後の事はどの様になっているのでしょうか。
 又、アイタペ戦後山入りした三万の兵隊は、終戦迄パプアの人達の協力で、彼等の乏しい食料(主食はサゴ椰子の澱粉や芋類)の提供、勿論何の報酬もなく私達を助けた浮朴な彼等の行為について感謝の言葉もありません。このことも知って欲しいのです。
 戦争は人間性を失い、時として狂気の感情が支配します。勿論少数ではありましたが、人間性を通した人達もいたとは思いますが、私は例外ではありませんでした。私も多くの戦友を失いましたが、あの時ああすれば良かったのではないかと、くやまれるばかりです。又終戦直前の部落民離反についても、部族の生死を考えての酋長の苦渋に満ちた決断だったのであろう事を理解すべきでした。
 終戦から五十年、生きて帰ったことに様々な負い目を引きずって私も満七十三才となりました。
 東部ニューギニアは一九七五年に独立、パプアニューギニアとなりました。この国の近況については深くは知りませんが、時折の報道によれば、日本の投資が木材と漁業に集中され、環境破壊や大量漁獲のため住民の生活がおびやかされている等、芳しからぬ話を耳にします。又彼の国へのODA援助の実情はどうなっているか、残念ながらその情報はあまり知らされていません。
 日本はパプア住民を思いもよらぬ戦争に巻きこみ、三年の間苦難犠牲を強いました。繰りかえす棟ですが、一万名の兵隊が生き残り得たのは彼等のおかげでした。日本はパプア住民に大きな借りがある事を忘れてはなりません。
 ODA援助についても、その趣旨の原点に立ち援助を受ける国のためのものであり、いやしくも日本企業優先のための援助ではないことを銘記せねばなりません。
 今はただ彼の国の平和な発展を祈るばかりです。
(津市 73歳)

氏名 岡  忠郎
タイトル 傷痕いまだ癒えず
本文  太平洋戦争中、私も海軍軍人の一員であった。五十年前を想起してみると、いろいろなことがよみがえってくる。
 昭和十九年十一月某日の深夜、輸送船で陸軍兵士と軍需物資を南方戦線へ輸送中、台湾沖で米軍の魚雷攻撃を受け、船は沈没、私は夜の海に五時間余漂った末、日本海軍の掃海艇に救助され死をまぬがれた。このとき、乗船していた陸海軍軍人・軍属六百余名が海に消えた。私は運がよかったのか? 否、戦争とはそんな単純なものではない。
 救助された私は、台湾・高雄の海軍病院に収容され一か月入院、一旦、乗船前の勤務地武山海兵団に戻った。
 年が明けて二十年五月、兵長に進級すると同時に横須賀海兵団へ転属となった。それ以来、猛烈な訓練の明け暮れとなった。血へどを何度も吐いた。爆雷を両舷(げん)に搭載した小型木造艇で、日夜、敵艦への体当たり訓練である。いわゆる肉弾攻撃による使い捨て隊員、俗にいう特攻隊員の一員にされたのだ。
 私の出撃は昭和二十年七月末日に予定されていたが、直前になって八月二十日に延期された。これで二度目の命拾いをしたことになる。しかし、出撃は必至である。攻撃先は、たぶん沖縄だろうと覚悟は決めていた。国家のために死ぬのである。何も思い残すことはなかった。怖いとも思わなかった。若い情熱だけが、体じゅうにたぎっていた。ところが、出陣五日前の十五日になって終戦となった。なぜだ! そんな思いだった。
 かくして私は、三度目の命拾いをした。戦争終結がもし五、六日延びていたら、私は間違いなく″名誉の戦死″をしたはずであった。その私が、あれから五十年も生き延びているということを、どう考えたらいいのだろうか。ただ、私のように紙一重の状態で生き残った人のいることも事実である。
 三度も死をまぬがれたという命運は、運がよかったというのでもなく、偶然そうなったという思いもない。それは、あの過酷な戦争という渦中において、そんなにたやすく運や偶然に巡り合えるとは考えられないからだ。
 ただ、死ぬものは死に、生きるものは生きたということは、遷否天賦(うんぶてんぶ)といえなくもないが、他面、戦争はそれはど非情であり残酷だという証明でもある。しかし、戦争によって″死″という運命にさらされた本人やその遺族には、耐えがたいものがあったはずである。それゆえに、これらの人たちに対する憐憫(れんびん)の情と、生き残った罪悪感みたいなものが今も心の底にある。その思いは薄れるどころか、五十年経った今も、炎のように燃えさかってくるほどである。
 僚友が出撃する前夜、彼は、
「ひと足先に行くぞ。」
と言った。
「うん。」
「お前も後から来いよ。」
「うん、おれもすぐ行く。成功を信じとるぞ。」
「おおっ。」
 淡々とした短い会話の中に、涙はなかった。それは、大日本帝国の盛運を信じていたからだ。
 その翌日、海軍伝統の「帽振れっ」の号令で出撃隊員に別れを惜しんだときの情景は、私にとって幻影ではないのだ。今日は友の身なれど明日は我が身、という切迫した当時の心中は、今思い出すも腹立たしいかぎりであり、その傷痕はいまも癒(い)えていない。
 当時、私は十七歳、十八歳を軍隊で過ごしたが、特に妻子を残して死んでいった人たちの心情には、計り知れないものがある。わが身を鴻毛(こうもう)の軽きに置き、″海征(ゆ)かば水漬く屍(かばね)、山征かば草生(む)す屍”となることが悠久の大義に生きる道と教えられた果てが、″死″と″敗戦″であった。現在のわが国の繁栄は、そうした犠牲者の上に成り立っていることを真剣に考えねばなるまい。
 私たちは、この豊かになった背景に何があったのかをじっくりと考え、もっと謙虚に生き、平和を愛する国民として責任ある行動を起こすべきであろう。そのことが、ひいては国に殉じた人々への鎮魂にもなると考えるからである。
(四日市市 69歳)

氏名 南  亮祐
タイトル 台湾海峡を越えて(少年兵の記)
本文  「貴様らが内地へ帰るときの姿は蒲鉾だ。遺骨は戻らない。代りに、封筒に遺髪と爪を切って入れよ。遺言のある者は入れてよし。」
 日本の敗戦の色濃くなった昭和二十年一月に、所沢陸軍航空整備学校で、特別幹部候補生として重爆撃機の整備技術を修得。台湾に転属となり、門司港から出航することとなった。
 当時、年令は満十五才、中学三年の途中から応募、約十か月間、一人前の下士官に仕上げるための厳しい訓練で体力の限界までしごかれ、精神力で耐え抜いた。親にはとても見せられない凄惨を極めた鍛え方だった。
 「足を半歩開け。」 「歯を食いしばれ。」 の怒号と共に、両手に強く握りしめた厚い皮のスリッパで両頬を打ち据えられ、脳震卓で倒れた。気がついた時は戦友達に寝台に運ばれていた。頬からは血脂が湊み出て固結し、ハンバーグを両頼に貼りつけたようで、口が開かなかった。食べなければ訓練に耐えられないので、戦友に味噌汁だけ流し込んでもらったが歯の当たった口内は裂け、訓練で流れる汗が頬に渉みる痛さで人間の形相ではなかった。
 訓練半ばの頃、教官の一撃でコンクリートの床に後頭部から落ちて失神、ふと意識が戻り、自分は今、何をしているのだろうかと、周囲を見廻すと、整然と隊列を組んで飛行場に向かって走っていた。駆足の震動で脳が正常に戻ったのだろうか、無意識下でも、叩き込まれた訓練通りに体が反応して、集団行動が出来るまでになっていたのだと思う。
 下関までの夜行列車は、降り積もった雪の中をひた走り、再び生きて帰ることのない故郷紀州から、無情に引き離して行った。
 門司港で、南方に向かう兵士は、膨れ上がって全身が重く感じる程両腕両胸に予防注射を受けた。然し、悪疫より先に命を襲う魚雷攻撃への対応が頭を離れず、注射待ちの時間を階段で、右手を前に伸ばして落ちる方向と体の安定をはかり、左手で睾丸を握って、垂直姿勢のまま海に飛び込む訓練を繰り返し行った。輸送船は五千四百屯(トン)のメルボルン丸だった。
 昭和二十年二月十二日に運命の出航、今生の別れとなる母の住む故国を寒風のデッキで万感の想いをこめて見おさめた。やがて内地の山が不審な方向に消えて行くことに気付いた時は、玄界灘を北に進路をとっていた。仁川沖まで北上後黄海を横断して、右手遠くに雪を頂いた華南の山々を仰ぎながら南シナ海を福州付近まで南下、台湾海峡を渡って基隆に入港したのは門司出航一週間目の深夜だった。
 この間の船の生活は「人権」のかけらもなかった。船室は押入れの高さに仕切られ、立っては歩けず、前列の三人の間に伸ばした脚を挟まれた形で坐り、夜も体を横に出来ず前後左右お互いに凭(もた)れ合って眠った。上は満州(中国東北部)から来た部隊で、朝日の射す頃床板の隙間から虱(しらみ)がバラバラと首筋に降ってくるのが見えるが、体を寄せて避けることも出来ず、冷たい海に沈むまでのお互いの命を尊重して付合って行くことにした。食器代わりの飯盆は一度も洗った事はなく、船が南下するにつれて蒸れて臭くなった飯盆に、また次の食事時に盛って手渡しで送り込んで食べたので、全員アメーバ赤痢に罹り下痢に悩まされた。下痢の体で便所への出入りがまた大変で、前に坐っている兵を掻き分け、後に坐っている兵の顔や胸を蹴って泳ぐようにして這い出し、帰りは船の揺れでこばれた便所を歩いた靴で、再び戦友の背を蹴って潜り込んだ。便所は船の外、波の上に梯子(はしご)を突き出した形の危険なもので、うねりで船が傾くと振り落されないよう両手でしがみつかねばならず、大波が尻に届くくらいに盛り上がってくるので、慣れるまではカが入らなかった。便所の帰りに船尾に出て、今では数千粁(キロメートル)も隔てられてしまった内地の方向に目をやると、鉛色をした鱶(ふか)の群れが先を争ってどこまでも追尾してくるのが見えた。相次ぐ輸送船の沈没で人間の味をしめた鱶であり、これが所沢を出発時に班長から引導を渡された「自分の遺骨の身代りとなって内地にもどってくれる蒲鉾」の原料であることを実感出来た。
 初めて見る基隆は、夢見るような淡い港の灯と、煙るような霧雨に包まれて静かに眠っていた。無事で上陸は出来ないと覚悟をしていたので、あまりに静かな、戦争には拘(かかわ)りのないような夢幻の港の景色の中に浸って、これが死後の世界なのか、こんなに苦しまずに仏の住む世界に導き入れてもらうことが出来たのかと、デッキで夜霧に濡れながら自分の頬を抓(つね)って見たが、痛かったので本当に生きて台湾に上陸できるのだと嬉しさがどっとこみ上げて来たのを忘れることが出来ない。
 マラリヤで苦しんだこともあったが、沖縄特攻の支援、敗戦後の強制労働にも耐えて、再び生きて祖国の土を踏むことが出来た。爾来二度の人生を授かった事に感謝して、自分なりに精一杯に生きて来た。本年四月十五日に護国神社での二十三柱の戦友の慰霊祭に参列して戦後の一つの区切りが出来た。
(松阪市 66歳)

氏名 沖本 豊一
タイトル 波濤の中に浮かんだ母のわらべ歌
本文   一つ  ひなたの山道を
  二つ  二人で行きました
  三つ  港の蒸気船
  四つ  他国(よそ)から着きました
 これは大正の末から昭和の始め頃、私が母からよく歌って聞かされたわらべ歌である。古稀を越えた今も時折口ずさむことがある。歌は、「五つ急いで見にゆけば、六つ向こうの青空に、七つならんだ白い雲」と続いてゆく。メロディーもうろ覚えながら歌っていると、幼い日の情景や、まだ若かった母のことなどがかすかに思い出され、さらには、南の海で地獄を見ていたあの時のことまでよみがえってくるのである。
「グァーン」という大音響とともに船はぐらりと左に傾き、エンジンの音がピクリと止まった。敵機の機銃掃射のため死傷者が続出し甲板は血の海だ。救命ポートも穴だらけである。船の傾斜は大きく沈没の時は刻々と迫る。やがて退船命令が出た。船を諦め、兵隊たちは救命胴衣をつけて海に飛び込む。私も心を決め右舷から飛び込んだ。昭和二十年一月十二日、輸送船神祗丸が仏領印度支那のサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)からシンガポールヘ向かう途中のことであった。
 神祗丸は入隊後間もない十九、二十歳の初年兵の私たちを主体に、千四、五百名の陸軍の兵隊を満載していた。前年十二月十四日、海軍の護送船団の中に入り、福岡県の三池港を出てサイゴンまで来たのだが、そこで船団から離れ、他の四隻の輸送船とともに南シナ海を南下しはじめて間もなく、米海軍空母の艦載機の編隊に爆撃されたのである。神祗丸は左舷に至近弾を受け舷側を破られ浸水、僚船のフランス丸は炎上、後に沈没。他の三隻は必死に退避するという状況となった。
 午後一時過ぎ、神祗丸の七千トンの船体は海中に没した。執ように攻撃していた敵機もようやく引き揚げて行く。海面には無数の兵隊たちが浮いていた。みんな元気で互いに励まし合っていたが、時間がたつにつ
れ次第に心細くなってくる。南の海でも体が冷えてくる。三隻の僚船は救助に来てくれないのか、救命胴衣もやがては浮力がなくなる。自分はもうここで死んでしまうのかと思った。
 と、すぐ近くで「おかあさ-ん、おかあさ-ん」と叫ぶ声がした。顔は見えない。母を思い出してしまった私も。ふと、ふるさとの海が脳裏をよぎる。四、五歳の頃まで育ったふるさとの、私の記憶にある鳥羽の海はこんな海ではなかった。いつも穏やかで平和な海だった。幼い私は母の背中でそんな海を見ていた。そして母が歌う歌を聞いていた。それはなにかもの寂しいような歌だった。私はその歌が好きだったことを覚えている。私をおぶった母は小さい声で歌い、歌に合わせて歩いていた。懐かしい磯のにおいがしていたような気がする。もう遠い遠い昔のことだ。幻のような穏やかな日々だった。もうあのような平和な生活には戻れない。何時間たったのだろうか、やはり周囲に島影一つ見えなかった。
 来た、船だ。船が来た。あの三隻が、また敵機に攻撃される危険を冒して救助に戻って来てくれた。(当時は船舶の喪失が多大となったため、救助より退避を優先させるとのことであった)有難い、地獄に仏だった。私は報国丸という小型船にやっと救い上げられた。やれやれだった。ところが、しばらくすると船は走り出した。まだ多数の兵隊が波間に漂い必死に助けを求めている。だが船は見捨てて行く。再度の敵襲が必至なので時間がないのだという。残酷だ、戦争は残酷である。申し訳ない、残された戦友たちよ、自分らだけが助かって。果然、敵機は来襲した。三隻の中の大型船、第三共栄丸は爆弾の直撃を受け、真っ二つになってたちまち沈んでしまった。この船には最も多くの兵隊が救助されていたが全員戦死であった。結局、報国丸ほか、伏見丸の二隻のみが、三百名足らずになった私たちを乗せ、辛うじてサイゴンに近いサンジャック泊地まで帰り着いたのであった。
 戦後、無事に帰国できた私は永年住んでいた大阪から鳥羽へ帰り、その後の人生は故郷で過ごしてきた。危急のさ中に、束の間脳裏に浮かんだあの歌のことはいつかまたすっかり忘れ果てていた。ところが二十年ほど前、母の死後ふとまた思い出した。それから人に尋ねたり、わらべ歌の本を調べたりして、あらためてこの歌の歌詞を知ることができた。時折、「一つ、ひなたの山道を……二つ、二人で……」と口ずさみながら海辺を歩いている時、やはり、その海の果てに眠る亡き戦友たちのあの若い顔がよみがえってくる。今はただ亡き人たちの冥福を祈るばかりである。これからも私はこの歌は忘れないだろう。
  八つ  山家(やまが)のおさの音
  九つ  ここまで聞こえます
    とんとんからりとんからり
  十で港も暮れました
    とうに港も暮れました
 (鳥羽市 70歳)

氏名 高木 一臣
タイトル トマトと兵隊
  祖国の運命よりトマトの運命を心配した或る不忠なる兵士の物語
本文  朝鮮に近いソ満国境に駐屯する、私の所属していた重砲部隊に移動命令が下ったのは終戦を約三か月先に控えた一九四五年五月のことだった。勿論、終戦が近づいているということなど当時知る由もなかった。行く先は日本。精鋭を謳われた関東軍の本土移動は刻一刻と近づいて来る米軍の日本本土上陸に備えてのことであった。米国の潜水艦がうようよする日本海を薄氷を踏む想いで渡った私たちの輸送船が無事到着したのは新潟港。そこで国防婦人会の方々から梅干し入りのお握りを戴いた時、日本に帰ったという実感をヒシヒシと身に感じたものである。そのお握りの美味しかったこと……。口にこそ出さねど日本の敗色は誰の眼にも明らか、私たちを待ち受けているのは米軍との決戦であり、それは死を意味するものであることが分かっていても生きて再び戻れぬと信じていた祖国の土を踏めたということは望外の喜びであった。もう死んでも悔いなしという気持だった。
 待機場所として当てられた場所は神奈川県平塚市から四粁(キロメートル)程奥に入った相模湾を見下す小高い丘の上の古寺であった。当時、米軍は相模湾から上陸して来るだろうと見て、これを迎撃するため山中に穴を掘り、そこに大砲を据えつけるのが私たちに課せられた仕事。昼夜兼行で続けられる作業の苦しさもさることながら、それにも増して私たちを苦しめたのが空腹。当時の食糧不足を反映して私たちに与えられる食事は雀の涙程、重労働の体には耐えられる筈がなかった。そこで″遠征″と称して寺を脱け出し付近の畑からトマトやジャガイモを盗んで空腹を癒(いや)すのが兵隊の間の常習となっていた。無断外出の禁を犯してのこと故、見つかれば脱営の罪を問われることは勿論。が、空腹の辛さは懲罰の怖さを遥(はる)かに越えるものであった。
 八月十五日、隙(すき)を狙って″遠征″に出掛けトマト数個を抱えて帰って来ると本堂は空っぽ、境内の広場に兵隊が整列している。「しまった!!非常呼集がかかった!!点呼で俺のいないことがばれたろう。こりゃ大変!!」と取り敢えず夜中に取りに来る積もりでトマトを裏庭に埋め様子を窺うと、どうもおかしい。ラジオの放送を皆静聴している。「忍び難きを忍び……」という言葉が耳に入ったが、いつもの如く「最後まで我慢して戦え」と言っているのだろう位に思って、気がつかれない儘(まま)に、そっと列の後尾に近づき「どうしたんだ」と戦友の一人に訊くと「玉音放送」とのことで「日本は敗け無条件降伏したのだ」と言う。負けるとは思っていたが、狂信的教育のお蔭で降伏するとは思っていなかったので、びっくりしたものの、このドサクサでトマトを見つからなかったという安堵感が先に立ったのは我ながら″不忠の臣″だと思ったものである。部隊長が悲痛な声音で泣きながら「我々は敗けたのだ。部隊は解散する」と言った時、列の中からアチコチで啜(すす)り泣きが起こり、それが号泣に変わると「俺たちは降伏しない。最後まで踏み止どまって斬死する」と
いう叫び声が起こり、これに和してアチコチで「最後の一兵まで戦おう。帰りたい奴は裏切者として戦陣の血祭りに上げる」と抜身の日本刀を振り廻す者まで現れた。こんな空気の中で「帰る」などと言い出せるものではない。
 生きて虜囚の辱めを受けず。敗ければ米国の奴隷にされると教えこまれていた私が「生きて甲斐なき身、斬死でもするか」と考えていると「高木、どうする」と近づいてきた兵隊がいる。東大出身だが″かぶれている″とかで昇進せず″万年上等兵″ のアダ名を奉っていた古参兵である。「斬・€だ」と答えると「馬鹿言うな!!お前たちは軍閥に欺(だま)されていたのだ。本当の日本はこれから生まれる。日本はこれからよくなるんだ。それにはお前たちのような若い力が必要だ。臆病者といわれてもいいから犬死にしないで帰るんだ。俺は帰るよ」と言う。何故か、彼の言葉には抗えないカがあった。強い訴えがあった。平素寝ころんで煙草ばかりふかしていたグウタラ万年上等兵の姿が急に大きく見えてきた。
 十人程の仲間と共に部隊長に帰ることを申し出ると「軍服を脱いで行け」と言う。夏だから寒くはないもののランニングに跨下(こした)では敗残兵そっくりで情けないと思ったが仕様がない。人眼を避けるため日の暮れるのを待って平塚駅まで夜半の道を急いだ。駅では空襲の被災者や帰還兵でゴッタ返していた。一般市民は軍服姿の兵隊を見ると「帰るのか!!お前等のような意気地のない兵隊がいたから負けたんだ」と罵ったり果ては石を投げつける者までいた。私たちは裸に近い姿のお蔭で″空爆羅災者″と間違われ「お気の毒に」とお握りまでくれる人がいた。禍転じて福とやら、一時は怨めしく思った部隊長の顔がよく見えてきたから現金なものである。
 ここで皆と別れ帰途についたが米軍の空襲で線路や橋梁が所々で破壊されており平素なら汽車で故郷の三重県尾鷲まで八時間位のところが二十四時間近く掛った。懐かしの家についたのは夜の十二時近く、勝手知ったる我が家のこととて裏の台所の方から「今、帰ったよ」と入ったが、こんなに早く帰って来るとは予期しなかったのだろう。母親は暫く呆然として声も出ない様子だった。母親の沸かしてくれた熱い風呂に身を浸した時、初めて「生きていたのだ」という実感が湧いてきた。忘れていた埋めたトマトのことを想い出したのはこの瞬間であった。
 (アルゼンチン 70歳)

氏名 鈴木 勘次
タイトル 虚しき追憶
本文  時々、何の理由もなく、戦(いくさ)のころを感じることがある。再び蘇生することがないのだから、安心してなつかしがっているのかもしれない。
 私の子供のころは、軍国主義の空気に染まって、遊びも兵隊ゴッコ、チャンバラゴッコとかで、支那事変のニュースには胸がおどったほどであった。志願するのも、死を覚悟してというほどでもなかった。連戦連勝の時代だけに、日本一の旗差物の桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に行くようなものであった。みんな慎重で迷いやすく、今の鼻っ柱ばかり強くて自信のない中高校生とすこしもかわりがなかった。軍教育が暴力的に成長期の未熟な頭脳に注入されてくると、愛国的狂信者のように徹底的に生涯を捧げ自らの命を犠牲にすることが不幸ではなくなってしまうものである。そんな若いころの思い出は、老いの身に精神的な刺戟を提供してくれる。だが、とても人前で口にできない恥ずかしい追憶もある。
 もう五十年も前になる。あの日、あの宿舎、夜中のうす明かりの中で二人の寝顔は血の気を喪(うしな)っていた。朝はちがった。十八才の同期生三人が分かち合う特攻出撃の甘美な恐怖に身振いしても、それにも増して戦果をと、鋭い視線に生気が漲(みなぎ)っていた。共に戦ってきた比類のない友情の深さが胸を貫く。出撃命令はきわめて儀礼的なものだった。はるか遠くに愛機があるのがうれしい。それだけ長く地上にいられる。白く映えている滑走路わきに一列に居ならんで帽子を盛んに振る同僚たちを後ろへ後ろへ流すように速力を増す。大型爆弾を抱いた戦慄の前には、先に赴(い)った友のように純白のマフラをなびかせて笑顔で手を振りながら颯爽(さっそう)と飛び立っていく余裕の姿にはなれなかった。
 天孫降臨の山から二度と戻れない本土の尖端の岬を後に。祖国を振向くと、尾翼の後方で錦江湾に浮かぶ桜島がむらさきに煙っていた。胸の片隅で寂しい苦痛がうずいていたが、知らぬ間になぜか死の拘束を離れ追憶にふけっていた。若々しく背筋をのばしてオルガンを弾く女先生、わらべ唄、上海の街、愛国婦人会の白たすき、断片的にてんでんバラバラ、身も心もふぬけのように懐旧の情に沈澱していく。ふと吾に返る。気が遠くなるような静寂の空に、胸を掻きむしられるような不安が覆いはじめた。風防硝子(ガラス)に映る顔が変形するほど醜い。ついこの前まで舞踏会の手帳や宝塚星組をみていた穏やかな顔ではない。まして「撃ちてし止まん」と敵艦隊に体当たりする忠勇無双の顔でもない。自分の弱さに正直になっている。
 甘い予測を裏切り黒い粒が点々と光り出してきた。全身総毛立つ、「きたぞ!」かろうじて機長として後席の二人に切迫感を伝える。落着け、落着くんだ。自分自身にいい聞かせた。息を大きく吸いこんでも、喉から奥へ空気が入らない。右後方からの一群がつるべ落しに襲いかかってくる。命をかけた攻防が続く。思いついたように怒りと恐怖で身体が小きざみにふるえる。すでに高度はあまりにも低い、もう堪えられん。敵艦隊はまだかと目を据えた矢先、衝撃。右エンジンが振動とともに白煙を噴く。頭の中が空洞になる。このまま死ぬのは嫌だ。一瞬目の上に痛みが走った。血が流れて顔面に、思考力は薄らいだ。上下四方青白い膜で覆われて、どろどろした制御のきかない怠惰が襲う。死んではいない。前から雨のような光が一斉にこっちに向けて流れてくるようだ。求めあぐねたものがやっといた。長い行程だった。間にあった。意識はうすれていたが心臓は動いている。考えていたほどの恐怖も忍ぶに値いしないもののように感じた。疲れた胸の安堵の奥に、焦点のぼやけた茫然とした表現のない死が、いつか見たことのある空間で待っていた。息吹き返した敵艦の中、恥知らずの軍人の体面、死より悪い運命に興奮と消沈。よくまあ自殺しないで生きおおせたものだ。長い幽閉からの帰国。幼くして軍国少年になった者は敗れた故国に涙し、己が白木(しらき)の箱をみつめ墓を抜くまで、戦争や平和の意味など考えも及ばなかった。
 私は、天下国家の未来を憂うるといったタイプの人間ではないが、世界情勢、歴史の勢いが怒濤となって人間を席捲(せっけん)するとき、個々がいかに脆いかを知っている。戦の善悪や正義は、一様、絶対ではない。時が経てば異なるもの、過去のなかに不満や悪行をさがすことだけで戦争反対論者の如く振舞ったり、戦争は嫌い、好みじゃないと第三者的に立って平和を口にしているだけでは「いつかきた道」。
 世界も経済も文学も漫画も軍国調がますます頭をもたげている。「勝ッテクルゾト」の軍教育ともなれば、二宮尊徳、乃木将軍の青少年期をきかされて育てられなくとも、いかに国家意識が薄いものでも、性格などは無頓着に、否応なしに単純な軍人としての傑作品につくりあげられるものである。戦争をなつかしがっているなかでも、自戒の意味をこめて、老人として平和のために何をすべきか、何をしないかの反省がいると思う昨今である。
(鈴鹿市 68歳)

氏名 菊池 三郎
タイトル 墓標・彼の白き雲に祈りたい
本文  この手記は今の中学生、高校生の方に是非知って欲しいと思って書いた五十年前の戦争に行った少年達の話です。今の豊かで平和な世が何時までも続きますよう願いをこめて。

 『オオイ!元気か!今度三重に行くからなあ-。三重空(くう)と鈴空(くう)の案内頼むぞ-。』
七十才の九州の戦友からの電話です。三重海軍航空隊は香良洲町に、鈴鹿海軍航空隊、略して「鈴空」は鈴鹿市の白子にありました。香良洲の航空隊、白子の航空隊と土地の人は愛称で呼び航空隊にいる軍人を海軍さんと呼んで馴染んでくれた旧海軍の練習航空隊でした。
 今から約五十年前に私はその鈴空に居りました。今六十八才の私は当時十八才の若い軍人(下士官)として飛行機を操縦する教員(先生)という身分で後輩の指導に当たっていたのです。私は旧制中学を中退して満十六才で海軍の飛行兵になりました。今の中学三年生か、高校一年生位の時です。「海軍甲種飛行予科練習生」略して「甲飛予科練」が私が昭和十八年に入隊した時の海軍での肩書きです。海軍には自分から進んで行ったのです。何故かって?、それはもう当時の少年達にとって飛行機に乗るのは夢と憧れだったのです。日の丸マークの軍用機にまたがり縦横に大空を飛び回り敵機と闘って相手を撃ち落とす……誰しもがそのような近未来の己れの姿を描いていました。今思ってみれば現代の少年達が早く単車や自動車の免許を取って思い切りとばしたい……というのと同じ位の軽い気持ちだったのです。今、日本の国が敵国にやられ危ないから僕は進んで行って闘うのだなんて愛国心からではなかった。自分の夢を果したいばっかりでした。だから飛行兵の募集があると全国の十四、五才の少年たちが我も我もと受験したのです。私達甲飛十二期生の時は三千人採用するのに約五万三千人が受験しました。私達は難関を突破し喜び勇んで航空隊に入隊したのですが、めざした予科練はそれはそれは厳しく激しい訓練をさせられる学校でした。そして、戦争が終わった時に数えてみたら、入隊した者の約半数が死んでいました。僅か二年位の間にです。死んでいった人達の年令は殆ど十七、八才でした。大事な可愛い我が子を戦争で殺された両親の嘆きはどんなであったでしょう。
 では予科練でのきつい生活の一端を書き出してみます。○体罰はしょっ中でした。顔を殴られたり尻をバットのような棍棒で叩かれるのです。○食事は一汁一菜の麦飯だけ、何時も空腹でした。○起床は夏は五時、冬は五時半。○勉強は英数国漢と航空術などの専門の軍事学、講義の後すぐにテストがありました。○戸外訓練は陸戦、カッター、水泳、マラソン、いずれも体力の限界までやらされました。○プライバシーの保護全く無し、手紙や郵便物は必ず検閲されました。自分だけの時間は全く無く、いつも追い廻されました。楽しい事もありました。それは日曜毎の外出です。少年達は七ツ釦(ぼたん)のスマートな制服で町に出、下宿で寝転んだり映画を見たり、のんびりと休養をとりました。外出の範囲は制限され、三重航空隊員は香良洲と津だけ、鈴鹿航空隊員は鈴鹿市内だけでした。制限外のところに行ったのが見付かるとそれはそれはひどい体罰を受けました。
 予科練から飛練に進むと愈々(いよいよ)実際に飛行機に乗って飛ぶための訓練を受けます。約半年間一日も早く一人前の飛行機乗りになれ、なりたいとそれこそ血と汗にまみれ歯を喰い縛って頑張ったのです。鈴鹿航空隊では通信、航法、射撃を習いました。私は操縦(運転)員でしたので最初は練習機で操縦の基本を覚えました。離着陸、編隊、宙返り、背面飛行と次々に習得していくのですがヘマをすると教員から「コラーッ!俺を殺す気かっ!」と殴られましたし、「気合が抜けとる!!」と広い飛行場を駆け足三周させられることも屡々(しばしば)でした。飛練を卒業すると私達はすぐに実戦部隊に配属されました。そして私は台湾沖の海上でアメリカの戦闘機グラマンに撃墜され同乗の二人は死んで機と共に海に沈み、私だけが約五時間海を漂流して助かりました。漂流中、血の臭いをかぎつけたフカが寄ってきて怖い思いをしました。
 私と同じく実戦に投げ入れられた者は、或る者は空中戦で敵と闘って殺され、或る者は爆弾を抱いてアメリカの軍艦に体当たりして若い肉体を粉砕させて死にました。飛行兵は弾丸と同じ生きた消耗品でした。彼等は美しい日本の国と、愛する父母弟妹を守ろうと南溟(なんめい)の空に海にその若い生命を散らしたのです。彼等には遺骨も無いのです。父母の元に帰った白木の遺骨箱の中は空(から)でした。
 私は青春も知らずに死んでいった彼等の墓標はあの青い空にぽっかり浮かんでいる白い雲だと思っています。彼等の尊い犠牲によって戦後の日本は平和な世になりました。人間性を抹殺する酷い戦争はもう二度としてはなりません。私はこれからの少年達に私達が体験したような事を味あわせたくないのです。私にはもういくらも時間がありません。神様からいただいた寿命は後いくばくか。今少年のあなた方に戦争の酷さを知って貰わねばもう次の機会は無いのです。次世代を担う貴方達少年に期待しています。貴方らの理知と正しい判断で日本の繁栄と平和をこれからもず-っと続けて欲しいのです。高い空から墓標の白い雲達もきっとそれを望み、見つめてくれてる筈ですから。今の平和の有難さを感謝し私もあの白い雲に祈ります。
 (鈴鹿市 68歳)

氏名 小松 雋武
タイトル 吹奏楽で出征兵士の見送り
本文  三重県で陸軍大演習が行われると決まったのに、「君が代」で大元帥陛下をお迎えする、公的な吹奏楽団が三重県には無かった。昭和十二年のことである。今の三重県なら、吹奏楽は小中高から大学、警察、消防、民間にまで広く普及し、三重大吹奏楽団を頂点に、県の水準は全国的にも高く評価されていることは、知る人ぞ知るであるが、当時の県民の耳にする吹奏楽といえば、サーカスの客寄せか、チンドン屋のジンタぐらいだった。日本全体でも、海軍軍楽隊や陸軍戸山学校軍楽隊を除いては、伝統的に有利な欧米諸国とは段違いの、低い水準だった。
 そこで急いで三重師範に吹奏楽部が新設され、その任に当たることとなった。その年の春、旧制中学の津中から、三重師範本科第二部に進んだ私は、音楽が大好きだったので直ぐ入部し、練習に励んだ。県の出費で購入した楽器は、フルート、ピッコロ、クラリネット、オーボエ、トランペット、コルネット、ホルン、アルトサックス、トロンボーン、金管楽器のアルト、バリトン、小バス、大バス、打楽器の小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングル等で、バスチューバやファゴット等の大型低音楽器は高価だったためか、買ってもらえなかった。今にして思えば、これが三重県を代表する吹奏楽団かと笑われそうな、とても貧弱な編成だった。私は金管のバリトンで、主に中音のメロディを吹奏した。指導は、音楽教官が吹奏楽はどうもと断ったらしく、数学の教官が当たってくれたが、マニュアル書片手の暗中模索の練習だった。それでも、期待に応えようと、二十余名の部員は熱心に練習に励み、表現力も次第に高まっていった。
 ところが、その年の七月七日に北京郊外で盧溝橋事件が勃発、七月二十八日には華北で日本軍が中国軍へ総攻撃を開始し、八月九日には上海に戦闘が拡大、八月十五日には蒋介石が対日抗戦総動員令を出すなど、日中両軍の全面戦争が開始された。陸軍大演習どころではなく、当然中止となって、我々吹奏楽部員は拍子抜けをしたが、同時に内心ホッとしたものだ。
 だが、それも束の間、私たちは出征兵士の見送りに動員されることとなった。郷土部隊の兵士たちは完全武装して、久居の兵営から阿漕駅まで、続々と隊列を組んで行軍し、特別列車に乗車しては戦地へと出発していった。その晴れの出発を、駅頭で勇壮な音楽で華々しく送り、士気を鼓舞する役割が与えられたのだ。私たちは、楽器持参で列車の出発時刻に合わせて、迎えにくるバスに乗り込み、阿漕駅へ向かった。大抵は昼間の授業中だったので、級友から羨ましがられ、ちょっと面はゆいような、誇らしげな気持だったと記憶している。
 駅頭での演奏は「天に代わりて不義を討つ」の「日本陸軍」、「勝って来るぞと勇ましく」の「露営の唄」、「君が代行進曲」や「愛国行進曲」「軍艦マーチ」など勇壮な軍歌か行進曲が主で、発車間際に「海ゆかば」を決まって演奏した。それにじっと耳を傾け、プラットホームの旗の波を窓越しに無言で見つめる、逞しく日焼けした兵士の表情には、なにか特別なものがあった。日の丸の小旗を打ち振り、万歳万歳と叫ぶエプロン姿の婦人会のおばさんや姉さんの姿に、母や、妻の面影を重ね合わせ、別離の情をかみしめるのか、その表情は思いの外、静かだった。また、口には出せないが、私は目の前にいる兵士の中、二度とこの地を踏めない者も、きっといるに違いないという想いが頭をかすめて、目頭が熱くなった。私達は列車が消え去るまで、唇が腫れ上がるのも忘れて、夢中に演奏を続けたものだ。初めの頃は現役兵らしい、まだ童顔の残る若者の兵隊ばかりだったのに、次第に年配の補充兵中心の部隊に変わっていく様子も見られた。
 いつだったか、汽笛を残して汽車が発車した後、責任を果たしホッとして、私達が帰ろうとした時、風呂敷包みを抱えて、飛び込んできた一人の束髪の婦人があった。「もう出発しましたか…」その場の状況からそうと察したらしい婦人は、自分に納得させるようにそう呟くと、肩を落とし寂しそうな姿で去って行った。出発の日時をやっと知り、一目見たいと駆けつけたのだろうに。親心か女心か、人間の心の襞(ひだ)に触れた思いで、その後ろ姿は今も心に焼き付いて離れない。
 昭和十四年三月、私は三重師範を卒業し、津市内の小学校で国民教育の第一線を担うことになった。今でこそ、中国人の人権を蹂躙(じゅうりん)し、生活を根こそぎ破壊した、利己的な侵略戦争だったと理解するが、当時は東洋平和のための聖戦と信じ、日本と天皇に命を捧げて悔いない皇国民の育成を、自分の使命と思い込んで疑わなかった。マインドコントロールが解けたのは、悲しくも惨めな戦災と敗戦以後のことである。そして、私たちの「海行かば」の演奏を耳に、戦場に向かった郷土部隊隊員の多くが、後にレイテ島とインパールの苦闘で、文字通り「草むす屍(かばね)」「水つく屍」となったことを知り、愕然とした。戦時中の思い出の一齣(こま)一齣は、今も脳裏を離れず、嬉しいにつけ悲しいにつけ、私の心に迫り、訴え続けている。平和を!世界に平和を!と。
 (津市 76歳)

<学徒動員>

氏名 海津 力也
タイトル 学徒勤労動員の思い出
本文 (一) 明野飛行場
 昭和十九年八月、私は師範学校の第二学年に在学していた。戦局は苛烈を極め、急を告げていた。二年生の一学期を終り、夏休みを返上して、明野飛行場の拡張工事に、学友達と派遣されることになった。飛行場の敷地に建てられた急造のバラック建て宿舎に宿泊して、灼(や)けつく夏の暑さの中、一か月間、毎日毎日働いた。飛行場を拡げるため、道路を壊し、田畑を潰し、横一線に並んで、唐鍬を振り上げ、スコップを使い、土をもっこで運び、汗みどろになった。朝八時半頃より夕方五時頃まで、国の為と思い一心に努力した。すごい労働と激しい疲労に屈しないで、皆、必死になって汗と泥まみれの一か月だった。女学生や子供や一般の人も来て、それぞれの部署で奮励していた。朝まだ明けぬ四時頃、軍属の作業員の人達は、早くもグランドに出て訓練に励み、号令が朝のしじまを破って、宿舎まで聞こえてきたのを思い出す。時々飛行訓練中に事故が起り、上空で飛行機が空中分解して発火したり、二機が衝突して落ちて釆て危ないこともあった。事故機に搭乗していた将校が死去され、若い奥さんが喪服の紋付で幼い子どもを連れて、墜落現場に来られ、涙も見せずに、しめやかに弔っていられたのを、何度か見た。航空隊軍人が「人命は惜しくはないが、飛行機は惜しい。」と言ったとか聞いて、憤りを覚え、遣(や)る方ない悲しさを感じたりした。食料の乏しい時代で、作業中に間食としてかぼちゃが配られ、麦藁(むぎわら)帽子を皿にしてほほばり、美味しかったことを覚えている。

(二) 陸軍造兵廠
 二学期になり、明野から学校へ帰ったのだが、九月中旬には四日市の南の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)楠工場に、勤労動員で行くことになった。あわただしく、息つぐ暇もない。始めて造兵廠に入り、寮舎に級友達と入った。対戦車火砲(口径は忘れた)戦闘機の機関砲(一式機動四十七耗(ミリメートル)砲)を作っていた。技術将校や工員の人から教えていただき、旋盤、フライス盤、ボール盤などの部署に分かれて、持場持場に就いた。私はやすりだった。ここにも中学生、女学生、小学生、一般の人も動員され、来ていた。朝の八時半から夕方五時半までで昼食時と、午前午後に十五分の休憩があるだけで、それ以外は立ち通しで、不馴れの新しい仕事に当たった。まじめにへこたれずに奮闘した。段々馴れて来て、やすりも上手になって来たと、自分でも思った。徴用工や工員の人も、学生に親切に接していただき、いろいろ愉快な詰も聞いて、活きた人生勉強を味わったと、ふりかえり思う。しかし作業は厳しく苦しい。歯をくいしばりよく頑張った、との感懐が深い。
 十二月だったか、名古屋で陸軍の特甲幹部侯補生の試験があり、受験に出掛けた。ところが、その前夜、名古屋に大空襲があり、一晩中、火は名古屋の空を焦がし、燃えつづけるのが楠から見えた。翌日の試験の日、暗いうちに起きたが、電車(今の近鉄)は不通、やむなく線路の枕木の上を、楠から名古屋までてくてく。木曽川や揖斐川の鉄橋を、こわごわ歩いて渡った。両側の田圃には一ぱい、焼夷弾の残骸が突きささっていた。名古屋へ着くと、焼けただれ、惨状を呈していた。目をやられた軍人、手足や体に包帯を巻き苦しんでいる人々。大通りも焼けて十字路で火が止まり、片側は皆焼け落ち、反対側は残ったりして荒廃していた。「次の空襲のときは私らやなあ。」と残り家の名古屋の人達は震えていた。戦争の恐ろしさ、怖さを、まのあたりにして、私は息をのむ思いだった。帰りはやっと電車が通じ、米野駅より満員の電車に乗り帰る。楠の寮へ戻ったのは夜半だった。
 十二月の七日には東南海地震があり、これも怖かった。激しい揺れに建物の塀は倒れ、コンクリートは飴のように曲がり、ガラスは飛散し、負傷者が沢山出た。同級生の西川君が煉瓦塀の下敷きとなり、死去した。工員や生徒も、手や足を骨折したりした。その夜、私はずっと悲しく、慄然たる思いでまんじりとしなかった。
 お正月は元日だけが休日で、大晦日も一月二日も工場に出て働いた。冬休みは全くなかったが、不平も言わず、余震のまだ収まらぬ中を努力し働いた。年が明けてからは、昼勤と夜勤が、一週間交代にあり、深夜も目をこすってつとめた。寒くて壊れた机や椅子を焚いて暖をとったが、「外へ明かりが漏れぬようにせよ。」と叱られたりした。
 何を思いだしても戦時下の苦しいことばかりである。折角、学校へ入って教育学の蘊奥(うんのう)を極めようと思っていたのに、それも成らず、学業は中断の形になり無念である。入営延期が撤廃され、四月には敦賀の部隊に入営出征した。そして……終戦となっていくのであるが、戦争のことを思うと、痛恨悲惨、今も胸に重苦しさを感ずる。
(松阪市 70歳)

氏名 岩井 久子
タイトル 五十年前の夏を想う
本文  今夜もこうこうと輝くライトの下で歓声が聞こえる津球場。五十年前、あの一隅に私たちの青春がありました。前身は東洋紡績の軍需工場「三重工業」。当時柳山(現津実業高)にあった県立津高女(現津高)四年(現高一)の私たちは、その前年の昭和十九年の三年生から「戦時勤労学徒動員令」によりこの工場の各職場に配属されました。「神風」の鉢巻を締めて、やすりを使いハンマーを握り爆弾投下器の部品を作っていました。四年生からは大きなボール盤や旋盤を使い、日本の必勝を信じて夜遅くまで、働いていました。
 私は河芸郡一身田町(現在は津市)で生まれ育ちましたが、昭和二十七年結婚して神戸へ出ましたので故郷を離れてもう四十三年。でもその後、実家が柳山へ越した縁で、度々この思い出の地をみてきました。今もかつての工場周辺のところどころに残る赤レンガや、白いコンクリートの外壁がそのままの住宅等々。
 さて、五十年前の六月二十四日、空襲警報のサイレンと共に「学徒は海へ逃げよ」との命令。現球場客席の南側あたりが職場の前庭で、大きな防空壕がありましたが、これは工員さんだけのものでした。私たちは防空帽だけを被り、一面田んばの現阿漕町の細い道を一直線に海へ走りました。松林へ着くなり凄い爆弾音と地響き、伏せた頭をもたげると、工場の方からもうもうと上る灰色の煙、そして次々飛来するB29からは黒い爆弾が雨のように降っています。そしてすぐ横の海にも大きな音と水煙、幼い頃から見なれたあの日本海海戦の絵、東郷元帥率いる旗艦三笠の周りに立ち上る白い水煙、全くそれでした。この松林は、ヨットハーバーに集う人達の憩う美しいレストランの両側に、今も少し残っています。勿論防潮堤ももっと低いでした。
 ようやく爆撃が静まり、工場へ戻った私たちは見ました。あの壕は大きな穴に、そのスリ鉢状の周囲にへばり着いている見覚えのあるカスリの布端と小さな肉片、それはつい先刻まで一緒に働いていた女子工員さんのモンペでした。彼女は私たちの一才年下、でも仕事は一年先輩のいつも明るくかわいい少女でした。一瞬にして生と死の岐れ道を見た十六才の初夏でした。
 その後、私たちは機能を失った工場の部品を伊賀の山奥へ疎開させるため、阿漕駅から汽車で佐那具まで通いました。途中必ずグラマンの機銃掃射にあい、重いリュックと共に山へ逃げ込んだものです。
 そして迎えたあの七月二十四日。この日は午前十一時、B29七十機が津に来襲、三重師範(現津市庁)だけでも四十八発投下というあの長いながい一日でした。出勤途上で空襲警報にあった私たちはかねて指示されていた津公園を抜けた現観音寺町の友人の山に逃げました(今は住宅が建ち並び往時の面影は見当たりませんが竹やぶは少し残っています)。ここにも数発落下、幸い直撃は免れ九死に一生を得ましたが、壕の天井の土はバラバラと落ち、体中のものがとび出すような衝撃でした。
 この日、中新町の自宅で爆片を背骨に受けた級友の池山さんは、市立病院が全滅したため、旧励商校舎であった医専の教室へ運ばれていました。その知らせをうけた私はすぐ、近くの友だちを誘い医専へかけ付けました。勿論一身田からは歩いてです。ちょうど門の近くへ来たときです。今、見舞って来た友人数人が「池さん-私たちはそう呼んでいました-、桃がたべたいて。でも店はしまっとるし。どうしょう。」というのです。とっさに私は「家の庭にひとつだけ桃がついている、山伝いに走るから一時間で戻ってくる、池さんに元気を出して待つよう言って」と言うなり走り出しました。小学校の遠足以来の見当山への道でした。木の聞から洩れる真夏の太陽は丸い小さい玉になって、足元にゆれていました。肩からかけた防空帽のハタハタ鳴る音だけの山道、今日本のあちらこちらで「痛い痛い」と叫んでいる人たちのいることが夢のような
静かな山道、やっと一身田の我が家へ辿り着くなり桃をちぎり、母が風呂敷に包んでくれたトマト九つをしっかりかかえて、今度は電車の線路伝いにひた走り、池の下まで釆たときです、門から出てくる戸坂の一団、池さんの父上、先生、級友たち。でもその真ん中の池さんの頻には白いハンカチがありました。「一足おそかった。池さん『久ちゃんのモモ、モモ』って死んでった。」ワーワー泣き叫ぶ級友のうしろから私はボーと歩きました。
 一過間後に原爆が落ち日本は敗けました。
 五十年日のこの夏の一日、級友三人で田丸に眠る池さんを訪ねました。少女のままで逝った池さん、今日の日本を、津の街を見てますか。
 貴女に食べさせたい一心で走った山道は広い車道に。その近くには立派な文化会館が。貴女が息を引きとった教室は、古今東西の逸品が並ぶ素晴らしい美術館に。そして私達が泣いて下った津駅への道は若い人達が喜々として歩く幸せ一杯の文化国家日本の道です。この平和と、世界の人達の貴い命を、池さん、どうか見守っていて下さい。
(堺市 66歳)

氏名 大谷 麗子
タイトル 学徒動員から五十年
本文  平成七年正月三日、恩師、川浪権治・謳カの訃報に接した。学徒動員の私達を引率された年から五十年目の正月、先生は逝かれた。
 今年は一月十七日の阪神大震災に続いて、恐ろしいオウム真理教の事件が次々と明らかになった。オウムの事件では、マインドコントロールが問題になり、日本中の多くの人がマインドコントロールされた人間の言動を、第三者の立場で冷静に見定めることができたと思う。私は五十年前の自分に重ね、重苦しい気持ちになった。私達は、あの戦争を勝つと思っていた。日本は神国だから負けることはないと信じて疑わなかったのだ。日本中のほとんどの人がマインドコントロールされていて、同じように思っていたはずである。
 昭和十九年春、校庭の桜が葉桜になった頃、私達飯南高女四年生全員は、学徒動員の腕章をつけ、津の倉敷紡績に向かった。
 一部の人を除いて全寮である。工場に着くとすぐ講堂に入った。今迄に経験したことのないことばかりの説明に緊張し、意気込んでいた。最後に川浪先生が前に立たれ「いくらお国のためとは言え大切な娘さんを預かっている私としては耐えられない」と言って涙をこぼされたのである。その意外な言葉に私は自分の耳を疑った。そして、憲兵に聞かれたら非国民だと言って先生は引っぱられるのではないだろうかと友達と話し合った。
 私達十八名は「リング」に配属された。その日から工員さんと全く同じ仕事についた。なれない仕事も大変だが、朝七時始業、夕方七時迄の勤務、それに、土曜も日曜も、お盆休みも正月もない。その噴流行した歌の文句に、「月月火水木金金」と言うのがあったが、まさにその通りである。
 最初は、夜学があったが、眠くて勉強にはならなかった。初夏にはなくなった。
 その頃から通勤を申し出る人が多くなった。私は無性に家に帰りたかった。母の病気を理由に届けを出した。川浪先生は、母を気づかった言葉をかけて、許可して下さった。
 通勤も決して楽ではない。歩けば駅まで五十分かかる。自転車がほしい。古い自転車があってもタイヤやチューブが手に入らない。やっと母が物々交換でチューブのいらないゴムだけのタイヤを手に入れてくれた。これで家を五時に出れば七時に工場に看ける。帰りはよく電車が遅れ家に着くのが十時頃になった。田んばの一本道を雨の日も風の日も雪の日も夢中でベタルを踏んだ。灯火管制で灯のもれている家は一軒もない。もちろん自転車に灯りはない。月夜はよいが、雨降りの闇夜となると、いくら適いなれた道でも自転車で走ることはできない。そんな日は決まって母が高台から、提灯の灯で合図を送ってくれた。それを目当てに、自転車を引いて、ずぶぬれで歩いた。
 やっと三月がきて卒業式になった。卒業式には「蛍の光」ではなく軍歌を歌った。その後、専攻科生としてそのまま工場にもどった。
 六月二十六日朝、空襲警報が出た。いつものように機械を止め、防空頭巾をかむり、非常袋を肩からかけ、バケツを持って工場内の空き地にある防空壕に入った。その間約三分、入ってすぐB29の爆音、いつもとちがい、ザ、ザーと急降下の音、思わず両手の四本の指で眼をおさえ、親指で耳をおさえて伏せた。目がとび出し、鼓膜が破れるのを防ぐためだと教えられていた。次の瞬間、体が大きく揺すぶられた。砂がざらざらと落ちた。壕の戸を少し開けてみた。飛行機が急上昇していく後ろ姿と、さっきまでいた工場がばらばらになって空に舞い上がるさまが同時に目にとび込んできた。次の瞬間、ほとんど無意識に外に飛び出し、工場の敷地から出て海岸の松林に逃げた。何百人もの人が同じように走っていた。松林に着いた途端、後続の飛行機が来て、爆弾を落とし機銃掃射を行った。同じように学徒動員で来ていた男子校の生徒や小学校高等料の生徒も痛ましい死にかたをした。背中が爆風で炸裂した友達を背負ってふらふら歩いていた男子生徒の姿は今も私の脳裏に焼きついている。
 あれから五十年経った今、多くのことを考えさせられるが、一つには、あの時代にも、マインドコントロールされていなかった先生に私たちは守られていたんだと言うことである。私たちを守るためには、ずい分風当たりも強かっただろうに、それとも知らず感謝もしない私だったのだ。先生ありがとうと言いたい今、師はこの世の人ではない。二つめは、勉強できなかったため学力がないことを負い目に感じ被害者意識で一ばいだった。が、今思う、理由はどうあれ、戦争に手をかした加害者に他ならないと。
 個人にせよ、国家にせよ道を誤ることの恐ろしさを今、私は痛感している。誰もが解っているはずの、これだけのことを自覚するのに私は五十年もかかった。
(飯高町 67歳)

氏名 堀 壽々子
タイトル 青春時代を工場で(学徒動員)
本文  昭和十九年父の日記の表紙に「決戦昭和十九年」と記されている。私は女学校二年生の新年を迎え、セーラー服からモンペ姿に変身した学校生活を送っていた。すでに教育は、軍国主義の真っ只中で授業は竹槍訓練、行進練習に明けくれていた。英語の授業は教師の出征で早くからなくなり戦争がはげしくなると敵国語は排除されてしまった。
 昭和十九年六月十五日サイパン島玉砕から四日後とうとう私達学生にも学徒動員命令が出て、七月二十四日父母や兄妹が集まってささやかな壮行会を開いてくれた。七月二十五日私は松阪市内の中島飛行機工場に出発した。この日から寮生活が始まり、大勢の男女工員にまじって働くことになった。寮では六部屋に分かれ一部屋十人の共同生活が始まった。十五~十六才の多感なとしごろ、窓の外を見て泣き、走る電車に家を思い、月を見ては泣き、お互いに声をかけ合っては泣き大変だった。
 食堂で出される食事は、丼一杯、中味は米粒より大根や、いもが多いご飯でおかずといえばつけもの、梅干し、それに″すいとん″、さつまいもなど育ち盛りの体にはいつもひもじく、非常袋に入ったそら豆の炒ったものをふとんの中で先生の目を盗んで食べあさった。
 月一度の公休日に家に帰ることが出来たが翌日は寮の廊下を腹痛をおこした人の便所がよいの足音が絶えなかった。先生に
「あなたたち!死ぬとき胃癌で死ぬよ。」
などと怒鳴られたものであった。
 当時私は視力が〇・五であったため検査工になれず旋盤工にまわされ、毎日油まみれになり金属片(きりこ)を身に浴び、目をまっかにしていた。飛行機の部品であるネジを作っていたのである。言われるままにハンドルを握り男子工員の罵声を聞きながら約三か月間小さなネジを作ることに専念した。
 一週間に一度行われる夜間授業は、みんな疲れていねむりをし、殆ど内容は記憶がないような状態であった。
 入浴は二日に一度石験もなく湯につかり、汚れた衣類は米糠をふりかけて手で揉み、油でぬるぬるしたものを干し、また身につけていた。虱(しらみ)が頭や身体までつく日々であった。
 昭和二十年の父の日記の表紙は「戦局苛烈」と記されている。一月九日米軍がルソン島に上陸、一月十四日には米軍機が私たちの頭上を八機とび、内地が戦場となる兆しが見え始めると、工場の方も大都市から械械の疎開が始まり、学徒は、地面に並べた″ころ″の上を超大型の機械を人海作戦よろしく定位置に綱引きをした。
 それから一過間ほど経った二月四日中島飛行機松阪工場へ焼夷弾が何千発と投弾され工場の三分の二が焼けてしまった。幸いこの日は私達は公休日で帰省していて直接の被害はまぬがれた。二月六日寮に荷物をとりに行って工場を見たとき、これで家に帰れるという喜びと、日本は戦争に勝てるのかと始めて自分をとりもどした記憶が今も残っている。
 私は空襲の三か月位前から教師の秘書となり学徒全般の事務を担当することになり職場を廻って出席を確認したり、伝達を知らせたり、学徒練成体操という体操の講習に行き教えたりし、精神的な負担は多かったが油まみれから解放された。
 家を離れている間、父から手紙や、雑誌などよく送ってくれ学問を忘れないようにといつも書かれていた。父の日記を見ると受信欄に、「すず子より」と手紙を受け取ったことが、一日おきぐらいに記されている。今は記憶が定かではないが当時はきっと淋しくて書かずにはいられなかったのであろう。
 二月二十一日また工場に戻ったがこれからは通勤となり、食べ物も工場とちがい少しは豊かになった。しかし戦局はますます急をつげ空襲警報のサイレンが一日に何度となく鳴り、その中を恐れながら通うことになったのである。仕事中でもサイレンがなると一キロも先の神社に避難をし、仕事らしいことは殆ど出来ないまま、四日市、津、松阪と連日連夜空襲があり、生産は全く止まってしまっていた。
 七月二十四日父の日記は「無抵抗!これで勝てるのか」と記されている。
 学業を捨てて学徒動員という命により工場へ働きに行った私たちには夢も青春もなかったが、男女の学生が同じ工場で働くということでロマンスが生まれ戦後結婚をしたカップルもあったが、学徒兵として出陣し夢半ばで敗戦となり命びろいした人もあった。
 とある会議で英語で書かれた一文を読むはめになった私は自信がなく顔から火が出るはどの思いをした。学業を捨て工場で働かされたつけが今、まわって来たという思いで一杯である。マインドコントロールされた過去を今つくづく思う毎日である。こんなことは二度と繰り返さないように。心境を三十一文字に
 世をあげて戦の中にひたりたる かの歳月を憎むこのごろ
(三雲町 65歳)

氏名 浅井 房子
タイトル 戦争がくれた青春
本文 第-話 大連に渡ったK子の事
 太平洋戦争が始まる前の年に仲良しの友K子が、「一家で大連に行く事になった。行ったら学校の事、宇治山田市の事など便り下さい。」と約束して別れた。お正月は振袖姿の美しい写真と、町中を兵隊さんの闊歩する写真二枚が送られて来た。こちらは学校でスキーもすると楽しい便りだだった。少し便りが跡絶(とだ)えて釆た年の十二月八日開戦、次第に世の中が騒然としてきた。六年生の私達の修学旅行もとり止めとなり、橿原神宮へ武運長久を祈る日帰りの旅となった。そして勤労奉仕から学徒動員で工場の寄宿舎生活へと一転する。
 日常に追われK子の事も忘れていた終戦後のある日、K子の兄と云う人が来られ、終戦でソ連軍がなだれ込み、K子も髪の毛を刈って男装したが見破られ、乱暴されて殺された。何時も日本からの便りを喜んでいたので、妹に代わり御礼を言いたいとの来訪だった。友は今も小学生の頃の思い出の姿で私の心に生き続けている。掲載の写真は大連の日本兵で、K子から二枚送られた中の五十五年前の貴重な一枚なのだ。

第二話 学徒動員中、女工さんの死
 女学校三年生の時、学徒動員令で東洋紡績楠毛糸工場へ行く事になった。そして四年生の夏迄、終戦後一か月工場に残って働いた。同学年が四日市二組、楠二組、宇治山田に二組と別れた。行った時、工場にまだ防空壕がなくて私達が掘る事になった。勤めのあい間に掘るのだから出来上らぬ中に、警報が度々出る様になり、二階から一畳ずつ畳をかついで降り、掘りかけた壕の上へ蓋の様にかぶせた。終戦近くなると名古屋市の空襲がはげしくなり、伊勢湾をへだてて赤々と夜空をこがし、異様な爆音と建物の燃え落ちる音が入り乱れて聞こえて来た。疲れて寝込んだ夜、目が醒めると四日市の大空襲で、川をへだてて夜空が真っ赤でその熱気が伝わって来た。夜は着替えず服のまま休み、枕元へリュックサックと靴を並べて必至の態勢。勿論入浴もままならぬ日々が続いた。私は伝令だったので、メガホンを持って走り廻った。工場へ焼夷弾は落ちたが、紡績工場故に幸い爆弾は免れた。睡眠不足、栄養失調で学徒も女工さんも休む人が続出、出勤者は機械を二台も受け持つ様になっていた。十二月の東南海大地震で、大きい長い機械も床も弓なりに曲がった。時が時だけに地震が揺っても爆風と間違え壕に入った友もいる。六月七月に入ると三重県の主要都市が続々とやられ、我が家のある宇治山田市(現・伊勢市)も空襲で大被害をうける。宮川へ逃げた人々は沢山亡くなったと聞く。
 そんな中で仲良しの女工さんの轢死に遭遇する。学徒は一か月に一度だけ帰省をゆるされ、誰一人寮に居残る友もいなかった。今でも私の中で謎だが、この帰省日に一人部屋にいた。緊急放送があった。「学徒さん、いられませんか。もし一人でもいられましたら、女工さんが急行列車にはねられ亡くなられましたので、釆て下さい。」と繰り返し言う。私は水筒と防空頭巾を持って走った。長野方面の農家の子で、お腹が空いて家へ飛んで行きたいが帰省の許可もおりず、禁を破って門衛を一目散で抜け出た時、踏切番のいない踏切を渡って急行にはねられ即死した。線路に散らばった赤い肉片を暑さの中で涙して拾った。やさしい人で色々と先輩として教えてもらったりした。
 何時空襲があるやも知れず、その日の中にすぐささやかな葬儀が行われた。工場の片隅の小さい建物の中で僧侶の読経があり、じいじいと鳴く蝉の声を聞きながら、工場内の隅の道を黙々と行列が進む。そして工場内の小さなお墓に埋葬された。
 終戦間近には脱走する女工さんが多く、塀が高いので塀の下を掘りくぐって逃げた。学徒が月に一度、はしゃいで帰省する姿がたまらなく里心を誘った事だろう。異常事態の中で私一人だけお参りしたあの工場の隅にさみしく眠る彼女。今も電車がその工場を通過する時、自然に合掌している。

第三話 軍歌でない歌を歌わせた教師
 工場内の木々は綿挨で真黒になり、すっかり緑色を忘れている。人も空気の悪い中で顔色も青くやせている。担任が音楽の先生だったので、工場内の古いオルガンで教科書を使って音楽の授業をした。軍歌一色の中で、外国の歌を
弾いて教えてもらい、心を晴れ晴れさせた。そして、「どう考えても始めからこの戦争に勝ち目はない。きっと負ける。だから君達は命を大切に生き抜かねばならぬぞ。」と勇気ある発言。おそ番(午後二時~十一時迄)の朝、太陽を浴びながら思い切った乾布摩擦が実行された。皮膚をきたえた。瞳の黒い頭の進んだ先生のお蔭で暗い動員生活を乗り切って終戦の日を無事迎える事が出来た様に思う。工場で歌ったボートの歌を「漕げや漕げ川渡、腕に飛べば……。」と口ずさめば、先生もみんなの顔も昨日の様に若く新鮮。
(南島町 65歳)

氏名 井上  壽
タイトル 忘れられないあの日
本文  昭和二十年終戦の夏も随分暑かった。七月二十四日、その日も私はいつものように下部田の寮から朝食も琴bずに、江戸橋の駅から電車に乗った。行く先は津新町駅の一つ先の仮設の駅「二重池」だった。二重池は現在の南ケ丘駅付近だと思うが、池のそばに仮設された駅で半田の地下工場に通う人達のために便宜上設けられた臨時の駅だった。
 半田山は江戸期の頃から磨き砂を産出することで知られ、山の下には無数の坑道が蜘蛛の巣のように拡がっていた。地下工場はこの坑道を利用して造られたもので、坑道には各種工作機械が所狭しとばかり配置されていた。あかりは各機械に一個程度の電灯が吊り下げられていたが、作業する手元がどうやら見える程度の明るさであった。天井からは絶えず水滴が落ち、そのため足元は常にじめじめしていた。空気の流通もとても悪かったと思うが、その上粗悪な切削油の焦げる臭いとその煙が一層坑道の中の環境を悪くしていた。
 地下工場で働く人の数は、当時五千人と言われていたが確かな数は判っていない。地下工場に入っていた工場は、海軍工廠(こうしょう)、三菱、住友金属だったように思っている。このうち住友金属(正式名称は、住友金属津プロペラ製作所)は当時東泉第八四工場と改称されていた。私はこの住友金属に学徒動員の一員として働いていたのである。上野中学在学中であった。
 七月二十四日のこの日も、あと二十日余りで終戦を迎えようなどとは知る由もなく、私は二重池から地下工場に向かった。同級生や頻見知りの人達と話しながら歩いたことであろうが、そうした記憶は今ではすっかり忘れてしまって何ひとつ思い出せない。ただ、道すがら可憐な山百合の花が咲いていたのが不思議に今でも時々思い出される。
 坑道の入口で朝食をもらって近くの草むらに腰をおろして食べる。小さなベークライトの容器が二つ、その一つにはほんの僅かの味噌汁、味噌汁とは名ばかりで具は殆ど無く変な粉が浮いていた。当時この粉は蚕の蛹(さなぎ)だとか、或いは蝗(いなご)だとか言われていた。もう一つの容器には主食、これもほんの僅かの量で内容は乾燥芋、芋の蔓、ひき割り大豆、麦と言ったもので米粒が入っていたのかどうかはよく憶えていない。
 朝食の後はいつものように仕事についたと思うが、一体何時頃だったか、多分午前十時前後だったのではと思うが、まわりの様子が普段と違って何となく異様に感じて私は坑道の入口迄出てみることにした。何故出てみる気になったのか、又何か口実を作って行ったのかその辺のことはすっかり忘れてしまったが、兎も角坑道の入口迄出ると、守衛さんや外で働いている人達が一様に、不安げな眼で空を見上げていた。空には夥(おびただ)しい数のB29爆撃機が編隊を組んで北上していた。ひとつひとつの機体が銀色に光り、不気味な金属音が
あたりの空気を圧しているようであった。入口につっ立って空を見上げていたのは、はんの僅かの時間であったと思うが、何となく不安を覚えて、もう下におりようかと思った頃、守衛さんからも下へ降りた方がいいとすすめられ、急いで坑道を駆け降りた。ちょうど下へ降りたその瞬間だった、急降下する飛行機のうなりとそれに続く爆弾の轟音と爆風、全く身の縮む思いがした。もう少し入口におったら一体どうなっていただろうと思うと、恐怖で身震いしたのを覚えている。引き続きどれだけの爆弾の音を聞きどれだけの爆風を浴びたことだろう。或時は奥の竪坑に火の柱が立ったかと思うばかりのすさまじい光景も目にした。もちろん坑内は暗闇であった。不思議に叫び声や泣き崩れると言った声は聞こえなかった。みんな異様な雰囲気の中で断末魔を迎える覚悟をしていたのだろうか。しかし、そんな中で私は確かに聞いたのである、一人の女性の声を。それは静かにまわりの友に諭すように「仮に埋まっても、掘り出された時に見苦しい姿を曝(さら)さないよう、両膝をしっかりしばっておこう」と言ってる声だった。その人はどんな人だったかは知らない、けれどもあの時に暗闇の中で聞こえた健気(けなげ)な言葉の静かな響きは今もなお私の耳に蘇(よみがえ)ってくる。
 やがて爆発音も絶えると、あたりは一斉にざわめかしくなった。それは恐らくお互いに生き延びた感動をぶっつけ合っていたに違いない。私は一刻も早く外に出たいと焦りながら暗闇の中を坑道の入口に急いだ。しかし、目の前にひろがる景色は一変していた。もちろん守衛小屋もなかった。
 幸い下部田の寮は無事だった。しかし、寮の真の方から聞こえてくる倉敷紡績の消火作業の掛け声は夜を徹していたようである。
  津市が焼夷弾攻撃を受けて焼野原と化したのはそれから僅か四、五日後のことである。
(津市 68歳)

氏名 出口  明
タイトル 学徒動員と桑名空襲
本文  あれから五十年が経過した。昭和二十年七月十六日は桑名空襲の忘れ得ぬ日で思い出すさえ恐ろしい。なのになぜかつい昨日の事のように思えて今も瞼の奥に焼きついて離れない。事の起りは戦争、日本が勝つために一億総動員火の玉となってもがき、学徒出陣や学徒動員も強行され、あたら還らぬ青春の命を戦場や軍需工場へと駆り立てられた。真夜中無気味な空襲警報の唸りの中で三菱航空機製作所桑名工場(護国第三二一工場)の上野商業寮は大混乱を呈し揺れていた。警戒・空襲両警報はいつもの事でその度毎に腹底まで響く敵機の爆音を聞きながらじっと耐えてきたが今日はおかしい。灯火管制中なのに時々外が真昼の様に明るくなり何かが燃える臭い、もの凄く大きな爆音、アッ桑名空襲だ!!私は暗中模索し、どう服を身につけたのかとるものも取敢えず階上階下を走り廻り声の限り叫んだ。既に大部分の部屋は出たらしいがまだあちこちで声がした。
「何してんニャ、早よ出よ」 「逃げよ」焼夷弾の束が空中で分離炸裂し、バラバラヒユーヒユーザーザーと連続して落下して来る。鎮国(チンコク)社へ出た時、寮は火達磨となり濠の貯木が油脂でメラメラ燃えていた。全く狂った様に喚き散らして暗闇と閃光が交差する中を走った。平素から避難訓練をし、有事には赤須賀へ逃げる事になっていた。三、四名の生徒がいつからか私を取巻いていて呉れてるのに気づいた。「先生あぶない」と押し倒され伏せたことが幾度。二、三米先に弾が落ち地響きと共に土を被った。生徒達の支えがなく逃げる気力を無くしていたら死んでいたに違いない。一晩中あがきやがて東の空が白み出した。旋回していた敵機もなく皆の頼も見て廻り、互いにいのちのあった事を確かめ合い抱き合って泣いた。茫然自失、不安焦燥、疲労困憊(こんぱい)の極の大群集が未だ燃えている街を北にみて進んだ。益生工場に集合して人員点呼で出口登君がいない事が判明し新たな苦悩に直面した。
 工場は全滅、生徒達も私も無一物、何はさておき親の元に帰さねば申し訳ない。桑名駅迄焼野を重い足取で辿り、ホームとレールだけの駅の長に事情を話しお願いしたら心中を察して下され、私は泣いてお礼を云った。数十名の生徒の伊賀上野迄の無賃乗車の許可は前代未聞の事である。皆に話し級長に依頼し鈴なりの列車を見送って一人残った私は一時にどっと疲労が出て呆然としていた。工場への戻り道、焼跡の土は熱く、途中、人、牛馬の死骸が全く地獄図絵さながらであった。焼け残った女寄の一角から学校へ連絡を入れ、そこを根城に毎日探し廻った。二日目の午後桜堤に死骸が並んでいると聞き飛んでいき、棺一箱ずつ調べはじめた。空襲から四十数時間経過している。真夏の事死臭は鼻を突き、頻も手も黒焦げの死骸七十棺ほどみた時、菜葉服をみつけボタンを外し内ポケットに貼付けた名札から本人を発見確認した。係官に依頼し工場へ戻り、リヤカーを借りてとんば帰りに戻り棺を一人で工場まで運んだ。連絡してあった御両親が来られた。
 私が棺の蓋を開けた途端鼻血がプクプク出た。死者は肉親を待ち対面する時は何らかの形でその心を表現すると聞いていたが、生まれて初めてこの霊感とも云うべき事実を日のあたりにした私は全身の血が止まる思いであった。御両親と対面できてさぞ嬉しかったのだろう。火葬場の順番はとても来ないと云うので焼跡の燃えさしを中庭に積み重ね茶毘(だび)に付し遺骨を拾い、私が白木の箱を抱いて上野市駅に無言の帰還をしたのが十九日の夜、駅頭には沢山の人々が出迎えて下さった。青ざめた私は万町の本人の実家へ届け、その夜は久し振りに我家でほっとしたのか綿のようにねむっていたと両親が云ったのを覚えている。一週間ほどあと菩提寺なる廣禅寺で上野商業学校報国隊葬と銘打ってしめやかに学校葬を営んだ。
 当時の私は二十六才、独身だったが自分で云うのもおかしいが、よくもこれだけの事後処理が出来たものだと自負している。口で表現し得ない苦労もやり抜いた事が大きな自信となり、どんな事でもその気になってやりとおせば出来ぬ事はないと生涯を支える気力、人生を支配する精神力形成になった。思えば十九年七月動員以来、旋盤、フライス盤、ターレット盤に取り組み日の丸の鉢巻で汗と油にまみれ飛行機の部品造りに純情を燃やし、昼も夜も二交番制で、戦闘帽に菜稟服、ゲートル着用で必勝を期して頑張った。成長盛りの生徒に食糧事情が悪く米、麦、大豆粕、高梁(コーリヤン)等の交ぜ飯に沢庵漬けの蓋押葉を細かく切ってふりかけた丼だった。
 同じ釜の飯を食い寝食を共にし、その最後の夜(十七日動員解除の予定だった)火の玉の中を潜り抜けた者達の友情や師弟の団結は強くその後一年も休まず墓前同窓会が五十回続いた。
  私は一教師として後輩の教師に二度と再びこんな苦しみを味あわせたくない。永遠に戦争のない社会を心から願いたい。教え子を戦争で亡くした教師の苦しみ悲しみを赤裸々に記しとどめ、戦争と平和を真剣に考えて貰いたい。五十年目の今年桑名三菱に動員した十一校が桑名に集い、合同同窓会を催したのだった。
(上野市 76歳)

<外地で>

氏名 岡川 正規
タイトル 戦争とわが道程
本文  昭和十五年三月二十六日、十四才、身長百四十糎(センチメートル)に満たない私が、前日に高小卒業式をすませて郷里を出立した。実は校長先生の度重なる推めで、国策事業たる満州開拓青少年義勇軍の内原訓練所へ入所の為である。
 三重・埼玉両県から三百名で中隊を編成して満州(中国東北部)へ渡る前の基礎訓練をする。農耕をしながら軍事教練、旧中なみの学課で、六時起床から夜九時消灯まで日課が詰まっている。
 実は、家を出る朝、玄関迄送って呉れた祖父がその夕方脳内出血であえなく逝った。父は私の気持が動揺すると伏せていた。三か月余りの内地訓練を経て渡満の節、伊勢神宮参拝の時中隊長の計らいで帰郷を許され、祖父の墓参をしてきた。
 大陸へ渡りハルピン訓練所で冬を越した頃、父より「一家を挙げて満州へ渡る」と速達が届いた。当時三重県で宮川上流十か町村から募って、満州へ二つの分村計画が推進されていた。しかし柏崎村からの参加者は至って少なかった。役場に勤めていた父に村長が「息子さんが行っているのだから村の為にも是非行ってくれないか。」と懇請され、引受けざるをえない羽目に立ち至り、.その為次々と参加者が増え一応村の体面が保たれた由、後で母から知らされた。「幼い六人の弟妹達には満州での気候風土は無理」「どうしても来るのなら父単身で」とたて続けに三通の航空郵便を父に送ったが、立場上かその決心を翻すことは出来なかった。私の渡満に反対した母までも、父に同調して私の忠告にも耳を貸さなかった。
 とうとう十六年三月、一家八人挙げて故郷を捨てる結果になってしまった。ところが渡満一年を漸く越した春、母が高熱の風土病で仆(たお)れあえなく四十二才の生涯を絶ってしまった。後に残された六人の弟妹のうち二才に満たない末弟が、母亡き満州では育たず、母の後を追った。裕徳開拓団長の度重なる要請で中隊長から、「同じ開拓の途、何処で頑張るのも国の為、父の力になってやれ」と諭され、同じ釜の飯を三年喰って研き合った拓友と別れ父の許に移った。父が開拓団本部に勤めていたので弟と二人で、約十町歩の畠を耕作しながら弟妹達のめんどうを見、炊事、洗濯、青年学校とあわただしい日々だった。
 徴兵年令一年繰り下げとなり、二十年春後ろ髪を引かれる思いで後を二才下の弟に托し、現役入隊東満州国境へ。八月ソ連軍雪崩を打って侵攻、巨大なソ連戦車群の前には無敵の関東軍もあえなく総崩れ。いざ開戦となっても吾軍の飛行機は一機も飛立たず、満州放棄を決めていたか東満州の兵器、軍備の殆どは軍によって本土決戦の為に移されて裳抜けの殻だった。わが部隊は戦車群を迎え撃つべく爆雷を抱いて突入したものの、怪物の様な戦車には歯が立たず、接近すら出来ない儘(まま)、私も大腿部に弾傷を受け敗退、山中に逃げ込んで終戦を知らぬ儘、約一か月の山中徘徊の揚句捕われの身となった。
 秋深まる頃、十日余りのすし詰め貨物列車に押し込められて、下された所はシベリアの僻地、十一月一日のシベリアの大地は雪一色だった。
 収容された仮りの宿は、鉄条網で囲まれ、四隅の望楼からは機関銃を据え、自動小銃を肩から下げた赤毛のソ連兵が睨(にら)んでいた。冷えびえとしたさながら地の果ての捕虜収容所だった。人生僅か二十年此処が最期の地かと覚悟したら、やたらと老いた父、弟妹達の顔が浮かんで涙がこぼれてきた。
 次の日からは容赦のない強制労働、豚より哀れな然も少ない雑穀の食糧、迫りくる酷寒。敗戦から逃避行、強制収容で衰弱しきっている私達には、地獄の日々としか云い様がない。加えて戦に負けて尚、旧軍隊の階級制度が厳然として持ちこまれ、上官の身の回り、洗濯、肩もみ、食糧のピンハネ、言訳の通らぬ帝国軍隊生活が日中の重労働から開放された夜迄、重圧として初年兵に強制された。衰弱しきった初年兵にとっては、重労働と同じ日本人たる上官の桎梏(しっこく)の二重苦のもとには生きる希望すら奪われ、無気力な放心状態に陥り、次々と斃(たお)れていった。二千名が春を越す頃、五百人近い死者を出し、その大半が初年兵で占められていた。
 それから帰国までの四年、夏は四十度の猛暑、蚊、虻(あぶ)、蚋(ぶと)、蚤(のみ)、虱(しらみ)、南京虫と敵は多く、冬は最低零下五十度を経験した。貧弱な私が義勇軍で鍛えられたお蔭か、不思議に命永らえて、二十四年十一月初め舞鶴へ上陸した。援護局で用意した私の情報コーナーがあり、そこに並べてある戸籍謄本を開くと、両親以下六人の弟妹達の名前は全部朱色の×印で抹消されていた。
 急に目の前が真っ暗になった。「何の為に俺は今日まで?」勿論終戦の開拓団の惨状を見てきただけに、全員帰っているとは思ってはいなかったが悔し涙がどっと出て、あたりかまわず大声で泣いた。周りは家族と抱き合って生還の喜びに沸きかえっていた。父は終戦時開拓団家族を警備中襲われて最期、次の弟はシベリア連行後行方わからず、四人の弟妹は帰国途次栄養失調と疫病で次々と斃れた由、とうとう天涯孤独となった。お盆には弟妹五人の五十回忌懇(ねんご)ろに弔おう。
(紀勢町 70歳)

氏名 山中清太郎
タイトル 忘れ得ぬ南京戦線中国人孤児
本文  私は昭和十二年八月動員召集に依り第十六師団歩兵三十三連隊に属し、華北の戦線に出動、同年十二月南京攻撃のため上海上流の白邱口に敵前上陸、常州無錫の激戦を経て猛進撃する日本軍、退走する中国軍、逃げまどう中国人避難民とゴッタ返し、阿鼻叫喚(あぴきょうかん)の状態でありました。私達はこの戦火を潜りぬけて南京周辺の湯山鎭と言う所に到達致しました。ここは中国でも珍しい温泉のある所で蒋介石の別荘もありました。湯煙の立ち上る露天風呂の様な所で戦塵にまみれた顔を洗い出発しようとした時、附近の草原の中に日本軍か中国軍かの弾に当たって倒れている母親と三才位の男の子を発見しました。母親(ムーチン)はすでに絶命、傍に男の子供が「ムーチン、ムーチン」と母親の乳房にかじりつき泣き叫んでいました。私も其の光景を見て胸にジンとくるものがありました。昨日迄は親子共々楽しく暮らしていたのに、今日は死体の乳房を吸わなければならない。戦争と言うものは本当に残酷である。一緒におられた我々大隊付の軍医官長谷川少尉も深く同情せられ、もし母親に少しでも息の根があればと脈を取られたが、首を横にふられ絶望と態度で表現せられました。
 長谷川少尉は、三重県津市内で医院を開業中召集に依り大隊付の軍医官になられたお方であります。長谷川軍医官は、津に残してきた子供の事を思われたのであろうか、孤児の頭を撫でたり胴上げをしたり盛んにあやしておりました。そうしている中に孤児も泣きやみ、笑いさえ浮かべる様になりました。
 長谷川軍医官もこれで安堵したと思い、共の場を立去ろうと五、六歩歩き出した時、孤児がヨタヨタ歩きで長谷川軍医官の後をつけて行きだしました。戦争を知らない又敵味方の知らない孤児、自分に優しくしてくれる人は父親とも思い、すがりつく気持であったと思われます。このいじらしさに長谷川軍医官も涙ぐみ、我々の部隊は歩く歩兵部隊、第一線部隊、どんな危険があるかも分からないと、手帳を破りこの子供の保護を頼むと走り書きし、子供のポケットに入れてやりました。かくして我々は南京入城を果し、南京警備に服しておりましたが、あの湯山鎭で見た孤児は無事保護されたであろうか、無事保護せられていれば今頃は如何しているだろうかと私の脳裏から消えませんでした。
 時日は流れて第十六師団は内地に帰還、私も再度召集を受け、フィリピンに出征、野戦、内地勤務と転々と繰返しておりました。三年後のある日の新聞に「中国の戦災孤児長崎の地で死す」と言う記事がありました。読んで行く中に私達が助けた湯山鎭の孤児でした。其の日後方部隊に拾われ、部隊長の計らいで長崎県に連れて帰り、名前は忘れましたが長崎県の人の養子として手塩にかけて養育中、不幸にして病魔に襲われ、養父母の必死の介護も甲斐なく異国の地で若き命をたたれました。洵(まこと)に悲しい事であります。もし今生きておられたならば立派な日本人として初老の期に達し、日中友好の為に貢献せられている事と惜しみても余りあるものがあります。私もこの新聞記事を見て思わず長崎の方を向いて黙祷を捧げた次第であります。
 戦乱の南京戦線、さまよえる幼児をよくぞ助け、内地へ連れ帰り御世話戴いた部隊長様、当時としては敵国の子女を養子とするには相当な勇気がいったと思います、養育せられた養父母様、御二方様に深甚な敬意を表する者であります。
 近時新聞やテレビでは南京戦線の殺伐な報道が流れておりますが、日本軍人にも人類愛に富んだ人もいたと言う事を後世に残したいためにこの記事を書いた次第であります。
 (上野市 80歳)

氏名 清井 義雄
タイトル 満州国最後の日
本文  昭和十五年(一九四〇年)九月十日、私は皇紀二千六百年の祝典に湧き立つ日本を後に、旧満州国ハルビン市にある国立大学ハルビン学院に留学しました。そして昭和二十年(一九四五年)五月二十日頃、現地召集の赤紙を受け取り、アムール河を隔てて位置するソ連の都市、ヴラゴヴエスチエンスクの対岸、黒河の街の近郊、孫呉の小高い丘の上にある兵舎に連れていかれました。この兵舎は、精鋭部隊と称された旧関東軍のものと聞かされましたが、部隊はすでに南方に転戦、まるで廃屋のようで、寝台のマットや、諸器具類が塵にまみれて散乱し、全く手のつけられない状態でした。召集された私たちの仕事は、先ず兵舎の掃除、整頓でした。連隊と称しておりましたが、軍服も小銃もなく、平服のままの中年者の集団でした。毎日私たちは、白木の小箱を首にかけ、仲間の歩いて引いてくる荷車を敵の戦車に見立てて、飛び込み自爆する練習で、全く児戯に類するものでした。こうした練習の合間には、何かの薬の原料にでもなるのか、山林に入り、タンポポの根を掘り集めにかり出されました。これでは日本ももう駄目だ、との感が一同の胸中をかけ巡りました。
 このような生活が一か月余り続き、七月初旬になり、私は突然ハルビンの部隊に転属を命ぜられました。ハルビンでは、夜間だけ兵舎生活、昼間は平服で、白系ロシア人向けのロシア語新聞「ウレミヤ」 の記事執筆、編集に従事しました。
 そして、八月八日朝早く、遠くで轟く爆発音、非常召集がかかりました。始めは、アメリカ軍の爆撃かと思いましたが、ソ連の対日宣戦布告と知り、いよいよ最後の日が釆たと観念しました。直ちにウレミヤ社に出勤、数十人の白系ロシア人の社員に対し、各人は自由意志によって行動してよい旨伝えましたが、二、三人を除いて皆、新聞の編集発行を誓い合いました。事務机の中には、銃弾を装?したピストル、自決用の青酸加里を入れて、対白系ロシア人の宣伝記事の編集を続けました。そのうち、八月十五日には重大発表が行われるとの各国からの外電が入ってきました。
 いよいよ昭和二十年八月十五日昼、終戦宣言発表のラジオ放送!
 私は、ウレミヤ社屋三階の編集室の窓から、ハルビンの街を見下ろしました。全市全戸に青天白日満地紅の中華民国の旗が掲げられたではありませんか。まるで全市が真紅の炎に燃え立ったよう! そして、晴れ渡った北満州の秋空の下、意外なはどの静寂!
 五族協和、王道楽土、鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の楽天地という歌い文句に踊らされていた虚脱感!
 ひそかに中国国旗をかくし持ち、五色旗掲揚を強要されていた満州(中国東北部)の人々の怨念が、今幻の満州国崩壊の送り火として、燃えたぎっているよう!
 この時の光景と感慨は、半世紀の日時を経て、今尚、あざやかに、私の脳裡に昇華しています。
 ウレミヤの白系ロシア人は全く平静でした。直ちに全員で残務整理をし、十六日付の新聞を発行し、輪転機に封印し、夜中の十二時頃から朝までウオツカで別れの乾盃をして、社屋を退去しました。
 軍の命令により一週間程自宅待機の後、八月二十日頃、武装解除をするからハルビン神社に集合するよう命ぜられました。ハルビン神社には一千名程の軍人、軍属、開拓団の人々が集合しておりました。詰所で銃声を聞きました。それはピストルで自決する人々のものでした。それらの人々の顔が皆平静で安らかなものであったのが、却って哀れでした。
 進駐してきたソ連軍に兵器類を渡し、ソ連軍兵士の監視の下、ウラジオストツク経由で日本に帰還できるとの噂を唯一の心の灯として、行く先わからぬ行進と野宿を重ねて、約一週間程で牡丹江の街につきました。日ソ両軍の戦闘の第一線であった牡丹江は、一人の人間もいない不気味な死の街、ゴースト・タウンそのものでした。私たちが収容されたのは、牡丹江の郊外ハイリンの兵舎で、そこは、軍人、軍属、開拓団員、一般人の数万人にも及ぶ人々の一大集団でした。
 ハイリンでの約一か月余りに及ぶ生活の後、十一月の初め頃から私たちの上に一つの動きが出てきました。それは一千名単位で毎日牡丹江駅に集合し、列車で送られて行くことでした。ウラジオストツク経由で、日本に送還されるものと信じていました。しかしそれは、はかない夢でした。十二月の初めになって、送られた人々は、皆ソ連の地で労働に従事させられていることが、わかりました。結局私も、家族と別れ、虜囚の身として、ソ連で足かけ五年の年月を過ごし、昭和二十五年四月下旬、ソ連のナホトカから舞鶴に帰国、焦土に、新しい人生の一歩を踏み出すことになったのでした。
 (津市 85歳)

氏名 渡辺 一郎
タイトル 後世に語り遺したいこと-極限のその時に-
本文  三重県と姉妹提携が実現しそうな非核憲法の新しい国、パラオ、そこの清水村で私は昭和十一年末より二十一年一月末まですごしました。戦中のパラオは有名なペリリユウの他、更に小島のアンガウルまで早くに玉砕しました。しかし本島と殆ど隣接するコロール島は歓楽施設多く、ラバウルとか、あちらの方で戦った兵隊さんが一しきり休養する所で、少しの海軍と大部分の陸軍でかなりいた軍隊も、重火器の少ない戦力の小さな集団でした。
 そんな事情から攻略をする意味もなかったらしく、ペリリユウを基地としての演習場として米軍は位置付けたようです。翼にF4Uと書いた飛行機が時たま一~二機で来襲し、二回位機銃掃射をしていく。兵も民間人も皆ジャングル内に居を移しました。したがって戦闘そのものの悲惨という点では余り遇っている方ではないと思います。
 しかしパラオは私の家をふくめ農家もかなりありましたが、主食が穫れません。戦局がすすみ輸送が途だえると、軍、民間人、島民で数万はいたと思いますが、甚だしい食糧不足におちいりました。
 軍政が施かれ、全耕地サツマ芋が作付けされましたが、小さい中に盗掘されクキ葉だけでもと思えどバイラス病の発生で伸びてくれない、追い打ちをかけるように米軍のドラム缶オイル爆弾で焼かれてしまう。そうなるといくら熱帯のジヤングルといえども、何とかでも食える木の根、草の葉は限られています。しかもビンロウ樹の若芯にしても、シダの大木ジヤ木の若芽にしても取るため木を倒せば再生産はありません。
 数字で言うと分かり易い。二千人の部隊で二百人を残して餓死したと云われた所さえあります。やせている中はまだいい、それがむくんで腹が大きくなるともう駄目なのです。
 青酸を含むが多収故に澱粉用に栽培された毒タビオカ(芋)を忠告しているのに食べて死んだ人、空襲の危険をおかしてリーフ地帯でシヤコ貝をとり食べすぎて死んだ人、非常用の米を食べてペリリユウに肉攻斬り込みをして死に度いと言いつづけた兵隊さん。あれもこれも忘れることができません。
 私の後世に語り遺し度い言葉、それはそういう極限状態の中、権力者の軍将校はどうしていたかということです。
 十八才以上は現地召集され、十二才以上男子は集められ少年隊として作業させられましたが、幸か不幸か私は父が村役をしていたため、体には楽な司令部のお茶くみ、走り使いをしていたので、一般の人の知る以上のことを知ってしまったのです。
 別棟に住み、常に白メシを喰い、初期には情婦をかこう者さえあり、更には極高級将校は山の奥で酒まで作らしていたのです。勿論、全部の部隊がそうではなかったと思うし、私の知る限り海軍はそんなことはありませんでした。終戦がどんだけかおくれるかしただけで、パラオは餓死の玉砕をしていたことは確かだと思います。
 終戦後米軍からは現地の余裕品か量は大したことはなかったものの、コンビーフ、ソーセージ、オートミールなど今まで名も知らなかったものをいただきました。
 そして復員、引揚げ、軍は一番先に帰ってしまいました。残していった特作(特別作業隊)と呼ばれた朝鮮人が、数は少ないながら集団生活故にカが大きく、略奪暴力行為に出ました。島民も時の村役場に当たる南洋庁支所に怒鳴りこんで来ました。皆が逃げた。私がその陰に隠れていた父が独りふみとどまり酋長と話を詰め、理解を得るところになり、島民が内地人に付いたために、特作の暴力も治まりました。よく聞いて見ると、軍はごく僅か残った物資を、その三者すべてに「お前達にやる」と云って帰り、それがさわぎの元でした。権力のこの卑怯さ…。
 そして引揚げ乗船の日、見送りに来て下さった最後の南洋庁長官細萱茂四郎氏(ミツドウエー海戦主任参謀)の顔が子供心にも淋しそうで今でも忘れられません。旧駆逐艦、「柿」「竹」が浦賀に着いた二十一年一月末日夕、雪が白く舞っていました。
 人間のみにくい姿を思春期に見すぎ、その後の私はながく人間不信から抜け出すことができませんでした。それはその後の人生の半分にも当たると思います。だが、阪神大震災では素晴しい人間の助け合い、いたわり合いを見れて本当にうれしい。
 島民部落への米軍の攻撃はなかったが、それでも若し玉砕していれば今日の姉妹提携の詰も起きなかったような気がしてなりません。
 かつて島民はそれなりに豊かだった気がしますが、時代は変わりました。海域は鰹の宝庫です。漁業協力など県民の皆様よろしくお願いします。末筆ですがバラオの発展を祈ります。
 文中、元の呼び名で通しました。お許しを。
 (勢和村 64歳)

氏名 日下 徳重
タイトル 敵産農園
本文  昭和十八年十一月、河原田農学校卒業直前千種の陸軍演習場で、査閲の最中に盲腸炎となり入院、手術の経過悪く、十二月卒業式(戦時特例)の前日迄欠席した。卒業後も保養を兼ね、家で昭和十九年を迎えた。一月の半ば母校より「農業学校出身者で、南方農業指導員を各県で一人募集している。推薦するがどうか」との便りがあった。私も南方行きを希望していたので応募した。四月から高峰興亜錬成道場(神奈川県)で六か月間訓錬を受け、十月六日門司港で乗船した。十隻の船団を、駆逐艦一隻、海防艦二隻の護衛で大陸の沿岸を南進するコースであった。
 十月二十六日夜、舟山(シウザン)列島附近で敵潜水艦の攻撃を受けた。爆雷投下の音で飛び起き、救命胴衣を着け甲板へ出てみると、曳光弾が花火の様に飛び交い、暫くして砲声が聞えて来る。私はこわさを忘れて眺めていた。私が実戦を見たのは、これが最初であり最後であった。曳光弾という弾のあることを、この時に知った。サイゴン・シンガポール(二十五日滞在)を経て十二月十日ジヤワに到着した。
 敵産農園管理を命ぜられ、東部ジヤワのカリタケル農園に配属された。農園はラウン山の麓にあり、高所からはかすかにバリー島が見える処であった。
 カリタケル農園は、面積一二九三ヘクタール、内ゴム園約六百ヘクタール、コーヒ園約五百ヘクタールという広さで、現地人と、その婦女子を入れて約三千人でその任に当たった。最初は先輩の路線に従って、古いゴムの木を伐採して、苧麻・玉萄黍(ラミー・ジヤゴン)の植付をするといった仕事にたずさわった。ゴムの木は植付後三十年以上経過すると樹液の出が悪くなる。
 昭和二十年になると水田を作ることになった。当時十八才の私には稲の栽培法は少々知っていても、ダムを作って水路を開き、水田を作るなど全く無知の仕事であった。玉萄黍畑や、苧麻畑等で水の来る処は水田に変わっていった。失敗もあったがそれでも八月頃には約八十ヘクタールの水田を作ることが出来た。第一回に植付した稲が稔りはじめたので、支配人(ワキルプゴレス)と収穫の相談をしている時、終戦となった。
 農園の支配状況を記すと次の様になる。支配人の下に部長(シンデリー)が居る。部長は二人居た。大農園になると三人の処もあった。部長の下に課長(カパラマンドル)が二人居る。その下に班長(マンドル)が数名居た。オランダ時代からの系列そのままで、各班長の下に労務者が十名居た。
 他、工場長と要員二十名、事務所に数名。例えば私が支配人に「明日から水田の方を五十人程増したらどうか」と云うと支配人は、部長と相談して「誰の班は水田へ行け」と命令を出す。命令系統は正しく行届いて、翌日は必ずその人員が水田に来て作業をする。班長の中には字を書くことの出来ぬ者も居たが班長の命令には絶対服従する。作業は勤勉である。
 三千人の中に一人の日本人というので、多くの武器・防具・自動車等を与えられていたが、私は丸腰で歩いた。従順な彼等には終戦まで、いや敗戦後も決してその必要がなかった。農園を離れる時には、送別会を催してくれたほどである。
 農園の主な作物
  パラ護譲(カーレツト、ゴム)
 ゴムの樹というとビワの葉の様に大きく滑らかな葉で、幹の中腹部からいくつも根が出ている観賞用のゴムの木と思われがちだが、農園のゴムは葉も小さく、幹も白みがちで、「クロガネモチ」そっくりである。これをパラ護譲(ゴム)という。下には「わらび」が自生していて内地の林に居る様な錯覚をする。植付後六年目位から、幹の皮に魚の骨の様なキズをつけ、そこから流れ出る白い樹液を湯呑形の容器(マンコ)に受ける。毎朝九時頃に集めて精製・加工する。このゴムは海底電線の被覆に最適という。
  伽排(コピー、コーヒ)
 コーヒは青木の一種と思われる。日陰を好むので、コーヒの植付と同時にネムの木(ラムトウロー)の苗木を植える。この木は五メートル位となり、コーヒは三メートル位なので陰を作る。赤く実った果実を収穫し、皮をむいて乾燥する。収穫時には近くの小学校から「一日奉仕」の形で手伝いに来てくれた。目方に応じ賃金を支払う。

 平成四年二月、農園を訪れることが出来た。私の住んで居た家も、彼等の家もそのままであった。我々が若さをぶっつけた水田には、ゴムやコーヒが植わっていたが、水路は変わらずに流れていた。
 私を覚えている者が数人居て握手を求めて釆た。在職中隣の農園とのバイパス道路を作り、大東亜道路(ジヤランアシアテムラヤ)と名付けたが、そのまま今も使われているのが嬉しかった。
 (大安町 68歳)

氏名 門脇  實
タイトル 日ソ開戦 長かった新京(現・長春)の三日間
本文  二十年八月八日夜、うとうとしている時無気味なサイレンが鳴り出した。時計を見ると十一時五十五分、米軍の空襲と直感し家族と共に近くの防空壕に入ったが、その途端ニブイ爆発音が二発聞こえた。当然引続き猛爆があると思い不安な十数分を過ごしたが、其の後予期した爆音も聞えず静かなので家族を家に戻し、私は取り敢えず上司の総務課長(宮崎章、後の駐トルコ大使)に連格を取るため急ぎ官舎に向かった。官舎に着くや課長から「今司令部から呼出しがあった。丁度よい、君も同行してくれ」とのことで二人は直ぐに迎車に乗り暗がりの中を飛出したが街は意外に静かであった。司令部に到着するや課長は参謀長(秦彦三郎、菰野町出身)室へ、私は事務所で待機した。(大使館事務所は関東軍司令部と同建物内にある)待つこと約二十分、戻られた課長は開口一番「戦争だ!!ソ連軍が国境の各方面から侵攻し我が軍と激戦中だ。あの空襲はソ連機で宮廷近くに二発の爆弾を落したんだ。今から帰って対策を考究する」と緊張の面持ちで話された。私は最近の異常な程のソ連軍の極東集結振りや関東軍の現状等の情報を知る機会があり、ソ連の参戦は必至と確信していたので特に驚きもしなかったが、然(しか)し予想よりは二月程早い結果となった。
 二人は官舎に帰り直ちに館員を集めた。上村伸一公使より非常事態の説明があり、先ず重要文書の焼却開始と来るべき空襲に対処出来るよう細かい指示がなされた。私は一まず帰宅し仮眠の後で平常通り出勤して早速十八年度以前の文書より焼却するよう手配すると共に、ドイツ降伏後欧州より引揚げ途上にある我が方外交官への便宜供与や、たまたま米軍捕虜慰問のため滞在中の万国赤十字社代表ジユノー博士とストレラー女史の日本還送手続等で一日中忙殺された。其の間時々空襲警報はあったが来襲はなく単に神経を昂(たかぶ)らせられるだけで開戦後の第一日は暮れた。
 夜は宿直勤務で深夜に警報サイレンが鳴り軍司令部の壕に待避した。壕内で秦参謀長と同席したが、その際「元気で頑張れよ!!」と声をかけられ感激した。郷土の大先輩であり巨?堂々、沈着な態度には特に敬服し親しみと安堵を覚えたが、此れがお会い出来た最後となった。
 十日早朝軍用機で出発するジユノー博士一行を送りに宮崎課長と空港に向かった。早暁の空襲警報の余波で諸準備に支障があり予定より大巾に遅れて正午過ぎに出発したが、無事鳥取に着陸出来るよう願った次第である。空港で待機中ス女史から「二人だけでなく貴君も日本まで同乗して欲しい」との申入れがあったが多忙を理由に断った。彼等は飛行中にソ連又は米軍機の誤認攻撃を極度に恐れていたようであった。
 事務所に帰ったのは午後二時頃となったが待ち兼ねていた職員から一時間程前に関東軍副官から指名で私に呼出しがあったと言う。休む間もなく副官部に行くと部付の島重信少尉(後の外務次官、駐英大使)が「遅かったよ!!では命令を伝達する。『軍は予期される明払暁の大空襲に備え軍及び大使館家族と女子職員を隠密裡に疎開させる、各自持物は自分の手で持てる範囲のもの一個だけで午後四時までに此処に集合すること、疎開先は現在不明である』以上。」
 私は急ぎ事務所に戻り命令事項を課長に報告したが時刻は既に二時半を廻っていたと記憶している。課長は「家族にとって晴天の霹靂(へきれき)の如きこの命令!!残る時間も僅少で考える余裕もない筈、在庁の職員は即刻帰宅し家族の疎開準備を助けるように」と命ぜられた。私も急ぎ帰宅し唖然とする家族を急がし、幼児の必要品を主に最小限の身廻品を持って司令部へ急行した。裏庭には数十台の輸送車が準備されており先着順に点呼乗車せしめていたが、此の時から家族は軍の輸送指揮官の統率下に入った。大使館からは大城、永山、黒木の三幹部職員が同行して午後五時頃司令部を何処へともなく出発した。
 職員にとっては此の慌しい家族との別れが永別となるやも知れず一抹の不安を隠しきれなかったようだが、程なく家族等は駅に行ったと知り一同見送りのため駅に向かった。私は駅で家族と事後の打合せをしていたが、宮崎課長が近づき、「君も一行に同行せよ!!」と予期せぬ命令を受けた。身仕度のため自宅へ戻ると家は既に略奪を受け屋内散乱目ぼしい物は皆無の惨状で致し方なく手ぶらで駅に急いだが途中涙の出る口惜しさと情けなさを痛感した。
 疎開列車の出発は午後七時の予定であったが、灯火管制下の入換作業にミスがあり復旧に手間取り、出発したのは十一日午前四時頃であった。列車は出発しても吾々には依然行先不明であり、北朝鮮平壌市が目的地と知らされたのは鴨緑江を越えてからであった。
 後日此の避難列車が「関東軍は一般市民を捨てて軍人及び組織的行動力のある日系官公吏の家族のみを優先乗車させた」と(誤解も含めて報道)、非難の的となったことは周知のところである。
 (大安町 81歳)

氏名 寺田  貢
タイトル 運 命
本文 私は今年七十七才の喜寿を迎え、元気で幸せな生活をおくっている。
 当時、日本男子ならば、満二十才になると徴兵検査を受けねばならぬ義務があった。合格した若者は、一日も早く国の為に役立ちたい夢を持っていた。
 昭和十三年四月、満二十才になった私も、徴兵検査をうけ、乙種合格となった。厳格な身体検査、出生や家庭事情、軍隊に入った時の心構え、そして口頭試問が実施された。
 この口頭試問の時、私は試験官(当時陸軍中尉)に、三年余り英語の通信教育をうけて勉強していることを語った。このことが私の運命を左右するとは、その時は想像もつかなかった。
 一か月後の合格通知が届いたその頃は、日中戦争の真っ只中で「日本軍が向かうところに敵なし」の勢いがあった。
 昭和十四年二月、現役兵で広島電信第二連隊に”通信兵”として入隊した。同期の桜は百二十人であった。一緒に入隊した初年兵は、満州電信第三連隊への要員で、有線兵、無線兵そして初めて編成される特殊無線情報隊員の三班に配置編成された。私は奇しくも情報要員に配属されたことで私の運命が決まったのである。広島で十日間滞在し、満州(中国東北部)は新京(現・長春)にある電信第三連隊に配属となった。
 何故、私がこの情報隊要員に選ばれたのか?無線の資格も経験もなく専門学校も卒業していないのにと不思議に思った。後日上官から聞かされたのは、徴兵検査の折りの身上調査に記入した「英語を独学で勉強した」ことが効を奏したということだった。銃ならずペンを持って勤務するようになったが、如何に学問が大切であるか、身を以て体験し、苦労して勉強した甲斐があったことがうれしかった。
 情報隊教育は特別で人一倍苦労した。暗号の解読、ロシア語の習得である。情報隊の任務は、敵の情報電波を特殊な通信機で盗聴、それを翻訳し、速やかに作戦本部に伝える重要な任務でいわゆる情報スパイである。現役の時はソ連が対象で、召集されてからは米軍が対象であった。満州各地を転戦し、三年間の任を終え除隊となった。
 妻を迎え、子供にも恵まれ、銃後の守りを固めていた昭和十九年三月、「東京電信第一連隊入隊」の召集令状が届いた。戦局から考えれば再び故郷には帰れない覚悟で家族と別れて東京に入隊した。しばらくすると、北方派遣軍首都隊の要員として北海道札幌の基地に配属命令がでた。私の情報隊は樺太、北千島、南千島の三班に編成された。私は南千島班に配属されて、南千島択捉島の基地に勤務することになった。
 終戦時には、北千島はソ連兵の侵入で全員戦死、樺太班はソ連に抑留された。南千島班は情報のお蔭で、日本の敗北をいち早く知り、札幌本部に引き揚げ全員無事であった。
「運」という字は軍の道と書くように、軍隊ほど「運」に左右されるものはない。その「運」を導いたのが先に書いた英語の独学であった。
 ここで、情報機関に勤務していた私の終戦前の秘話、未だ誰にも発表していないことを記すことにする。
 南千島で一年六か月、僅かな人員で昼夜を問わず交替で勤務、綿密に情報を収集していたが、昭和二十年五月頃から、いくら情報を提供しても内地には、戦闘用の飛行機は一機もなく、沿海には潜水艦もなく、完全に制空権、制海権は敵の手中に納まり、成す術もなかった。私達情報隊員としては、やりきれない毎日が続いていた。ちょうどその頃、終生忘れることの出来ない「ことば」を聞いた。
 勤務室でダイヤルを回していると、日本語の放送が聞こえてきた。よく聞くとマッカーサー司令官からの生放送であった。内容を聞いてみると
「日本政府に告ぐ。日本はポツダム宣言の受諾を第三国(ソ連)を通じて回答する準備を進めているが、そんなことをすると、日本は大変なことになる。どうか一日も早く私に直接申し入れよ。日本国は私が責任を持って守ります。」
 この放送が一時問毎に共同通信を通じて流れてきた。しばらく経って本部から″今の放送は敵の作戦であるから、聞いたり記録に残すことを禁ず″との命令が届き、それから一過間後、再び放送があった。
「日本政府は私の言葉を信じてくれなければ、最後の手段を考えている。」
 これが原子爆弾の投下のことであった。
 日本政府は司令官の言葉を無視し、ソ連を通じて受託を申しいれた。ソ連はこれ幸いにすべて協定を放置し、日本に宣戦布告し、直ちに満州、樺太、千島に侵入し、ソ連の思うままになったのである。
 私達の部隊はソ連が参戦する前に札幌基地に引き揚げ、その後、終戦となった。
 戦後五十年問、私の脳裏から離れないのは、あの時の司令官の放送である。
 若人よ!つねに向学心を忘れずに、と申し上げるとともに、私が今日まで生きながらえることができたのも運命であるが、戦時、他の地で軍人・軍属として散華していった人々のことを思うと無念でならない。
 戦争は惨いものである、二度と起こしてはならない。
 (名張市 77歳)

氏名 大形とき子
タイトル 戦勝記念日
本文  年月の流れは早いもの、戦後五十年の節目とかで、マスコミもさわがしい。私逢引き揚げてきた者にとっては、つい此の間の事のようにも思える。未だに大勢の老若男女に襲われ、ソ連兵や、八路兵に銃をつきつけられている夢をみる。旧満州(中国東北部)の、彰武という街で、取り残された町の人達が十七日にソ連の機銃掃射をうけてから、慌てて引揚げが開始され、逃避行が始まった。錦県迄釆た時に、それぞれの道に別れる事になり、私達は、兄夫婦が居る安東へ、途中こわいめにあいながら、やっとの思いで逢えて、しばらく其処(そこ)に居た。
 昭和二十一年の年が明けてからだんだん安東の街もきびしくなってきて、男女共に何処へともなく連れて行かれる事が多くなり、安東の財閥達も反動分子として銃殺されるようになった。そんな或る日、我が身にふりかかってきたのである、男の人は労工という名目で、ある一定の期間がすぎると帰されてくるのに、女の人は帰ってこない。たまに帰ってくると、お腹が大きいという噂で、女の人達は極度に恐れていた。運悪く、つかまった二十余名の者は、剣付鉄砲の八路兵に、グルリと周まれて逃げる事も出来ない。私も、その時は悲壮な覚悟をしていた。鴨緑江江岸より、船頭が三名、八路兵一名、日本人指導員一名の監視のもとに、ジャンク船へ乗せられて、行く先も分からず、毎日、空と水ばかりながめて八日間、ゆられ、ゆられて着いた処が城子瞳(ジヨウシドウ)という街だった。
 八路軍の「後方第七分院」という陸軍病院で、傷病兵の看護の仕事にあたる事になった。「あおれんが」の普通の民家を二軒程を一つにして、両側にベッドが並んだ粗末な部屋だ。二十一名の手、足の負傷で歩けない重症患者ばかりだ。全部世話をしなければならない。「小便」の時はまだいいのだが、「大便」の時は一人がいい出すと奇妙にあちらこちらでも云い出すので因ってしまう。爪を切らせたり、身体を拭かせたり、大変。今迄お風呂なんて入った事もないのであろう、その垢たるやすごい。中に一人、とても我儘な八路兵がいて、私達、看護する者も随分我慢して世話をしてきたが、余り無茶をいうので、此方(こちら)も遂にたまらず、幹部に云うと、すぐにその患者をこらしめる為に、ベツドごと空部屋に移し、「食事を運ぶ以外は、一切世話をしないでよろしい」という。自分では何もできない患者なので、少し可哀想な気もした。一日の予定が、半日で音(ね)を上げて、元の病室へ戻してもらったが、それからはとてもおとなしくなった。傷のなおりがおそく、長い病床にあるものだから、祷創(じよくそう)迄できて痛そうだ。包帯交換の時は、太ももや、足の脛等、貫通銃創のため、ゴム管をぬくと、ドロリと膿が流れてくる。はれ上がっていて、少しでも手荒くなると、悲鳴を上げる。看護人の中には、意地の悪い人もいてベツドの間を歩く時に、わざとベツドにぶつかると、それが傷にひびいて、大の男が泣きそうな頻をする。何時か、私が静かに痛くないように持ち上げて包帯をかえたのを覚えていて、包帯交換の時になると、外の人では駄目で、必ず私の事を呼ぶ患者がいた。私が行く迄、医者にもさわらせない。私も始めは八路兵の看護なんて、と思っていたが、国共戦で傷つき病床にあり遠く故郷をはなれている事を思えば、日本人も中国人もないではないかと、或る日、突然気持の持ち方をかえた。すると気持にも余裕が出てきて今迄と同じ事をしていても、イヤイヤでなくなった。言葉は充分通じあわなくても、何となくお互いの心にそれが分り、そんな感謝の気持ちを表わしたいと、日に僅かな配給のタバコを惜しげもなく貰ってくれという。吸わないからと云ってもただ「謝々」と云うだけではたりないからと、どうしてもというので此方もありがたくいただいて、部屋へ帰ってから、仲間に上げていた。
 医者が回診に見えてベッドを一巡すると、患者達は、「我も我も」と医者の白衣のポケットへ押しこんで、ポケットはふくらんでいる。それだけ患者達も、早くなおしてはしい感謝の気持なのであろう。
 再び、八月十五日がめぐってきた。この日、八路病院では、戦勝記念日と称して、患者達は勿論の事、工作員達にもご馳走をしてくれる事になった。夕食は皆も期待してきたとみえ、一度にドツーときてせまい食堂はごった返している。今日の炊事の人のご飯の盛りのいい事、私達の食事は、煎餅(チエンピン)や、粟(あわ)のオカユばかりだったので、皆も白いご飯にあこがれていたのだが、いざ今日のようにご飯をいくらでも食べさせてくれると、少し食べただけでお腹一ぱいになってしまう。患者の方も、お菜が八通りもある。
 八路兵にとっては、戦勝記念日でも、一年前の此の日を境に海外の日本人はひっくりかえって無一物となり、逃避行が始まった。私達にとっては敗戦記念日、今日は無事でも、明日はどうなるか分からないという日がつづいていた事を思うと、おいしいご馳走も喉を通らなかった。
 (阿児町 76歳)

<留守家族>

氏名 新 すゑの
タイトル 振り返れば
本文  終戦五十年。振り返れば永い永い、苦しい道のりでした。昭和十三年二月四日、二十二才で縁あって新家に嫁いでまいりました。主人は長男とはいえ姉四人の末っ子で、両親には四十才すぎての子でした。一か月前までは大阪に勤めていて、田舎になれていない私が山村の農家、鍬も持った事のない農業の経験のない嫁(見合いで来たのです)でした。
 当時はまだ、戦争と言っても「支那事変」と言っていました。結婚して六か月、八月四日主人に召集令状が来ました。甲種合格で立派な体格で、軍籍ある以上、覚悟はしていたものの、あまり早いのにショックでした。その時、私は五か月の身重でした。久居三十三連隊に入隊して三か月訓練を受け、十二月十一日、寒い日でした、広島県宇品港から戦地へと出発しました。私は出産三日前で面会にも行けませんでした。十四日未明、男子を出産しました。行先も知らされず、船の上では子供の出生を知らす事もできませんでした。時節柄「勝行」と命名しました。一か月程たって、やっと華中に着いたとの知らせがあり、初めて出生を知らせました。連絡がつくようになり、生後三か月目の写真を送り、父子の対面ができました。所属した連隊名だけで場所はいつも「○○にて」ばかりでした。その後、いつ来る手紙にも勤務に忙しく便りがとだえても、心配するな、子供をたのむ、しっかり育ててくれ、年老いた両親をたのむ、母は体が弱いから、無理をしないようにたのむ、ばかりでした。
 武漢三鎮攻略にて日本は大勝利で、戦争も終りとの噂も流れていましたのに、だんだん戦争も大きくなり翌年、昭和十四年七月十二日、華中にて激戦の中、壮烈な戦死をとげたとの知らせがありました。正式な公報を受けたのは、七月二十二日でした。両親の驚きと悲しみは大変なものでした。役場の吏員さんも公報の届け役がなくて困ったそうです。末っ子の一人息子。男親は特に頼りにしていた義父は、号泣しました。その時義父は私に「お前も若い身で可哀想だが、どうか辛抱してくれ。お前だけが頼りだから。」と言われ、どうしてこの年老いた両親と可愛い子供をおいて帰るなどと、夢にも思いませんでした。 なれない経験のない農業を、見よう見まねで一生懸命に働きました。当時は、農機械は何もなく、牛が唯一の労力でした。義父は年寄りで牛使いもできず、私が習って始めましたが、女の使い手では思うように働いてくれず、田んぼの中で、涙と汗でくしゃくしゃになり働く毎日でした。
 昭和十六年、だんだん戦争も激しくなり、この村も戦地へとられて、男手も少なくなり、農繁期には共同作業が始まりました。やがてこの山村にも食糧難がきました。一方、大事な一人息子は弱く、医者通いばかり。当時名張には小児科がないため、遠い山坂をおんぶして上野まで通いました。その弱かった息子も小学生になると、丈夫になり大きく育ってくれました。ある日、農作業から戻ると、姑は泣いています。息子は「僕のお父さんの写真ではなく、しゃべるお父さん見せて。」と言って泣かせました。中学生にもなると農作業を手伝ってくれました。中学二年の年、義父は八十二才で亡くなりました。そして翌年、息子の高校入試の日、義母は朝起しに行くと返事をしてくれませんでした。若くして未亡人になった嫁を気づかい支えてくれた年老いた両親、特に姑には最期の見とりもできなかった。私は胸が痛みました。こんな私でも頼りにしてくれていたのに、親孝行もできないままで、申し訳なく思います。
 姑を困らせていた息子も五十七才になりました。三人の娘に恵まれ、孫も二人授かりました。もう、おじいちゃんです。日本中、皆苦しい時代を乗り越えたお蔭で、今は豊かな生活ができるようになり、五十年前とは大違いです。老後は、誠に幸せに暮らさせて頂いております。家庭でも大事にして頂き、残り少ない人生を一日一日大切に生きたいと思っています。私もやがて八十才に手が届きます。お蔭さまで達者で、二人の曽孫と遊んで、老人会活動にも参加しています。
 可愛い新妻を残して逝った天国にまします私の大事な旦那さまに申し上げます。たった六か月の夫婦でしたが、今度おそばへ参りましたら、そんな婆さん知らんぞ、なんて言わないで下さい。二十二才だった新妻の姿を思い出して下さいと、今からお願いしております。つたない手記ではございますが、私の体験を綴らせて頂きました。
 (名張市 79歳)

氏名 池口 寛幸
タイトル 私の戦争はまだ終らない
本文  今年八月終戦五十年の首相談話に「日本は国策を誤り……」とあったが、その誤りは私が生まれる前から始まっていた。私が生まれた昭和六年には満州事変(中国と日本との戦い)が始まって父は家に居ず、私の誕生を知らなかったそうである。父は海軍軍人で艦艇に乗り組み、中国東北部沿岸警備に出動していた。その後も上海事変ー支那事変(日中戦争)ー大東亜戦争(太平洋戦争)と参加して、日本は十五年間も戦争を続け力つきて敗戦に終った。
正に私の幼少期、少年期は戦争一色であった。その間父と暮らしたのは民間に勤めた三年間だけで父は私の成長を殆ど知らずに誤った国策とやらに服従させられて家を空ける日々が続き、兄弟は生まれていない。物心(ものごころ)つく頃から母と二人きりの生活が当り前のように続いた。今考えると、戦争さえなければ親子三人の楽しい思い出もできただろうにと思う。
 昭和十三年春小学校に入学したときも、父は前年に再召集されて家に居なかった。母は私に「お父さんはお国のために頑張っているのだから、淋しくても泣き言を言ってはいけないよ。」また「お父さんはいつ戦死するか分からないから、気持をしっかり持っていなさいよ。」とも言っていた。
 小学校での勉強は今考えると誤った国策による徹底した軍国主義教育で、マインドコントロールされていった事が分かる。学校の教育も、社会の仕組みも、すべて国をあげて戦争遂行のために流れていたようである。学校の先生は口を揃えて、男の子は皆大人になったら強い兵隊になれ、女の子は従軍看護婦になれと教えていた。子供たちは皆その気になって毎日体を鍛える事に励み、遊びは戦争ごっこに明け暮れていた。
 昭和十九年春に旧制中学に入学した頃には、成人男子は体の不自由な人以外は皆召集(強制的に軍隊へ入る)されて、有無を言わさずどんどん戦場へ送り出されて行った。一方輝かしい戦果がニュースで流れる中、白木の箱に入った戦没者の遺骨(実は中はからっぽ)が英霊と称してにぎにぎしくぞくぞく帰ってきて、国をあげて名誉の戦死と言ってもてはやしていた。残された遺家族の生活は国が守ってやるとも言った。十三才の少年にも、一寸おかしいぞ、戦争は勝っていると国はニュースで言っているが、本当は敗けているのではないか、と疑う気持ちが少しあった。しかし口に出しては絶対に言えなかった。恐ろしい憲兵(軍警察)
と巡査(警察)が始終目を光らせていたからである。口に出せば国賊(国策に逆らう者)として連れて行かれる、と母から聞かされていた。
 そして昭和二十年に入ったら案の定である。サイパン・テニアン・グァム島と占領され玉砕(全員戦死)したと言うニュースである。次はいよいよ台湾(当時は日本の領土)か沖縄かと言ううわさが流れ、三月からはサイパン島を基地として発進するアメリカ空軍B29(四発の重爆撃機)による本土空襲が東京を始め、大都市、軍需都市(軍施設のある都市)から全国にわたって拡がっていき、主要都市は無差別爆撃によって一般市民も巻き込み、次から次へと一面焼野原となっていった。今年一月の阪神淡路大震災の神戸市長田区の焼跡をみて、当時の様子が頭に浮かんできた。
 そして四月に我が家の悲劇がとうとうやってきた。学校から帰ると母は留守だった。午後四時頃役場の職員が父の戦死公報を持ってきて「名誉の戦死です」と言って無表情に渡して行った。読んでみると、「比島(フィリピン)方面に於て戦死」としか書いてなかった。しかも前年の九月に死んでいたのである。半年も知らされなかったとは何たる事か。ショックが大きすぎて涙も出なかった。ただ、くやしい気持だけであった。
 そして六月、B29の空襲で隣家まで焼けてきたが、風向きが変って幸いにも我が家は残り、何とか生きのびたのである。母と二人きりの家が空襲で焼け出された親戚の人々で十人以上になった。毎日焼け跡の整理に出かけ、焼け跡から掘り出した米びつの缶から半焼けの米を持ち帰り、皆で座敷机の上で食べられる色の変りの少ない米だけより分け、お粥に炊いて飢えをしのいだ。日本はもう敗けると思った。情けなかった。
 その後も八月まで何度か空襲があり、軍施設には大型爆弾も落ち、腹の底に響く炸裂音を聞いて昼と言わず夜と言わず防空壕へ避難する日々が続いた。いつも死を覚悟していた。学校は焼けなかったが、電車が不通になったりして、線路道を歩いて登校すれば、空襲で行方知れずの友達もあり、授業も混乱して落ち付けなかった。
 そして八月十五日やっと終戦となったが、我が家は父の戦死と敗戦によって収入が皆無となり、母の筆舌につくしがたい苦労が始まった。海軍志望の少年の夢も打ち砕かれて、その後の人生を大きく変えてしまった戦争が本当に憎かった。今は命を賭けて国を守ってくれた父たちや先輩たちに慰霊と感謝の気持ちを忘れず、先の戦争の正しい意義を究明し続けながら、五十年かかって汗と力で築き上げた平和日本が後世まで繁栄できるよう若者達に期待する。
 (四日市市 63歳)

氏名 森田 ぢう
タイトル 悲しかった戦争中の思い出
本文  歳月の流れは早く最早終戦後半世紀を迎えんとする今日でさえ、私達には片時も忘れる事の出来ない永い永い悲しい苦しい人生でした。
 突然召集令状が届いた時は昭和十九年八月、一年生を頭に四才と生後八か月の三人の子供と病弱の父を残して出征する主人の胸中は如何ばかりだった事でしょう。口では何の不平も言いませんでしたが、家を出る時のやり切れない主人の姿が、今も胸に甦(よみがえ)って来て胸がうずきます。
 出征した次の日から、父は病の床につきました。出征する息子に悪い顔を見せまいと頑張っていたのでしょう。それからは子供を背負って父の看病と野良仕事に寝る間もなく働きつづけ、苦労して作ったお米は皆供出しなければなりません。病人にだけはお米を食べさせたい、と村の役員さんに泣いてお願いしても聞き入れてくれない時代でした。冬はお芋、夏は南瓜が主食で、子供の顔色が黄色くなる位南瓜を食べさせました。
 又、道路も今とちがって細い坂道ばかりで乳母車が通るのがやっとの事でした。一人を背負い一人を乳母車にのせ遠い山田に通い、田の畦に子供を遊ばせての耕作は大変でした。当時の事を思い返せば唯哀れで涙が溢れ出るばかりです。でも、戦地の激しい戦を思えば、どんな中でも子供と父親だけは守り通さねばと頑張りました。
 毎朝のように東の空にB29が隊を作って轟音凄まじくやって来る、ああ今日も又やって来た、と隣の人と話し合い、毎日の仕事に頑張らねば田植がおくれる、爆音の下で目につかぬよう黒い手拭いをかぶり、成るべく目立たぬ服装をして仕事に出かけ、余り爆音の激しい時、頭の上で討ち合いでもしている様な時は、何度も田の中からとび出して昔の炭焼窯の中に隠れたものです。
 そんな或る日、今日はB29の爆音もないし大丈夫だと安心していた矢先、突然激しい爆音で、今まで見た事もない艦載機が急に低空飛行して田の畦すれすれに下りて来ました。もうやられると思い、田の中からとび出て怯える子供を抱きかかえ、山陰の洞穴にかくれ、一瞬の間でしたが、こんなせまい山間の田に下りて来るとは、家に寝ている父を案じてすぐ帰ると父は無事でした。「わしは枕元に猟銃を立ててあるから米兵が下りて来たらこれで撃つから、お前達はわしにかまわず逃げる様に。」と言いました。今思えば笑話のようですが、当時はこれが精一ばいの考えでした。次の日のニュースで、隣村の娘さんが家の近くの苗代で畦に立っている所を撃たれて亡くなり、又、近くで走っていた電車が撃たれ数人の人が亡くなったことを知りました。
 それからは、女手では完全な防空壕も作れませんので、家の近くの芋穴に中が見えない様に木の枝を立てかけ、飛行機が飛んで来たらこの穴に隠れるように、子供に言い聞かせました。子供は喜んでいつもその穴の中で遊んでいました。
 そして八月に終戦になり、終戦になると父は息子が帰って来ると信じて床の中で毎日待ちつづけつつ、九月の末に亡くなりました。五十三才の若さでろくに美味しい食事もなく薬もなくて死んで行った父に申し訳なく、哀れでなりませんでした。
 頼りにしていた父の葬儀もすまし、それからは主人の帰りを今日か明日かと待ちつづけた十月の末、ラジオのニュースで済州島の兵隊が十一月三日復員すると聞きとび起きました。「ああ有難い、お父さんが帰って来るよ。」と子供と抱き合って喜びました。早速主人の着物を出して揃え、何時でも風呂は沸かせる様に、又、黄金色に実った稲田を主人に見てもらってから、主人と二人で稲刈りをしようと準備をととのえました。
 夕食前役場から村長さんがお出でになり、何も言わない村長さんの顔を見てびっくりして「うちの主人は戦死したのですか。」と私の方から聞きました。何も言わずに頷かれた村長さんのつらい姿が今も私の胸に焼付いています。卓袱台(ちゃぶだい)の上に泣き伏した私を三人の子供は何も言わずに見守っています。この子供の前で泣くにも泣けない私。今の今まで父さんの帰りを喜んでいた子供。戦争中なら覚悟の上でした。でも終戦となった今、どうした事か、懐かしい我が家に帰れる日を目前にして、主人はさぞかし残念な事だったろう。主人の気持ちを思う時、子供達にどう言い聞かせてよいか、なす術もなく唯呆然としていました。
 後日戦友のお話では、食糧が届かず栄養失調で入院し、帰る間際に野戦病院で亡くなったと聞かされました。其後、遺骨は帰って来ました。すぐに葬儀をする所を、私は役場へお願いしてせめて半年位家で祭らせて下さい、と言って立派に祭壇を作って、毎晩子供と色々な事を祭壇の父に話かけ、お経を唱えて残念無念な遺骨を慰め祈りました。
 想えばあの戦いに敗れた混乱の中で泣くにも泣けない毎日でした。幼な子を背にどんな苦難も一手に引きうけて切り抜いて行かねばならない仕事のつらさ。三人の子供の手を引いて英霊の墓前に幾度泣き伏した事か。又秋の夜長に無心に眠る子供の枕辺で内職の仕事に幾夜を明かした事等、皆可愛い子供の成長と靖国の妻の責任に支えられ同じ境遇の者同志、歯を食いしばり互いに助け合い、励まし合ってやっと今日まで耐え抜いて参りました。
 (青山町 79歳)

氏名 伊藤 三枝
タイトル 戦地からの手紙
本文  「ニイチャンオゲンキデスカ、ワタシタチモミンナゲンキデス。マイニチアツイクニデ、ニクイアメリカヘイト、センソウシテイルノデスカ?……」
 生れて始めて、六才の私が戦地の兄へ書いた手紙です。昭和十六年に私が国民学校へ入学する年の一月兄は赤紙一枚で出征しました。十五才離れた兄とは、親子の様に慕い、可愛いがられていましたので、「勝って来るぞと勇ましく……」の歌声と旗の波の中へ、私は泣きじゃくりながら兄の後を追いかけ父母を困らせた事を、今も私の脳裏に強く焼き付いています。その後、内地で待機中には時々家に帰って来ると、必ず私を通学路まで自転車で迎えに来て喜ばせてくれました。当時父母は、兄の面会日を待ち兼ね夜が明けぬ内に家を出て、兄の好物を持って喜ばし、束の間の別れを惜しんだのです。私も一度付いて行きたいと父母に何度か強請(ねだ)っても無理でした。子供心では、お役目が済めば必ず帰って来るからと諦めていたのです。しかし、今顧みれば、あのまま帰らぬ人となり悔やまれてなりません。
 そして、ある日突然、兄が外地へ出発した事を知らされ家族は唯茫然と淋しい日々となり本当に悲惨でした。幼い私が痛感した位ですから、その時父母の淋しさ、辛さ、悔しさは想像も付かない程だったと思います。しかし、当時の父母は、どんな辛さも全く顔に出さない根性と忍耐力の強さが印象深く心に残っています。父母の寝顔も見た事がなく、時々目を覚ますと、夜中に母が千人針の腹巻作りや、慰問袋に入れる物を揃えるのが必死の様でした。そんな母を見た時、「わたしにも何か手伝えないかな-」と言ったら、千人針の作り方を教えられ、うまく出来なかったが一生懸命に玉を作り、千人の真心が兄を守って下さる事も知り感激しました。
 次の日に、母は私に手紙を書く事を教えてくれました。私は簡単にウンと言ったものの大変むずかしかった事を記憶しています。紙一枚無駄に出来なかったあの頃、消しゴムを使うと破れる茶色い紙に苦労して始めて兄に手紙を書いたのです。遠い国の兄が、一体どんな所でどんな事をしているのか私にはすごく興味深かったので、その気持ちを書き母に見せたのです。母は「これでええのや、上手に書けたな-、きっと兄ちゃんが喜んでくれるヨ!」と大変褒めてくれたので、私はとってもうれしくて毎日郵便屋さんを待っていました。
 暫くして、学校から帰ると私に「ええものあげるから手を出して……」と母の笑顔に私はピンと釆ました。「アッ!兄ちゃんからの手紙やろう?」と言って母の後手に飛び付き、待ち兼ねた兄からの絵ハガキを胸に抱き、ヤッタアと言ったとたんに涙が思わず溢れ、すぐに読めなかった事を覚えています。兄の便りには、漢字とカタカナ混じりで書いてありました。
 「三枝サンオ便リアリガトウ、何ヨリウレシク読ミマシタ。皆サンモ元気デ何ヨリデス。兄サンモ元気デニクイアメリカタイジニ一生懸命デス。……」
 手紙を読みながら兄の面影を想像し胸が一杯になりました。と同時に手紙の価値感を覚え、すぐに返事を書こうと自然に意欲が湧いて来る不思議な気持になりました。学校で賞をもらった絵や習字、成績表も慰問袋に入れました。戦地の兄が少しでも心の安らぎになればと、母と共に幼な心の私も願いがあり一生懸命に書き続けました。
 二年生の終り頃、私が三年生になったら兄さんは帰ります……と書いてあり家族皆が大変喜んだのです。その後、だんだん戦争が厳しくなり、全く帰る気配もなく糠喜びでした。慰問袋が届かなかったり、手紙も途切れていつの返事かわからない状態になり、家族の不安は募るばかりでした。兄は眼鏡のレンズが割れると不自由なので、母は予備レンズを絶えず送っては必ず届いてくれる様に祈っていました。そんな矢先に、兄から突然「○○○島へ移りますから手紙は届かないと思います。」の一言が、最後の手紙となり三年余りの文通が途絶えてしまいました。本当に絶望そのものでした。泣いても悔やんでもどうにもならず、命令に従わされた軍国主義に対し、国民はどれだけ恨んだ事かと思います。父母も当分食事も出来ない程ショックの様でした。
 十九年の夏頃、朝突然母が「兄ちゃんはゆうべお母さんのところへ帰って来てくれたからきっと戦死してしまった……」と目をはらし私達に夢の話をしてくれました。その日朝刊の一面にレイテ島玉砕の活字と、島が火の海と化した大きな記事に皆が絶句しながら仏壇にお参りし一分の無事をお祈りしたのです。
  戦死した兄は母の心の中へ帰り、私の心の中には今も尚、若く生き生きとした兄がそのまま生き続け親の様に私を守ってくれています。五十年前の兄の手紙は私の唯一の宝物として大切に保管しています。二十一世紀に向けて、戦争を全く知らない人達に真の恐ろしさを語り継ぐ機会を是非今年中に企画して頂ける様お願い申し上げ私の体験文といたします。
 (亀山市 60歳)

氏名 近藤ささへ
タイトル 遺されて
本文  夫の出征は昭和十七年一月二十二日、粉雪の舞う寒い日だった。召集令が来てわずか五日目。徴兵検査に合格して現役を二年務めたが、日中戦争中、義弟には二回も召集令が来たのに、夫には来なかった。周りからは籤ぬけと言われていたが、太平洋戦争に入るや否や赤紙が来た。
 夫は数え年三十才、私は二十六才、そして五才、二才、生後百日の三人の子どもがいた。義父は六十四才、義母は六十才で、二町歩程の田畑を耕作し、養蚕、牛も飼っていて、夫の召集はまさに大黒柱を抜かれる思いだった。召集は覚悟していたとはいうものの、いざとなると、皆がうろたえた。
 親類、知人、地区の人たちへの挨拶回りと入隊までの五日間はあっという間に経った。その頃、召集で征った兵は、二年経てば交替で還れるとの噂があったのでそれを信じた。
 入隊当日は、近所や親戚の人々を招いて、別れの宴といっても昼食を共にするだけであるが、朝早くからその準備に大変である。姑は、二人までも戦争に征かさねばならぬのかと落胆し、子供の面倒もみてくださらないし、気丈な義父も火鉢の前に黙って座っていられる。何を聞いても上の空。私は二才の次女を背負って、里の母に手伝ってもらい三十人分程の味御飯を炊いた。急を聞いて、挨拶に来て下さる人にも食べてもらい、それは大変であった。でも、その忙しさに紛れて悲しみに耐えられた。「これからは、ぼやぼやとしてはおれない。人一倍頑張って生きていかなあかん。二年、二年待てば還ってくれるのだから、それまでの辛抱。」と自分に言い聞かせていた。
 夫が家を出る頃は、またひとしきり雪が降って来た。長女は義妹に手を引かれて村役場まで送って行った。姑は人前にとうとう顔を見せなかったが、義父は見送りの誰彼に「名誉なことでございます。」と笑顔で応じていた。
 私は家から遠ざかる夫の後姿に涙していた。忙しくて何も話す間もなかったが、話せば泣けてくるだけでお互いに避けていた。
「子どもを頼むぞ。」とだけ言い残して出て征った。
 赤子が泣き出した。乳を飲ませていたら涙がとめどなく流れた。傍の二才の次女が「お母ちゃん泣いたらあかん。」と一緒に泣き出した。
 義父は、田畑を半分に減らし、養蚕も止め、牛も手放し、「後は心配するな。俺が頑張る。」と言って下さった。しかし、やっと落着いてきた頃、体の不調を訴えられるようになり、程なく床につかれ十八年一月三十日亡くなられた。夫は何処に居るのかもわからず知らせることもできなかった。
 待ちに待った夫からの便りが来たのは、苗代の用意をしていた頃、その軍事郵便の葉書には「南海派遣六二六一部隊奥田隊」とあった。元気でいるとの便りにほっとした。迷った揚句のはてに義父の死を知らせた。中隊長、戦友からも悔みと励ましの手紙が届き、夫は「姑と子供を頼む。何事も実家の父に相談して助けてもらえ。」と書いてきた。が父は所用のため旅行中に下関で亡くなっていた。
 月に三、四回程の手紙を楽しみに家中で待った。同じ内容の葉書だったけど……。その都度、家のこと近所のことを知らせた。やがて夫からの葉書は来なくなり、新聞では、ソロモン群島ブーゲンビル島に敵が上陸したことが載るようになった。アッツ島の玉砕に続き南方にも攻撃が広がり日本の戦況、前途が見えたような気がした。神国である日本は敗けないとか、鬼畜米英とか、誰がこんなこと信じさせたのか、私は新聞記事丸呑みで生きていた。
 多くの犠牲を国民に強いて、戦争が終わり、一年七か月たった昭和二十二年三月、夫の死亡通知が来た。住所のない宛名だけの茶封筒が玄関でない出入口の土間に落ちていた。そこには「近藤 朗 ソロモン群島附近で戦病死」とのみ記してあった。ペらペらの半紙に南方よりの引揚げ船が最終を迎えてからずい分経っているのに、今頃死亡通知とはと悲しみより腹立たしかった。覚悟はできていたというものの五年間ひたすら待ち続けた緊張感がどっと崩れた。出征を免れた夫の友人の「おだって征くでやわさ。わしらみたいに落付いておらんでやわなあ。」との言葉を聞いた時の悔しさ。この悔しさを何といって誰にぶっつければいいのだろう。三人の子どもの成長が生きる力を授けてくれた。
 夫は、「俺は戦地に行っても絶対に生きて還る。三人の子供を残して死ねるか。」とよく言っていたけど、生死は本人の意地ばかりではどうにもならない。夫が戦死して、まるで罪を犯しでもしたように小さくなり、誰の手助けもなく、何の収入もなく、ただ夢中で働くより生きる道はなかった。
 (亀山市 79歳)

氏名 清水 美澄
タイトル 雨降りが好きな子でした
本文  娘が父親の五十回忌(仏教で言うところの)を弔うというように私の人生は、ずっと戦争を引きずって生きて来ました。
 父は私が二才の時に出征し、中部第三十八部隊へ入隊しました。その後独立歩兵第十五大隊に転属し、「中華民国河南省鄭縣趙堡附近二於テエツ病ノタメ戦病死」したと軍隊手帳に記されています。万一中国戦線を生き延びても沖縄戦での生還は不可能に近かったと思われます。その父と過ごした記憶は全くと言う程無く、家に残された写真と母の話とで〃父親像″を創り上げて来ました。ところが三才の時に戦死者を村で弔ってもらった「村葬」の時のことは不思議と記憶があるのです。
 小学校の運動場で行われた「村葬」に出席した私は、杉の木で囲いをして祭壇を設(しつら)えた所へ行く時、喪服を着た母に手を引かれてゆっくり歩いた気がします。他の事は思い出せませんが伯父(母の兄)が茅葺き屋根の葺き替えや庭木の剪定や米麦の収穫など、事ある毎に手伝いに来てくれ、飲むと口癖のように、
「村葬の時、ひな(母の名前)が美澄の手を引いて歩く姿は、いびしょて(いじらしくて哀れでたまらないの意)見ておれなんだなあ……」と、よく言われました。
 私の記憶の原点と言いますか、記憶と事実とが結び付いたのは三才二か月のこの時のように思えます。
 私の家は祖母と親子三人で豊かではなくても食べて行けるだけの田畑があり、幸せに暮らしていました。父の戦死のショックで後を追うかのように祖母が亡くなり、母と二人の生活が始まりました。父に「後を頼む」と言われた母は、田畑の耕作や現金収入を求めて養蚕や他家の草取りなどをして身を粉にして働いてくれました。私は近所の親切な方々に″戦死者の家の子″として大事にしてもらったことを今も尚感謝の気持ちが大きく残っています。そんな時、世情不安で私の家に泥棒が入り、鍵をかけるようになり″鍵っ子”になりました。雨が降ると外仕事が出来ないので母が家に居て、「ただいま」と言うと「お帰り」という言葉が返ってくるので雨降りが好きな子でした。また、母方の祖母もよく手伝いに来てくれ、閉まっているはずの戸が開いている時は西側の道から走って表へ廻って帰ったこともうれしい思い出です。
 こういう子ども時代を経て、当時では少なかった高等教育を受けさせてもらって現在も教員をさせてもらっているのです。残りの教師生活も少なくなりましたが、幸いにも母が仕舞っておいてくれた父の遺品の数々を「平和教育」に使わせてもらい、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の大切さを語っています。
 多くの遺品の中に「大東亜戦争二於ケル功二依り勲八等白色桐葉章及金八百五拾圓ヲ授ケ賜フ」という書類がありました。母に聞いても八百五十円という大金を貰った記憶がないということなので厚生省へ聞きました。
 「初め分割して渡され、マッカーサー指令により打ち切られやがて公務扶助料になった。」ということでした。
 また、現在では信じられないような文書も見つかりました。それは、葬祭料や供物料などの表です。葬祭料は将官百五円、佐官八十二円五十銭、尉官六十七円五十銭、見習士官・准士官五十二円五十銭、士官候補生・下士官四十五円、兵・諸生徒三十七円五十銭と記されています。この他死亡賜金や供物料など全て階級に依(よ)りはっきりと金額が違っていました。父は兵でしたから三十七円五十銭、将官の二・八分の一の葬祭料だったのです。
 さらに遺留品明細書に記載されているのに送られた中に無かったものは現金と、預金通帳と印鑑だったそうです。これも厚生省に問い合わせました処、当時の隊長は既に死亡に付き調べられない旨の返事を頂きました。
 五十一年も経てば普通は死者への思いもだんだん薄れて行くと思います。ところが父の遺品の一つひとつに思いを寄せ、軍事郵便を丹念に読み、それを書いてくれた万年筆を私も使ってみたくなったので旧式のペンを洗ってインクを吸い込ませました。でも先が片方折れていて書けませんでした。その手紙は、いつも家族を思い、生活の心配をし、五十円送金したから保険金にでも使え(実際には届かなかった)と愛情が溢れているし、田畑やリヤカーの事迄も心配し、農作業を手伝って下さった親戚や隣近所へも礼状を出してくれていたことが判りました。父は恐らく無念の死であったと思います。多分無理であろうと思っても厚生省へ問い合わせたりするのは少しでも父の事を知りたいという思いからです。父への思いは年々深まっていくのです。
 人権侵害の最たる戦争が起きない世の中にするために微々たる動きでも続けたいです。
 (大安町 54歳)

氏名 木下 和代
タイトル 父を偲ぶ
本文  それは、昭和十八年の初夏のことであった。
 私は、校長先生に呼ばれ、何ごとであろうかと胸中の不安を押えつつ校長室のドアをノックした。椅子を立たれた校長先生から、「谷さん(旧姓)、お兄さんが名誉の戦死をされました。」と告げられ、思わず絶句してしまった。ひそかに怖れていたものが、現実となってわが家を直撃した様な思いにうたれ茫然と立っていた。
 私は、三男三女の末っ子で、その時十五才、中勢のある女学校で寄宿舎生活を送っていた。戦死したのは、八才年上の三男であった。兄は昭和十年、十六才で海軍少年通信兵として軍籍に入り、主として潜水艦に乗務、昭和十八年一月十三日、伊号第一二一潜水艦に乗務中、ソロモン海域で戦死、艦と運命を共にしたのであった。
 遺骨は、英霊として呉鎮守府より派遣された下士官が捧持して郷里の的矢へ無言の帰還をした。告別式は、村葬として盛大に催行された。
 父は、元海軍軍人で、寡黙な人であった。兄の戦死の前年、請われて的矢村村長に就任していた。
 兄の戦死の公報が村役場に届けられた日、公報を机上に拡げ、「家内に何と言うたらええもんかのう」と、腕を組んで天井をじっと見詰めていたという。父は戦時の村長として村政のほかに、召集、戦死を扱わねばならず辛い勤めの中にあった。わが子の戦死も凛とした態度で受けとめねばならぬ立場にあったのである。
 後日、ある人から「村長さんは、出征兵士を送る挨拶をしながら泣いて居たなあ」と聞かされたことがあった。厳格で、固苦しいとばかり思っていた父の隠れた一面に触れた思いがしたものであった。
 母は、英霊の母として、悲しむことも赦されず、気丈に立ち回っていたが、「晃は、潜水艦と一緒に沈んだと聞いたが、あの遺骨は何が入っとるんかなあ」と、呟いていたのを憶い出す。
 昭和十八年頃から志摩半島にも敵飛行機が飛来する様になり、本土決戦に備え村にも海軍の施設が構築され、軍隊が駐屯し、その対応に追われ、わが子の死を悼む暇さえ無い父であった。
 年が変わり、翌十九年の春、徴用されていた父の弟が戦死した。私には伯父であるその人は、北海道汽船に勤め、甲種船長として商船(空知丸)に乗組んでいたが、船と共に徴用され、本土近海で潜水艦の魚雷攻撃を受け沈んだと云う。沈痛な面もちで仏壇に向かっていた父の横顔が今も眼裏に浮かんでくる。
 母は、その頃から、比島(フィリピン)ルソン島に転勤した長男の身をしきりに案じていた。海軍通信学校高等科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受したという長兄は、海軍少尉で母の自慢の息子であった。無事を祈りつづけた母の願いも空しく、昭和二十年四月遂に任地に於いて散華したのであった。享年三十五才、妻と幼い息子二人が残された。そして敗戦。長兄の告別式は、三男とは対照的に静かなものとなった。
 次男は、陸軍に召集され華北を転戦したが無事復員した。唯一の朗報だったが、次男は既に養子に出て他家の人であった。
 悲運は、更に父に追いうちをかけた。終戦の年の十月、米軍GHQが、日本の教育関係の軍国主義者、国家主義者など戦争指導者の追放を指令した。父は、それあるを期して自ら指令施行前に一切の公職を辞任したのであった。
 敗戦で、それまで国から給付されていた軍人恩給も打ち切られ、遺された長男の妻子、家族を抱え食糧を得るべく山畑を耕し、薪を伐り唯々働くだけの人になった。一段と老いの深まった父の姿は今も私の脳裏から消えることは無い。
 寡黙の父が更に寡黙となり、失意のうちに六十八才の生涯を閉じたのだった。それから数年、気丈な母も小さな母となり父の後を追う様に静かに逝った。
 今、戦後五十年として、戦争が語られている。村山富市首相は、改めて関係諸国に対し我が国の過去の戦争行為を詫びた。
 二人の息子と弟を戦場に失い、自らは村長として戦時の国家に協力、それ故に追放、遺族年金も知らず他界した父は、今、天界で何かを叫んでいる様に思えてならない。
 (砥部町 67歳)

氏名 進士 まさ
タイトル 弟たちへの鎮魂歌
本文  「三人まで国に捧げし丈夫の母は 老いたり尊くも老いたり」
 これは昭和二十年八月八日、終戦を待たず九十三才で、この世を去った母親の悲しみを義父が歌にしたものです。
 大農家の働き手の義弟を昭和十三年に、華中・大別山の野戦病院で亡くし、十九年には同居していた従兄弟もレイテ島で戦死しました。日露戦争でも義父の兄が戦死しており、わが家の敷居をまたいで出征した三人とも生きて帰ってきませんでした。わが子と孫二人を戦争で亡くした祖母の悲嘆を慰める術もありませんでした。
 私の実弟は、昭和十七年、名高商卒業後、大阪の丸紅支店に一週間勤務した後、千葉の防空学校で訓練を受け、久居三十三連隊に配属となりました。弟は島崎藤村や斎藤茂吉、石川啄木など文学を愛好し、とりわけ、藤村の落梅集にある椰子の実の詩が大好きでした。弟と二人で「椰子の実」・㍼・したのが昨日の事のように思い出されます。
 「椰子の実の詩口ずさめば異郷にて 果てし弟の便りがかえる」
 これは私が弟を偲んでつくった和歌です。
 私の母は、陰膳を供え、弟と自らも大好物だったみかんを食べるのを絶って、ひたすら出征した息子の無事帰る日を待ちわびていました。息子を思う気持ちがつのり辛いとき、朗々と詩吟を口ずさんでいました。
 昭和十八年、軍事機密のため日付が書けないので、「ケフハ、ミツコチャンノタンジョウビデス。イマ、マンマルイツキガデテ、オツキミニヨイトキデス……」と、私の長女が読めるようにカタカナで書いた手紙がきました。「南海派遣軍剛第六〇七八部隊・進士清蔵」検閲には部隊長である自らの印鑑を押した、弟からの軍事郵便でした。
 終戦間際に、東京の「菅原道子」さんという方から父のもとへ一通の封書が届きました。その中には、「今日、海軍記念日に、この島を去る一潜水夫に託す……」と、弟の手紙が入っていました。手紙には、大好きな椰子の実の詩が綴られ、両親の身を案じ、私と私の夫に「くれぐれも、後のことよろしくたのむ。」とあり、文面には、弟の言うにいえない悔しさがうかがえました。
 戦争中で交通事情が悪いなか、父は息子の消息を少しでも知りたい一心で、東京まで菅原さんを訪ねました。しかし、「私の弟から『この手紙を投函してくれ』と、頼まれただけで私はわかりません。」とのこと。父はがっかりして帰ってきました。間もなく、弟の戦死の公報が入り、父はがっくりと生きる気力すらなくし、風邪をこじらせ肺炎であっけなく、弟の後を追うようにこの世をさりました。これまで病気ひとつしたことがない父でしたが、こんな戦争さえなかったら、もっと楽しく長寿で過ごせたものをと、父の無念を思うと、私は心の底から腹立たしく思うのです。
 昭和四十五年頃のある秋の日に、兵庫県の加古川から、朝四時起きしてきたと坂田最市さんという方が、「『三重県の進士さん』以外に詳しい住所が分からず、探し回ってきました」と、私の実家を尋ねてこられました。
 坂田さんは、「戦地ニューギニアで私が歩哨に立っていた時、居眠りをしていました。その時、進士さんが見回りに来られ『敵地で歩哨にたっていて、居眠りとは何事ぞ!銃殺だぞ!しかし、このことは誰にも言うな。』といって、その場を去られました。」 「数日経っても、誰も何にも言わないので、これは命を助けて下さったのだと、心で拝んでいました。」 「その後、私は病気になり、内地の病院に送られ元気になりました。」 「一度お目にかかってお礼を言いたくて……」と、みえたのでした。その頃、母は軽い中風で床に伏していましたが、坂田さんは「あの体格のいい進士さんが、亡くなられたとは夢にも思わなかった。」と、母の枕元でおいおいと泣かれました。
 食糧補給が悪いなか、原住民の酋長に弟が英語で話をして、沢山のさつま芋や食料になるものをいろいろもらって飢えをしのいだこと……などの話を聞きました。たとえ少しの消息でもと願っていた、母や私は心の安らぎを覚えました。
 戦後、現地の方の協力と神戸の黒田様のご遺族や皆さんのお骨折りで、ニューギニアに立派な碑を建てて頂きました。戦中戦後、幾多の苦難を味わったといっても、戦争で肉親を引き裂かれた悲痛な思いはいまだに心から消えません。愛する親や夫・息子たちを奪った戦争を二度とくりかえしてはならないと、戦後五十年の今、心新たに胸に刻み、子や孫に、戦争の悲惨さ、愚かさを語り伝えていこうと思います。
 私は八十才、腰は曲がっても日の出とともに起き、畑で野菜や季節の花ばなをつくり健康な日々を過ごさせてもらっていますが、なによりも、わが家から出征し、帰らぬ人となった伯父、義弟、従兄弟や実弟たちのお墓の守りや祖先を供養することは、本家を預かる私の大事な仕事と思っています。
 今なお、戦火の中で悲惨な暮らしを余儀なくされている人たちが大勢います。何とぞ、戦争をやめて下さい! 世界人類の平和のために!
合掌
 (菰野町 80歳)

氏名 四方谷 愛
タイトル 戦争と愛の青春
本文  幾星霜経ても、絶対に忘れ得ぬ日、小雪舞う、昭和十六年十二月八日、津市立高等実践女学校在学中、全校生徒校庭へ集合の非常召集があり、異常事態を察知、寒さと緊張で震える瞬間、放送で宣戦布告の報せを受けました。その後は総てが、軍国主義に塗り潰され、女子学生の教科から、敵国の文字として、英語は抹殺されました。
 「贅沢は敵だ」 「欲しがりません勝つ迄は」等質素倹約を旨として、銃後の守りに徹しました。食糧増産をと荒地を学校の修練農場として、殆ど毎日開墾作業で馴れない鍬や鎌を持つ手に血豆ができても、痛い、辛いの言葉は禁句として皆で歯を食い縛り、慰め、励まし合って、戦地の兵隊さんに申し訳ないと頑張りました。又裁縫の時間には、きものの袖を切り袖口は小さく締め、下はモンペの決戦服と、綿入れの防空頭巾を専門に作りました。私達の同級生は干支が寅ですので、出征兵士、武運長久祈願の千人針を緑色の太い木綿糸で縫いました。鋏は使えないとの決まりがあり、爪や歯で切る為に、指先は血が滲み血染の千人針ができた事も度々でした。
 十八年三月卒業、向学心に燃え、たとえ餓死しても進学したいとの希望も空しく、諦めました。当時、学徒動員で男子学生は続々と入隊しました。女子も挺身隊として軍需工場へ徴用されました。私も家から通える距離の三井造船所へ就職しました。どうにか職場にも馴染んだ酷暑の七月二十日、病弱な母が突然他界しました。亡母の四十九日の法事を済ませ、親戚の人々も帰り、静かになった夜半、突如父に召集令状が来ました。正に晴天の霹靂(へきれき)。月の美しい、虫の声も澄んだ夜を父と二人で語り明かしました。私が十八才、弟と妹三人で末の妹は三才で歩き始めた頃でした。
 ○ 亡き母の法事済ませて一息す 夜半に受けしお召しの報せ
 ○ 子等五人見捨てて征きし若き父 お国の為と勇姿残して
 父は三日後慌ただしく、日の丸の小旗を手にした大勢の人々の歓呼の声に送られて、出征しました。両親のいない子供ばかりが残された家庭は、筆舌には尽し難い苛酷な日々でした。お国の為を、合言葉として五人が肩寄せ合い淋しさを紛らわしました。三才下の妹が家事を担当し、私は朝星、夜星を頂いてポロ自転車で四粁(キロメートル)の道を通勤しました。
 ○ 苦しみも父を偲べば泡沫(うたかた)に 消えて晴れ行く我が心かな
 戦況は激しく、玉砕を聞く度、動揺する弟妹達を宥(なだ)め、勇気付けて過していました。夜の空襲は頻繁になり、灯火管制で暗い僅かな灯の下で、通学用衣服の繕いや藁草履作りはどうしてもせざるを得ない日課でしたが、辛い、悲しいと思う余裕もなく唯今日一日の無事を感謝し、私を頼りに無邪気に眠る幼い弟妹の寝顔に、重責を感じ、父の陰膳に語り秘かに涙しました。
 伊勢神宮の近くで軍需工場が標的となり、B29爆撃機の銀翼と、金属音を響かせての空襲は絶え間のない毎日でした。職場では、実戦に備えてと竹槍、救急訓練もしました。警報の発令がないので外出した時、不意に鈍い音と同時にグラマン艦載機の素速い機銃掃射が目前で、咄嗟に手当たり次第トタンの切端を被り伏せました。音が遠ざかり、助かったと我に返り喫驚(びっくり)、手を伸ばせば届く所に銃弾の跡があり、煙と火薬の臭いが立ち込めていました。自分が命拾いした喜びより、家で私の帰りを待つ弟妹の安否が気掛かりで生きた心地のしない長い数時間でした。
 食糧事情も最悪の頂点に達し、主食は勿論、総て不足でした。育ち盛りの子供には目も当てられない惨状でした。神国日本は今に神風が吹き、必ず勝つと勝利を信じ団結して、励まし、助け合い、隣組の方々始め、出征兵士の家族として優遇していただきました。今でも忘却してはならないご恩を痛感し、返すべく努めています。
 「精神一到何事かならざらん」を座右の銘として、強く生き抜いて、万一父が生還した暁には、弟妹の成長を自慢して褒めてほしい一心で精一杯頑張りましたが、甲斐なく二十年八月十五日敗戦の憂き目を見るに至り、余りにも悲痛な現実に想いは千々に乱れ、冷静を取り戻す努力に、時を要しました。一枚の赤紙でお国の為と召され、大君に捧げた命と覚悟はしていた筈ですが、憤懣(ふんまん)遣る瀬ない心境でした。
 「二十年三月二十七日、西部ニューギニヤ・マノクワリ方面こ於テ戦病死セラレ候。」との死亡告知書が、二十一年六月十日付で届き、私達五人の弟妹にとって一大悲劇の展開となりましたが、現在では過去の苦労は悪夢と消え、両親を知らずに苛酷な運命の仕打ちに耐えた弟妹も五十路の坂を越え、良い伴侶を得て健康に恵まれ、恙(つつが)なく暮らしております事を何より嬉しく安堵しています。
 父の最期の地へ行きたいと念じておりました処、今年三月、政府派遣慰霊巡拝団に全国で四十四名の中へ妹と二人参加出来、有難く感無量でした。お蔭様で私も古希を迎え、平和、健康、善良な人々との出合い、総てに感謝一杯の毎日です。
 ○ 逢いたいと思い続けて半世紀 声はなけれど会えた喜び
 (南勢町 69歳)

<学校生活>

氏名 斎藤 ユキ
タイトル たこつぼ
本文 「僕は先生に命を助けてもらった。」
 突然訪ねて来た教え子に言われても、私には何の覚えもなく何の事だかわかりません。
 実は小学校三年生の時、彼は弟と二人で田圃の続く田舎道で遊んでいたところ、戦闘機の空襲にあい隠れる処なく咄嗟(とっさ)に逃げ込んだところは水路に埋まった土管、弟の尻を押し込み、彼ももぐり込んで危うく難をのがれたと言うのです。低空飛行でくる小型機の空襲は大変恐ろしく人の姿が見えると機銃掃射でねらわれるので、「飛行機の音がしてきたら早く土管にかくれるように」と言われていたので助かった。「先生は命の恩人です」と思い出を語ってくれました。
 五十年前、米国機の本土爆撃が毎日続き、勝つ事を信じて教壇に立っていた私共にも敗戦の気運が感じられるようになってきた頃
 「ウ--」
 長く鳴り続ける警戒警報が響くと、大急ぎで持ち物を片づけ、防空頭巾をかぶり、通学団別に運動場に集合、走るように家へ帰りました。のびたちぎれそうになった藁草履をはき、上級生は下級生の手を引っ張って石ころの多い凸凹道をただ走るのでした。
 「ウ--、ウ--、ウ--、……」
と空襲警報が鳴り爆音が聞こえてくると、木立や家の軒下などに身を臥(ふ)せ、身動きも出来ず敵機の見えなくなるのを待つのでした。警報解除のサイレンが鳴るとやれやれ、無事でよかったと胸を撫でおろすのでした。が、家まで逃げ帰れないとき避難場所として防空壕や、たこつぼを掘らねばならなかったのです。
 幸い学校の裏には海に続く広い松林があり先ず防空壕を堀りました。丸太棒を打ち込み寄せ集めの板で土のくずれを防ぎ、杉皮で屋根を作り、大昔の住居のようなものです。少々の爆風にも耐えられるように職員の手で作りました。この壕へは天皇陛下の写真、詔勅(これらは国の祝日に式場に飾られ教育の中心で最も尊厳で大切なものとされていました)、更に重要書類を避難しました。警報が鳴ると校長先生は白い手袋をはめ、これ等を壕へ運ばれました。
 生徒の避難用の壕、それが″たこつぼ ″です。松の根、笹竹の地下茎が縦横に走る粘土質の硬いところへ直径、深さとも九十糎(センチメートル)程の円柱形の大きな穴を掘るのです。スコップ、移植ごて、バケツを持ちより、力のある五、六年生を中心にみんなで協力して一生懸命掘りました。避難の練習を繰返すうちに穴はだんだん大きくなり形を整えました。低学年と高学年の二人、膝をかがめ、身動きも出来ず時間のたつのを待つのです。こんな小さな穴が、いざと言う時の安全地帯でした。
 生徒を家庭に送り届けて学校に戻った私ども教師は各教室をまわり窓を開け、(爆風の衝撃を少なくするためで、この窓ガラスには吹き飛ばないよう紙テープが張ってありました)消火用のバケツの水はいっぱい汲んであるか、砂袋、むしろ、縄はたきの用意はよいか確認してたこつぼに入るのでした。
 「‥‥B29、○○機は只今志摩半島を北上中。」
と情報が流れる時は、もう飛行機は頭上、鈍い重い爆音が聞こえ、機首を東にむけ何機もの編隊が、東海地方の軍需工場を目ざしているのが松の枝越しに見えるのでした。
 こうしたたこつぼへの避難、一斉下校が何日も続きました。食事どころではありません。誰かの救急袋に入っていたいり豆を分けて代用食としたことを記憶しています。松阪周辺の田舎ですら恐ろしい空襲をたこつぼに託したのです。
 夜の空襲のこわさは筆舌につくせるものではありません。今夜も空襲がある。真暗がりの中で行動できるように枕元に防空頭巾、救急袋をおいて、着たままのごろ寝です。地元に勤務していた私は警報が鳴ると飛び起き、すぐ学校へ走り、大事なものを壕へ移し落付かぬ気持ちでラジオを聞きながら廊下をあっちこっち見て回るのでした。
 今でもあの夜の光景が鮮明に残っているのが名古屋の大空襲です。伊勢湾を隔てたむこうから爆風が窓ガラスにビリビリと伝わり、赤い尾を引き雨のように落ちる焼夷弾が大空を真っ赤に焦がすのが見えました。人々はどうしているだろうか防空壕もたこつぼも役にたつ避難所ではないと思うと、ただ一刻も早く敵機の飛び去るのを祈るのみでした。
 何年かしてこの松林のたこつぼを訪ねてみました。まわりの土がくずれ、あちこちにそれらしい水溜りが昔の面影をとどめるのみでした。
 古希を過ぎた今、神風の助けを信じて掘ったたこつぼは、みんなの心と命をつなぐあの大戦の思い出として忘れることはできません。
(嬉野町 71歳)

氏名 長井  光
タイトル 戦時下の学校生活をかえりみて
本文  私が小学校五、六年生のころ(昭和十三、四年)あちらこちらの家に「召集令状が来た。」の声を耳にするようになった。そのたびに日の丸の小旗を手に、先生に引率され、高茶屋駅まで兵隊さんの見送りにいった。村の役員の人、愛国婦人会の人、親戚の人、ホームいっぱいの人々の前で、元気いっぱいの兵隊さんの挨拶を聞き、比較的明るい気持ちで参加していた。
 しかし、ある日「叔父(母の弟)の戦死」の報を受けた。そのころはまだ戦死が珍しく、近所も大変な騒ぎであった。私は小さい頃よく遊んでもらった秀おじさんの戦死で初めて「戦争とは大変なことなんだ」との思いを深めた。
 女学校の四年間はだんだんと戦場が拡大されその後戦況は不利になりはじめた。空襲も始まった。英語の授業が廃止され、そのかわりに、教練やなぎなたの教科が新設された。空地の開墾作業にもよく動員され、手に豆を作りながら食糧の増産に協力した。学徒動員もはじまったが私達はどうにかのがれ、四年間がすぎ卒業した。
 「ほしがりません勝つまでは」の合い言葉でがんばった師範学校時代、全員寄宿舎生活で起床、廊下の拭き掃除、朝礼、朝食、登校……就寝まで、ベル、ベル、ベル……家を離れた淋しさなど味わっていられなかった。が空腹だけは辛かった。勤労奉仕作業で授業はだんだんカットされた。
 二学期からは、いよいよ授業がなくなり、作業が中心となった。農家の手伝い、学校園での食糧増産、植林、顔のうつるような薄い雑炊を食べ、お国の為と一心不乱、不平など誰も言う者はいなかった。
 やがて、とうとう私達にも学徒動員の命令がきた。夏休み返上で学校を離れ、七、八、九月の三か月間、四日市の工場で働くことになった。軍人さんの毛布のふち縫い、毎日毎日ミシンをふみ通した。私語一つなく真剣そのもの「月月火水木金金」の三か月だった。この重労働も、若さと愛国心とで乗りきれたのだと思う。
 次は高茶屋の航空機関係の工場に動員された。プロペラやベアリングを研く作業だったが、空襲のため部品が整わず、時間をつぶす事が多かった。奉仕作業の二年間が過ぎ昭和二十年三月卒業した。
 この間に兄は教育召集をうけ、京都騎兵隊に入隊、ビルマ(現・ミャンマー)に出征し、昭和十九年十月戦病死した。公報は三年ぐらいすぎてから届けられた。兄の戦死により、私の人生は大きく変えられた。
 四月、満十九才の春、国民学校訓導として香良洲尋常高等小学校へ教師として第一歩をふみだした。しかし生徒を前にしたとき、私は自分の学力の不足に後ろめたさを感じた。高等科一年女子組を担任したが、連日の空襲警報で、授業は満足に出来ず生徒は下校、防空壕の中で過ごす日々であった。
 男の先生はどの学校も二、三人だけなので、日直(日曜日の留守役)はもちろん、夜の宿直も女教師の仕事であった。
 ある宿直の夜、空襲警報が発令された。御真影の入った大きな木箱を背負い、壕に避難した。津市内が空襲をうけ、北の夜空が赤く染められた。その光景がいつまでも目に焼きつき、その夜は眠れなかった。一抹の不安を感じながらも必勝を信じていた。
 それから一か月もたたず、八月十五日を迎えた。この日全職員が召集された。十二時に玉音放送を聞くとのこと、私はいよいよ本土決戦のお言葉があるのかと思いながら、ラジオの前で直立の姿勢で拝聴した。
 ″晴天のへきれき ″とはこの事なのか。お言葉が終わっても一瞬何のことかわからなかった。「たえがたきをたえ、忍びがたきを忍び」のお声は今も耳に残っている。体中が空気のぬけたゴム風船のような脱力感に襲われた。
 永い永い戦争は終わった。
 終戦後三十六、七年たったある日、見知らぬ老婦人がこられ「墓地を一か所わけてほしい。」との申し出があった。理由は、主人は亀山の墓地に、二人の子供は津市内のある寺に、別々に眠っている、一緒にほうむりたい、との事。子供二人は津の空襲でなくなりましたと、その時の事を話された。
 「下の娘を背負い、上の娘の手をひいて、焼夷弾の降る中を人々の流れに押され逃げまわった。途中上の娘のお腹に破片があたり倒れたので、その子を横だきにし、火の中をかいくぐり、やっとの思いで郊外にのがれ、二人の子をおろした。が、背中の娘は頭にたまをうけすでに死亡、上の娘は重体、医者にも診てもらえず、薬ひとつ呑ませられず、農家の小屋のわらの上で死にました。私は子供を守ってやれず、子供が私を守ってくれたのです……」と。苦しむ我が子を前にしながら″何もしてあげられなかった、悔やんでも悔やみきれない親の気持ち ″。
 戦争は絶対になくすべきです。
(津市 69歳)

氏名 石倉 綾子
タイトル 運動場が畑になった
本文  ドーンと太鼓がなると、皆一斉に鍬をふりあげる。次にドドーンとなると揃って鍬で地をうつ。全体揃わなければ駄目だ。個人の勝手は許されない。
 昭和十八年。私は旧制高等女学校の二年生であった。戦況は不利となり、食糧事情も悪化して町には栄養失調のむくんだ顔をした人が多くなった。人たちは少しの土地も耕し、線路の土手にまで南瓜をつくった。
 やがて学校の運動場まで畑とすることになったのである。全校生徒が学年ごとに、決められた時間、運動場に一列横隊に整列し、前述の太鼓にあわせた耕作となった次第なのだ。運動場は固く、礫が多く、毎日雑炊しか食べていない空っ腹にこたえた。靴もなくて裸足の女学生たちは、懸命に鍬をふるったのである。これで運動会もなくなるのかなどと、文句を言うことは絶対許されなかったし、何よりも生まれて以来、四歳で満州事変、八歳で日中戦争、十二歳で太平洋戦争と戦争以外の平和な世の中を知らず、上の命令には絶対服従の徹底した戦時教育を受けた身は、何ごともお国のため、天皇陛下の御為と、不平なんぞ言うことは考えもしなかった。
 すべて政府(おかみ)の言うことは正しく、先生の仰言ることは絶対まちがいはない。ゼッタイという言葉がさかんに使われ、私たちは絶対勝つことを信じて、炎天下ひたすら鍬をふるったのである。
 さすがに、一斉に揃って耕作するのは、運動場の部分による土地の固さの相違や、或いは個人の力の差などもあって、非能率だということになって、個人の考えで鍬は自由に使ってもよろしいが、しかし隊列は乱すな、ということになった。
 農業という科目が、新しく正規の時間割の中にくみこまれた。そして敵国の言葉である英語の時間が削られることになった。すべてのものにおいて、敵国語を使うな。日本には美しい「言霊(ことだま)」のにおう、大和(やまと)ことばがあるのだ。女学生はスカートにかわる「もんペ」をはいて、水兵服(セーラー服)の上着を着、受信機(ラジオ)の点滅器(スイッチ)を入れ、日々悪化してゆく戦局を聞いた。
 運動場は漸く畑らしくなった。みるからに痩せた畑に、痩せた白髪の先生が痩せた女学生に指揮して甘薯の蔓を植えさせた。若い元気な男先生は皆出征して、町にはいなかった。先生も私たちも百姓は始めてで、どのように薯を植えればよいのか、見当もつかなかった。肥料は糞尿。学校の便所から汲みとった糞尿を、桶に入れて天秤棒でかつぐのだ。天秤棒でかつぐ二人の背がそろってないと、桶が安定せず悲惨なことになる。私達はおそるおそる糞尿のとばっしるがかからないよう、畑となった校庭に肥をまいた。
 体育の時間は、畑の中の畔を専ら行進した。畑のすみを踏まないように、一、二、一、二と歩調をとって直角にまがらねばならない。「撃ちてしやまん、勝つまでは。」をスローガンに、神風は吹くと信じ頑張ったが、やがて勉強をやめて工場で兵器を作る動員令が下された。同年輩の男の子は少年兵などに徴集されたのである。

 クラス会

見てください あなた
これは
昭和十七年の
わたしの小学校の卒業生名簿です

カッちゃん タケシくん
死亡

五十年ぶりにひらかれた
クラス会に
彼らは童顔のままやって来た
レイテの沖からアッツ島から

木登り名人のジローさんは
十六歳になるのを待ちかねて
少年飛行兵になった

アリューシャンの海のような目の色をして
空白の卒業生名簿欄に
顔をみせる

平和のための武力とか
核の実験とか
渦まく世相に
サイパンからグァムから
幼く散った
級友たちが
足音もたてずに
やって来た

五十年ぶり

クラス会

 (松阪市 66歳)

氏名 伊藤 光典
タイトル わたしの青春前期
本文  年々戦争体験世代が減っていく。今日も平和、明日も平和で戦争はおろか平和の風化すら言われ始めた今日このごろである。
 戦後五十年。この節目に、生まれながらにして平和と繁栄の中で育った世代や戦争を知らない若者に、半世紀前の、今では想像もできない「つらい時代」があったことを戦時経験者の一人として是非知ってもらいたい。
 私たちは昭和十年に小学校に入学した。校門を入ると正面に奉安殿があった。この奉安殿に向かって最敬礼をして教室に入った。奉安殿には天皇、皇后両陛下のお写真と教育勅語が置かれていたのである。教科書は国定で「サイタ サイタ サクラガサイタ」「コイコイ シロコイ」から始まった。教育勅語をはじめ「神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、……」と歴代天皇名を夢中になって暗誦もした。ショックだったのは一番楽しみにしていた小学校最後の修学旅行、伊勢一泊の旅が戦雲の高まりで日帰りに変更されたこと、その時の皆んなの表情ぶりが浮かんでくる。
 希望に胸躍らせて中学校に入校したのは十六年四月、この年から学生帽が白線一本の戦闘帽になり、編上靴は鮫(さめ)皮、制服は桑の木の繊維でできた国防色。そしてその年の暮れには太平洋戦争が始まった。楽しかるべき学生生活も戦線が拡大し戦局が緊迫するにつれて、授業が減り、軍事教練や勤労奉仕が増えた。
 横文字の球技は廃止され、部活動は手りゅう弾投げ、城壁登り、銃剣術といった戦場競技一色になっていった。そんなこんなの中、忘れられないのが十九年七月、サイパン島守備隊玉砕直後の学徒勤労動員である。
 動員は桑名市内の三工場(東洋ベアリング、日立、山本鋳造)に分かれての通年動員。私たち北勢線通学組は山本鋳造の機械工場に派遣された。朝夕、七六・二センチの狭々軌の電車にすし詰めになって学校ならぬ軍需工場に通勤した。私の仕事はボール盤で航空機を組み立てる土台(丸管治具)を加工した。一日中立ちっ放しの作業だったが、付きっきりで親切に指導して下さったのは、市内上野の菓子職人の水谷さん。徴用工の方だった。眼鏡を掛けた奥の柔和なお顔が印象的だった。
 工場からは作業服も作業靴も何も支給されず学生服のままの作業のため、油と汗と挨にまみれて服は黒く光っていた。こんな状態で毎日が続き、暑さ寒さが来て、去っていった。このような単調な日々と青春の狭間を埋めてくれたのは休憩時間だった。
 広い食堂で女子学徒や女子挺身隊を遠目にしながらの異性談義、工員さんから教わった流行歌の練習、大人びた映画や俳優の四方山話等、大人社会を垣間見る楽しい時間だった。また作業終了後、汚れた手を油と磨き砂のようなもので洗い、黒い指紋が残っているのもそこそこに、ご法度の映画館へ脱線、終電車に間一髪セーフといったスリルを味わったことも。
 他方、進学期を控えての動員だったので、受験勉強が気がかりだった。それに追い討ちをかけたのが、戦時特例という名の繰り上げ卒業である。われわれ四年生と五年生が同時に卒業というので、窮余の一策で先生の助言もあり車中の時間も惜しんで本を読んだ。万葉集、新聞の社説、政府発行の「日本週報」、また吉川英治の長編「宮本武蔵」を同僚と回し読みした記憶がある。
 そんな中、やっと届いた志望校(山梨工専)からの合格通知は「入学式は未定、現在地において動員継続、追って連絡」だった。連絡があって異例の入学式を済ませたのが七月二日、四日後の甲府大空襲で校舎も寮も丸焼け、着の身着のままで帰宅。再び甲府に戻ったのは「新型爆弾使用」が報ぜられた八月十日頃だった。そして運命の八月十五日を学校の焼跡で迎えたのである。なぜか涙は出なかった。
 このように私の青春前期は終りを告げた。むりやり大人扱いされた学徒動員も。
 昭和の初めに生まれ、昭和の終りの年に還暦を迎えた私の自分史はそのまま昭和史なのである。
 昭和一ケタ世代は常に時代の波打ち際にいて、聖戦という名のもとに一片の疑念も抱かず純粋に青春のエネルギーをぶっつけ合った。それに当時、竹筒の中から丁重に取り出した開戦の詔書を隣組の常会で朗読する父、頭を垂れてそれを聞く隣組の皆さん、疑うことも反論することもなく律義にお上(かみ)を信じて生きてきた日本の庶民を重ねるのである。
 今にして思えば、ここに怖さがあった。無知の怖さである。
 それにしても、ただ一つの価値観で全員が一斉に一つの方向に動くことの恐ろしさに、教育の力の重さ大きさを改めて思うのである。
 私たちは両極端の体験をした。すなわち、「戦争」と「平和」であり「飢餓」と「飽食」であり「節約」と「使い捨て」である。まさに歴史を生きた思いである。私たちは昭和を生きて得た、平和の尊さを次世代にきちんと伝えていかなければならない。事実を加工することなく、ありのままに。
(東員町 66歳)

氏名 三浦美弥子
タイトル 私の受けた国民学校教育
本文  考えてみれば、私は物心ついた頃から、日中戦争、太平洋戦争と戦時下で生きてきましたから、どのような理由で戦争が起きたかも知らぬまま、これが日本の姿であると受け入れておりました。
 太平洋戦争が勃発しましたのは、私が国民学校四年生の時でした。最初の戦局は華やかな報道ばかりで、教室に張られた大東亜共栄圏構想の地図は、日の丸の旗で埋めつくされて行きました。
 「我が大日本帝國は万世一系の天皇これを統治す」のもと、神武天皇に始まって、今上陛下に至る歴代天皇の御名を一生懸命におぼえ、全員がすらすらと暗誦、教育勅語も大変むつかしい文章で、その意味も理解出来ぬまま、これまた全員暗誦しました。
 書道の書き初めは、年の始めを寿ぐ言葉が常ですが、当時は「撃ちてしやまん」、「不自由を常と思えば不足なし」などと書き、講堂に掲示をしました。
 音楽に至っては、外国語は使用しない方針で「ドレミファソラシド」が、「ハニホヘトイロハ」とあらためられました。これは私にとって、とても悲しいことでした。音楽で一番力を入れられたのが和音教育です。なんでも敵機の爆音を聞きわけるためと聞かされました。私は何故かこの時間が一番楽しみでした。そして皮肉なことに、ハーモニーの美しさを和音で学びました。
 ある日、音楽の時間に、レコード鑑賞をしました。その時先生が、そーっと流して下さったのが、スコットランド民謡の数々でした。軍歌でまみれていた私の胸はたかなりました。そのメロディの美しさは、玉手箱の様に感じられ、早くこの様な美しい音楽が、誰にも気がねすることなく聞かれる日々が来てほしいものだと、子供心に感じたものでした。外国の文化を排除した分、国語教育は徹底していました。漢字、筆順はくり返し、くり返し教わりました。文章の理解度やアクセント、作文に至るまで、大変ウエートを置いた教育でした。六年生国語「修行者と羅刹(らせつ)」で、釈迦の教え「いろはにほへとちりぬるを……」を習い文学の神髄にふれた様な気がして、文章の美しさを知りました。
 六年生になった時には、戦局は悪化の一途をたどっており、いつ日本が空襲を受けるかも知れない状況になっており、始めて修学旅行が中止されました。その頃から、軍隊式といいますか、命令は必ず復唱して行動するようになり、今迄にも増してきびしい教育になって行きました。
 全員が蚕を飼い、少しでも兵隊さんの衣服になるよう頑張りました。そして飛行機の燃料にするため、油のとれる種を播いて花を育てました。家庭では、金属類はすべて供出するように命令があり、家宝は次々と鉄砲や兵器に衣がえをして行きました。
 生徒は毎日近くの神社に参拝、兵隊さんの武運長久を祈るばかりでした。私どもは漠然とではありますが、死を考えねばならない程、心が追いつめられておりました。ある一人が言いました。
 「鬼畜米英が日本に上陸して来たらどうする。」
 「その時は、舌をかみ切ったら死ねるんや。」
そして、かむ練習をしました。その時は本当に私もそうするつもりでした。
 「日本は神国や、一大事の時は神風が吹いて日本をお助け下さる。」
誰が言ったのか、皆はそう信じていました。私も又信じていました。
 「いつ神風が吹くんや、明日か明後日か?」
けれど、空襲で家が全焼しても、原子爆弾が投下されても、神風は吹きませんでした。
 昭和二十年七月二十四日、津も空襲を受け家は全焼、それ以来沢山の方々の御厚意を受け、雨露をしのぎ、飢えをしのぎ生活をしてきました。
 終戦の日は、焦土と化した我が家で迎えました。むし暑い日で、入道雲がまるで原爆のきのこ雲のように見えました。女学校二年生の時です。家族は放心状態で、この先日本がどのように変わって行くかより、明日の食べ物の心配をしなければなりませんでした。
 戦後五十年、日本は本当に多くの方々の犠牲をもとに、平和な今があります。尊いことだと思います。もう戦争体験は私達の世代だけで結構です。私達は、今こそ声を大にして叫ばなければなりません。
 かけがえのない地球、そしてあらゆる生物を守るために、核兵器の根絶を!
(河芸町 63歳)

氏名 竹田 イセ
タイトル わたしの国民学校時代
本文  私は、昭和十七年四月、国民学校(今の小学校)に入学した。それは、真珠湾攻撃から四か月後のことである。
 学校によっても多少異なるとは思うが、私の学校ではその頃、講堂の前方には扉があり、その奥には御真影(天皇陛下の写真)と教育勅語が入れてあった。学校では一年間に何回も式があり、その時校長先生が扉の前におもむろに進み、扉を「ギィー」と開けてそこから教育勅語の入った桐の箱を出してうやうやしく正面の机に置き、箱の中から教育勅語を出して読まれた。巻物(勅語)を出してから終わりまで先生も子供もずっと頭を下げて聞いている。鼻汁が出てきてもすすることも禁じられていたが、そんな時に限って鼻水がずるずると落ちそうになり必死でこらえていた。
 式は天長節(昭和天皇誕生日、四月二十九日)、明治節(明治天皇誕生日、十一月三日)、紀元節(建国記念日、二月十一日)等である。式にはそれぞれの式歌があり、それらは文語体の歌詞でむずかしく音楽の授業で習っても子供は何が何だか意味がわからずに歌っていた。もう大部分は忘れてしまったが、明治節の歌は「アジアの東、日出ずるところ、ひじりの君のあらわれまして……」、紀元節の歌は「雲にそびゆる高千穂の……」というような歌であった。
 また「天皇陛下」という言葉を言う時も聞く時も不動の姿勢でなければならなかった。今はテレビのニュースで天皇陛下が出てきても、ねそべったまま見ている時代であるから、当時の様子が理解できないと思うが。
 戦時中は食糧難のため、運動場は畑と変化していった。その畑にはさつまいもやかぼちゃ等が植えられた。主食はごはんではなく、おかゆ(米はほんの少し入っているか入っていないかわからない位入っているだけ)とふかしたさつまいもであった。
 今、考えるとずい分軍国主義的なにおいのする教育を受けたなと感じる。例えばクラスの中の誰かがいたずらをすると、それは連帯責任として全員が廊下に立たされた。わけもわからず長時間立たされることがあった。また農作業の時間があり、上級生と一緒に仕事をした。その時、上級生が十人位横一列に並び、先生に往復ピンタされているのを見た。私達下級生は恐怖でふるえていた。
 四年生になると「修身」という教科を学習した。この授業は学級担任ではなく校長が担当した。初めは教育勅語を習った。「朕おもうにわがこうそこうそ……」校長は大きな声をはり上げて指導してくれたが、難しくて何のことだかさっぱり分らなかった。修身の教科書を机の上に立てて腕を伸ばして持ち、姿勢は背筋を真直にと、一々うるさくしつけられ、本を開ける時も閉じる時も礼をした。
 国語の学習は、歴史的かなづかいであった。「ゐ」「ゑ」などの文字も使い、「ちょうちょう」のことを「てふてふ」と表記した。三年生頃からは文語体の教材が多かった。
 歴史的な教材は古事記や日本書紀等による神話が多く、神様が島に綱をつけて引っぱり、小さい島々を次々にくっつけてだんだん大きい島にしていくという「国引き」や、天照大神が天の岩戸の中にかくれて世の中がまっ暗になり、岩戸の前でにぎやかに踊ると天照大神が天の岩戸から出てきて明るくなったという話などがあった。
 学校へはわらぞうりをはいて登校した。雨降りの日ははだしである。そのため足洗い場が混雑した。自分のわらぞうりは自分で作った。工作の時間はわらぞうり作りである。高等科(今の中学生)の人達は米俵も作っていた。学校でわらぞうりの作り方を教えてくれるのは先生ではなく、学校近辺の農家のおじさんだった。ぞうり作りを教わると家に帰ってから、仲良しの近所の子供達がわらを持ち寄って、三々五々わらぞうり作りをした。
 食糧は勿論のこと衣類その他日常生活用品すべて兵隊さんの所に送るので一般国民は何でも倹約倹約の世の中であった。食べ物は前に述べた物の他に代用食と言ってさつまいもの茎、とうもろこしやかぼちゃ等である。子供は頭ばかり大きく、手足はやせ細り、栄養失調の子が多かった。子供達はあまりくわしい事情がわからぬまま「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に倹約にじっと耐えていた。
 戦時中は日本は神の国だから、負けることは絶対にないと教育されてきた。戦況を知らせるニュースも日本が勝っているような報道ばかりで敗色の濃いことは国民にはあまり知らされなかった。まして私達子供は日本の勝利を強く強く信じていた。教育の力とは本当に恐ろしいものである。
 実際に戦争を身をもって体験した私達戦中っ子、戦争の恐ろしさを肌で感じとった私達、まだまだ書き切っていない空襲や爆撃などを体験した私達が、平和への願いが強いのも当然のことであろう。
(白山町 60歳)

氏名 中村 隆至
タイトル 戦後五十年の私の決意
本文  五十年前のことが、一、二年前のことの様におもい出される。「国民学校」と学校の呼称がかわった年に私は小学校に入学した。
 小学二年生の時の絵のコンクールで、日本の飛行機が相手国の飛行機をうちおとしている絵を画いて金賞をもらったことを覚えている。その当時の教育は、あらゆる場で軍国の志気をたかめるための教育がなされていた。特に唱歌の時間(現在の音楽)には軍歌と式歌ばかりであった。その軍歌の一曲に「勝ち抜くぼくら少国民……」というのがあり、小学二年生だからあまり意味もわからないままに口ずさんでいた。そういう時代だったと思えばそれまでだが、歌を口ずさむと、その当時の色々な思い出がよみがえる。
 小学校二年生の三学期に私は猩紅熱という大病にかかり、生死をさまよう状態が続いた。医学の発達していない時代だし、物の不足がちな時だったから、全快までに三か月間を要した。この時分から夜間には灯火管制が敷かれて、夜は電灯を消したり、電灯に覆いをして暗いなかで毎日を過ごした。
 警戒警報、空襲警報の知らせが入ると、病棟の人たちもみんなが防空壕に避難された。私は立って歩く体力が無く、動くことができない状態だった。看病に付き添ってくれていた祖母と私だけになり、私はこれで命は終わりかなと思った。そんな時、祖母が「私がそばにいるから、爆弾がおとされても一緒に死んでやるよ」と私をカづけてくれた事が今もはっきりと脳裏にやきついている。またそれと同時に室内は暗く窓から見える星空がきれいだったことも思いだされる。今考えるとすでになくなっている祖母のその時の気持は、私に対する愛情と世の無情さに対する気持ちがあったのではないかと思われる。
 小学校三年生の中頃から戦況がきびしくなり、若い男の先生が戦地へ出征されたので、小学校三年生の一年間だけで担任の先生が四回もかわられた。そのうち二名の先生は戦死された。その時は日本が戦争に勝ってほしいと願っていたし、必ず勝つものだと信じていた。そして米英の人達はかわいそうな人たちだな、自分は日本に生まれて本当によかったと心から思っていた。現在よく言われる、マインドコントロールだったのだと思う。
 毎日の様に爆撃機のB29が飛んでくるようになり、私達は登校しても、すぐ防空頭巾をかぶり家に帰るくりかえしだった。白色の服装は飛行機からの標的になりやすいからという理由で、国防色といって黄土色で服装のすべてを染めたために、夏でも白色のシャツは見られなかった。食べ物も自由に得られず、不足がちであり白米はもちろん麦飯もたべられなくなり、お粥やさつまいもを食べ生活した。学校の校庭や運動場も耕されて、さつまいも畠となり、私達の運動する場所もなくなった状態だった。
 小学校四年生の八月に戦争が終わったのだが、その年の四月頃から白山町へ疎開をした。戦況も益々ひどくなり、松阪も危ないだろうということで私の友達も色々な所へ疎開して、一時ばらばらになってしまった。特に小学校四年生の時は、避難訓練と、夜は空襲警報が毎日のようにあり、勉強する時間等は殆どなかった状態だった。
 広島と長崎に原子爆弾がおとされた時、その時のうわさ話では、「今後五十年~七十年位先まで革も生えないような新型爆弾」だときいて、たいへんなことだと思った。
 四年生の一学期のはじめ頃から三~四回アメリカの飛行機からビラがまかれて「もう戦争は終わる」という意味のものだったが、この時でも日本は絶対に勝つものだと信じていた。結果は敗戦ということで終戦をむかえたのだった。それから三~五年間位は本当に人の心が荒れ落ちつかなく、毎日の生活をいかにするかで追われている感じだった。当時、小学校五年生の子供ながらに、友達と衣食住で何が一番大切か、と言いあった事があった。物の無い時であり、特に毎日の食べ物が不足していたから、農家の畠から野菜の盗難があり不安な毎日を送った。担任の先生が私に職員室から弁当をもってきてほしいといわれ「弁当をかたむけない様に」といわれて不思議に思ったのだが、弁当を食べられるのをみて、お粥だったのでその意味がわかったことを覚えている。
 教料書もノートや鉛筆もない時代を経て、今日に至ったのだが、戦争のひきおこした数限りない戦場での出来事、国内でのでき事、目に見えないきず跡、筆では表現することは不可能な位数かぎりなくある。忘れてはいけないことは、当時戦争を正当化し、国民がその気持ちになっていたことはなぜだったのか、おそろしい気がする。再び、戦争をおこさない様、おきない様、人間の幸せとは何か、ということを探究しながら自分のできる事は何かを考え生きていきたいと思う。
(松阪市 59歳)

氏名 鈴木みつゑ
タイトル 母と乾燥バナナと私
本文  東京都中央区越前掘二丁目四番地。隣が炭屋さん、向かいがお豆腐屋さん、通りの突き当たりが八百屋さん、下町のこの地がずっと好きでした。私の家も煎餅屋で、学校へ通うようになるまでは朝から夜遅くまで家の者が忙しそうに動きまわっていました。
 電車通りを渡ってすぐの明正国民学校へ通う小学校二年生の頃、警戒警報が鳴ると家に帰り、解除になると学校に戻ると云う日が続き、とうとう家に帰りっぱなしになるようになったある日、学校に集まり父母達に見送られてどこかに行くと云うことになりました。それが集団疎開だったのです。
 私は埼玉県の秩父へ、二つ上の兄は病弱のため長瀞へと、夏の暑い日の出発でした。大きな山門のある寺に着き、先に着いていた柳行李の荷物を整理して、その日から新しい生活が始まったのです。
 石を落すとしばらくしてから水音がこだまする様な深い井戸から、おじさんに滑車でくみ上げてもらった洗面器に半分程の水で顔を洗い、お風呂は、桶に何杯かに決められた湯で身体を洗い流しました。急ごしらえの浴室があったようでした。
 どうした原因か皆が頭にシラミを湧かすようになり、日曜日は縁側にずらり並んで、梳(す)き櫛でシラミ取りをするのが日課になりました。梳き櫛にかかってパラパラと落ちるシラミやタマゴを爪と爪で器用につぶしたものです。
 田舎なので学校も遠く、桑畑の続く道で時には艦載機の低空飛行に会い、死にものぐるいで桑畑に逃げこんで伏せたことを覚えています。
 時には、慰問のおじさん達が来て励ましてくれるのですが、集団生活は内向的な性格の子にはつらい日々で、いじめられてもじっと耐えるほかないのです。二つの長い坂道を下りた所に流れる川でおやつのさつま芋を洗いながら、向いの山を仰ぎ「あの山の向こうにお母さんがいるのかなァ」と涙したものです。裏山へ生栗を取りに行って食べたり、週一度家に手紙を書いたり、兵隊さんに慰問文を書く時は唯一楽しいひとときでした。
 そんな日々の中で母との面会の日がどれほど待ち遠しかったことか、嬉しかったことか、今でもはっきりと胸に残っています。
 切符も思うように手に入らなかったようで、面会もほんの数回でしたが、ちょっと話し込むだけで食べ物の差し入れは禁止されているのに、荷物の中からそっと乾操バナナを一、二本出して「食べよ」と云った母。兄の所に持っていったら、「妹にやってくれ」と云ったと云う。鼻をすすりながら物陰で急いで食べた乾操バナナのおいしかったこと。後に、今年二十三回忌を迎えた母とのなつかしい話の種になりました。
 家族が集まると決ってこの話が出て母の泣き笑いが始まったのです。いつもいつもお腹をすかしていたので食べるものなら何でもよかったのですが、あの時何故乾燥バナナだったのか、当時、貴重なものをどうやって手に入れたのか開かずじまいでした。
 ほんの束の間の母との時間を終え、帰る母達を山門迄送り出す時の辛さは、云い表わしようのないものでした。「さようなら、さようなら」と皆が手を振っているのに私の姿が見えないのでキョロキョロと探すと、大きな木の陰に隠れて、溢れんばかりの涙をためて、じっと見つめていた、つれて帰りたいと母も涙した、とバナナの話が出ると決ってこの話も出るのです。
 とにかく淋しくて、お腹がすいて、帰りたくて仕方がなかったのです。でも帰りたいとは云えなかったのです。東京は夜も昼も空襲空襲で、子供の居る処ではなかったのです。
 そんな折、兄が病死し、私のホームシックは最高頂に達し一時帰宅の許可が出ました。あれほど帰りたかった思いがかなったにも拘(かかわ)らず、何となく落伍者めいた感じがして気が重かったように記憶しています。
 東京駅八重洲口から外に出た途端「ああ、来てはいけなかった」と直感しました。辺りの変りようは夜目にもはっきりとわかりました。数日後、三月十日の東京大空襲に会い、火の吹雪の中を逃げまどうはめになりました。辛うじて家族全員生きのびることが出来ましたが、心ならずもそれ以後、現在の地に移り住む事になりました。
 年月が過ぎ、折りあるごとの乾燥バナナの話も次第になつかしささえ感じるようになり、とうとう私の胸に秘めて一人母を想うこととなりました。
 あれから五十年の月日が過ぎたとは思えぬままに。
(川越町 59歳)

<戦中のくらし>

氏名 中野美智子
タイトル 昭和時代津市で最初の戦死者と女学校の頃
本文  昭和六年、当時私は小学校三年生だった。津市の目抜き通りの両側にびっしり並んだ人達、恐らく津市内の小学生は全部、そして大人の人達も、その前を粛々と進んで行くのは、長屋栄太郎上等兵の英霊(遺骨)白い布で包まれて誰かの首から掛けられていた。写楽隊、花輪、銃を担った沢山の兵隊さんを従えて、長い長い行列だった。今でも、その時の様子は、はっきりと日の真に嫉きついている。それは、その年に起こった満州事変で、津市で初めての戦死者の市葬だった。その数日前、私達は学校で、お国の為に名誉の戦死を遂げて下さった長屋栄太郎さんに捧げるお手紙を書いた。先生から、残されたお母さんと幼いお子様が銃後を守っていられると聞いた。私はお父さんの死んだ子は可哀相やなあ、と思った。今になって考えると、これは戦死を美化し、喜んで戦地へ征(ゆ)かせる為の国策だったのだろう。その後もこういう事があったかも知れないが、記憶に残っているのはこの時だけである。
 昭和十年、女学校へ入った頃から、戦線は益々拡大していったが、それは中華民国(現在の中国)で行われていたので、内地はまだ、それ程苦しくはなかった。それでも応召される方達は次々と増え、私達は千人針を縫った。それは白い晒(さらし)の布に千個の○を付け、赤い糸で、糸結びを作るもので、千人の女の人の心が籠もって、これを胴に巻いていれば弾丸に当たらないと言われていた。召集令状が釆て数日で出征される方の家族が、女学校へ依頼に見えて、私達は、廊下に並んで次々と赤い糸を結んでいった。何度もそうして私達
は千人針を縫った。
 女学校の二年生の時、英語の先生のお勧めで学校の近所の、アメリカ人の宣教師のお宅で、土曜日の午後、その夫人がなさっていられたバイブルクラスへ参加させて頂くようになった。バイブルの勉強が済むと、お手製のクッキーと紅茶を御馳走になって、楽しい一時を過ごした。二人のお子様も可愛かった。私は五年生までの四年間このバイブルクラスでお世話になった。その頃から、米英との関係が日増しに厳しくなっていったが、私は英語が大好きで、将来、英語の学校へ行き、アメリカへ渡って、日米友好の架け橋になりたい夢を持っていた。
 しかし、学校の教育方針は、良妻賢母がモットーとなっていった。毎朝、朝礼で明治天皇の五箇条の御誓文、後に青少年学徒に賜りたる勅語も加わって、大声で唱えた。伝えられる戦果は、連戦連勝で、景気のよい事ばかりだった。四年生から、薙刀(なぎなた)が正課となり、早朝寒稽古の時には、水道の水が凍るので、前日からバケツヘ汲んでおいた水の表面の氷を割って、道場になっていた講堂の雑巾がけをした。勿論素足である。でも戦地の兵隊さんの事を思えば、こんな事は何でもなかった。三月十日の陸軍記念日には、乃木大将の話を聞き、五月二十七日の海軍記念日には、レコードで東郷元帥の「皇国の興廃この一戦にあり」の日本海海戦の三笠艦上での訓示を聞いた。
 私は前々からとても疑問に思う事があった。それは戦争で人を殺す事についてであった。内地で人を殺せば重い罪になるのに、戦地では敵を沢山殺せば金鶉(きんし)勲章が貰えて褒められる。敵は悪いから殺さなければならないと言うけれど、敵も人間ではないか。どうして人間同士が殺しあって、戦争をするのか、軍国主義の真っ最中で軍国少女でもあった私にも、それが不思議でならなかった。その事を作文に書いて提出した。私は職員室へ呼ばれ、受持ちでもあり、国語の先生でもあったT先生から、私も、他の人達も、心の中では、
そう思っていると思う。しかしこんな事が外部に洩れたら、貴女も貴女の家族も、又学校も、大変な迷惑がかかる。書かなかった事にして、焼き捨てましょうと言って、職員室の火鉢で燃やされた。戦争遂行の国策に反する事は大罪で、特高や憲兵の目は、内地にも光っていたのである。
 五年生まで充分な英語の授業を受けられたのは私達が最後かも知れない。日米関係は益々厳しくなり、英語は敵性語として廃止が叫ばれだした。私は希望の学校へは行けなかったが一応、進学した。そして、その年、昭和十六年十二月八日、日米開戦となったのである。私が津を離れた少しの問に、お世話になったポーペンカークさん一家は、スパイ容疑で強制収容されてしまった。
 (二見町 72歳)

氏名 村山 英子
タイトル 兵隊さん優先だったわが家の生活
本文  昭和二十年に入ると戦争は一段と激しさを増し私の住んでいた志摩の地にも軍隊が駐屯し、本土決戦が噂されるようになりました。
 軍隊は磯部町穴川の寺の下にあった公会堂に寝起きしてあちこちの山かげに防空壕を掘り始めたのです。寺から三軒目にあった私の家の倉の物は全てすみの方に片付けられ、米・麦・とうもろこしといった食糧が積み上げられ鉄砲等も運ばれて一階はまるっきり軍の使用するものとなりました。
 朝は兵隊さんが歯ぶらしを手にタオルを首にかけて二、三人ずつ次々に釆ては洗顔して行きました。ですから私達家族はそれより早く起きて洗顔をすまさねばなりませんでした。そんな時、気になるのは歯ぶらしをくわえたまま、つるべで井戸水を汲み上げる姿です。「もし、あの歯ぶらしを井戸の中へでも落とされたら……」と思ったものでした。
 小さい時から「井戸神さま」として回りはいつも汚さないように教えられて来ました。しかし、軍のすることには何ひとつ口に出せなかったし、私達を守りに来てくれてるんだと思うと何も言えませんでした。そればかりか村役場の収入役だった父は何くれとよく世話をしていました。
 夕方は風呂当番の兵隊さんが来て井戸水を汲み上げて風呂を沸かしにかかるのです。何人かの兵隊さんの入浴が終り、一段落するとやっと私達家族が入浴できるのです。
 このようにいつも兵隊さん優先のわが家の生活でした。
 夜は時々公会堂で演芸会がありました。いつどうなるか明日のことはわからないといった戦時下で兵隊さんにとっても私達にも唯一の楽しみであったと思います。
 時には兵隊さんの家族がこっそりと訪ねて来て面会を頼むこともありました。そんな時父は座敷に上げて再会のひとときを過ごさせてやっていました。
 長男を戦死させ、また、四人の甥にも戦死され、二男は入隊後に病にかかり帰宅し療養中に死亡、四男は出征中という父にとって、こういった家族への思いはひとしおだったと思います。
 日に日に戦争は激しくなり、三月十日の東京大空襲で父の妹である私の叔母は爆死しました。
 突然サイレンが鳴り出しました。空襲警報です。もうこの頃になると毎日のように空襲警報が出されました。六秒鳴って三秒休止、六秒鳴って三秒休止をくり返し鳴り出すともうB29はすぐそこまで来ているのです。片時も肌身はなさず持ち歩いた防空頭巾をかぶり非常袋を肩に防空壕へと逃げこむのがやっとでした。B29はよく志摩半島から上陸し、日毎にその数を増し、いくつもの編隊を組んで大地が揺れんばかりの唸りを立てて、日本をあざ笑うかのように通り過ぎて行きました。しばらくして北の空に火の手が上がり赤々と燃え出しました。どうやら伊勢のようです。夜の火は近くに見えました。
 女学校三年生であった私は学徒動員として神風の鉢巻きをしめモンペ姿で軍需品の生産に明け暮れる毎日でした。
 昭和二十年八月十四日 先生から、
「明日は一日だけ夏休みにしますからゆっくり休んで下さい。正午になったらニュースを聞いて下さい。重大放送がありますから。」
とのことでした。重大放送とは何だろう。
 そして、迎えた八月十五日正午、ラジオからの玉音放送です。
 敗戦と知るや父は、
「いつあの米軍がやって来るかも知れん。軍隊に関する物は早く持ち去って欲しい。」と、その日の中に分隊長を連れて釆て倉の中の物を一つ残らず公会堂へ運ばせました。
 まもなく軍隊は解散となりそれぞれ故郷へと復員して行きました。
 さあ、それからが大変です。風呂場でしらみのついた衣服です。家族全部の衣服を風呂釜に入れ湯をたぎらせて消毒しました。また、家族みんなで井戸の掃除です。長い長い梯子を作り井戸の中へ下ろして水を全部汲み出して井戸の底の掃除です。この時歯ぶらしが三、四本落ちていて、こんな水を飲んでいたのかと思ったものでした。
 軍隊が自由に出入りしていた倉には害虫が見つかり、ここも消毒して大掃除です。そして元通り使えるようにしました。
 こうして軍隊の去った後、ようやくにしてわが家が自由に使えるようになりました。時に私は十五歳でした。
 あの日から五十年の歳月が流れたのですね。もう私も六十五歳になりました。今夜もNHKの「思い出のメロデー」にあの頃が思い出されます。
 「帰り船」聞きていたれば敗戦の頃の思いのさまざまに湧く
 (伊勢市 65歳)

氏名 平野 幹男
タイトル 「行かない」と「行けない」
本文  戦後五十年、あの激しかった戦争も、往時茫々いつしか風化されて、忘却の彼方へ消え去ろうとしている。しかしながら私連戦中派は、未曾有の戦争体験のあれこれを、正しく後世に伝える責務を負っていると思う。その一つとして、私は自分達が果たせなかった「幻の修学旅行」について、記しておかなければならないと思ったのである。
 昨今の旅行ブ!ムはまことに凄まじい。オリンピックの標語のように「より速くより遠く」快適な旅行が出来るようになり、勿論修学旅行とて例外でなく、中には外国へ行く学校もあると聞く。私達にとってはまことに隔世の感が深い。ところが、昭和十一年小学校に入学以来、旧制中学校を卒業するまでの十一年問のうち、実に九年間が戦時下にあった私達は、遂に一度もその楽しさを味わうことが出来なかったのだった。
 先日、初めて修学旅行に行く六年生の孫から、「おじいさんは修学旅行は何処へ行ったの」とか「なぜ行かなかったの」と尋ねられたが、私はしばし返答に窮した。なぜなら私達は「行かなかった」のではなく「行けなかった」のである。この「か」と「け」という、たった一字の違いの中に、一言で言えない大きな意味が含まれていることを、この幼い孫に理解させることは難しいからである。
 思うに「修学旅行に行けなかった」ということは、一つのささやかな出来ごとに過ぎないかも知れない。しかしこの事実の背後にある大きな要因、戦争の影をしっかりと説明せねばならないからである。私は今日誰しもが何の障害もなく旅行を満喫している現状を思うと、孫をも含めて戦争を知らない世代に私達が「行かなかった」のでなく「行けなかった」この真実の過程を、戦争と関連させてはっきりと教えねばならないと思ったのであった。
 ところで今年五月、私達(桑名市立第一国民学校昭和十七年三月卒業)は、実に五十三年ぶりに初めての同窓会を開催することが出来た。空襲による母校の焼失、伊勢湾台風など様々な理由から今まで行えなかったが、幹事の努力もあって、夢のような再会を果たしたのである。尽きざる懐旧談の中で、修学旅行に行けなかった無念さを語り合っていた時、突然幹事から一葉の写真が提出され、それを見た瞬間、一同は声を呑み瞠目(どうもく)し、中には涙する者すらあった。それには畝傍山を背に大鳥居の下でリュックを背負った、遠足姿の五年生の同級生が写っているではないか。これは紀元二千六百年奉祝(昭和十五年)の、日帰りで参加した「橿原神宮参拝記念」の懐かしい写真だったのである。
 一枚の写真には必ずそこに一つの歴史が刻まれている。私はこの写真を見て、単に懐かしいと一時の感傷に浸っていてはならないと思う。戦後私はこの写真に隠れている歴史の真相を知り、この写真の重大さに気づいたのである。なぜならこれこそ当時の日本の姿が判然と凝縮されている一つの証であるからだ。
 当時国民は苦しい戦時生活を強いられ、小学校も厳しい軍国主義教育を受けていた。文部省は十五年六月「交通機関の旅客制限の為見学旅行一切禁止」を各府県に通達し、事実上修学旅行を禁止していた。にも拘らず政府は日中戦争の長期化による国民生活の悪化やこの年予定された東京オリンピックや万博の中止などによる人々の不満や鬱積(うっせき)を晴らすためにも、明るい祭典を必要とし、十一月に全国民を参加させるこの紀元二千六百年祝賀行事を挙行、旗行列や提灯行列、それにこの橿原神宮参拝などへ小学生も強制的に駆り出したのであって、決して修学旅行ではなかったのであった。
 そもそも「紀元二千六百年」とはどういうことであろうか。これは昭和十五年が、あの『日本書紀』の神武天皇即位より数えて二千六百年目にあたるとされ、挙国一致、八紘一宇の大号令の下、戦意高揚の精神主義を鼓舞するための祝典を挙行したのであった。
 このような日本歴史上空前の行事に、全国民を強制的に参加させ、また東京の式典会場や橿原神宮参拝へ多数の人々を旅行させることは、既に旅行禁止をうたった政府の通達と矛盾する暴挙であり、この行事を契機として政府の専横は益々加速化し、遂に破滅の道へ突入していったのである。
 思うに現在の日本は平和そのものである。年々戦争を知らない世代は増加し、それに反して戦争の記憶は薄れつつある。戦争体験の無い人々に戦争の実態を理解させることは容易ではない。しかし私連戦争体験者は、あえて重い口を開き、かるが故に「修学旅行の中止」といった、ささやかな事実や証言なども一つ一つ看過することなく後世へ伝え、改めて戦争の悲劇と平和の尊さを教えてゆかねばならないと痛感するのである。
 (桑名市 65歳)

氏名 伊藤 雄二
タイトル 苦しき時代
本文   畦を焼く人に貯金をすすめをり
 戦時中銀行の預金増強は至上命題であり、集められた金は優先的に軍需会社関係に融資させられた。
 敗戦後前記融資金は殆ど回収不能となり、大蔵省や日銀の指導によって、全国の銀行が一率九割の減資を余儀なくされた。この為五十円払込の銀行株は半額位に値下りし、永く苦難の経営が続くこととなった。
 昭和十八年三月、銀行合併によって私は木本支店へ転勤拝命、家族(妻と三人の娘)を津市に残して単身赴任、下宿生活を始めた。
 賃金統制令などがあって、月給はあまり上がらず、下宿代と家族への月々の送金に苦しい思いであった。勤めの方と言えば男子行員は召集され、補充は素人の女子ばかり職安から廻されてきた。私は支店長代理の任にあったが、多忙と心労の為か栄養失調か脚気の様な状態になった。
 昭和十九年十一月二十八日、長男出生の電話あり、お七夜を祝う為帰津、十二月七日帰任の途、尾鷲駅前にて木本行のバスを待っていた。この時これまで経験したことのない大地震が発生、次いで津浪が押し寄せ、熊野沿岸に大被害を与えることとなった。勿論バスは不通となり、翌日冬オーバーを抱え、手提げカバンを持ち、普通の革靴のまま尾鷲から矢ノ川峠を越え、飛鳥村で日を暮し、暗夜を一人評議坂を下って木本迄歩き通した。1
 昭和二十年ともなると、敵機が我が本土を我がもの顔に飛翔するようになった。警報が出てしばらく熊野灘を見ていると、水平線上に豆粒程の影が現れ、次第にふくれて我らの頭上を越えて西の方へ飛んでゆくこと度々であった。い
 昭和二十年七月、四日市支店へ転勤拝命、この頃心身共に疲労困憊(こんぱい)、この様な状態では満足に勤める事が出来ぬと思い、故郷(引本)へ行って新鮮な魚でもたべて、一過間位養生してくる、と疎開の大トランクを一つ持って津の家を出た。
 幸い引本には親戚筋の医者が居り、日々注射に通っていた。四、五日目であった、昨日津に大空襲があった由、早く帰ってやれとの進言に、正午頃相賀駅発上り列車に乗り、三野瀬駅にて警報発令の為上り下りの二列車が停車中、突然左方の山越えて艦載機飛来、退避の叫びに皆出口へ殺到したが、出口が狭くて中々出られない、私は通路へ伏せた。後で知ったことであるが、私の左窓際に乗っていた肥った人は機関銃が当たって即死らしく、通路に流れた血で私の白ズボンが赤く染まっていた。
 上り列車の乗客には死傷者が多く、死者は三浦のお寺に、負傷者は元の列車にて尾鷲へ逆戻りとなり、私もやむなくその列車にて相賀迄乗り叔母の家に厄介になることとした。
 一寸話は戻るが、三野瀬駅で列車を離れ退避、しばらく経ってから列車へ戻って見ると、私の座っていた席に、私の読んでいた岩波の文庫本″奥の細道″が残っている。取り上げて見ると銃弾が裏表紙へ当たって反れた跡があり、表の方はY字型に切れていた。私の身代りとして今にこの本を大切に保存している。
 その翌日、津市へ戻ったが私の借家は裏へ爆弾が落ち付近の家々と共に、屋根瓦を載せたままペシヤンコになっていて、私の妻子三人共その下敷きになって無念の死をとげたものと思われた。
 私は途方に暮れた、私一人では何とも手のつけようがない、引本の兄弟達に来援をたのんだ。釆てくれてやっと掘り出した女体は、妻だと思ったが、隣の娘と判り一同落胆、翌日往復切符の期限が切れるとの事で引本へ戻って行った。
 その夜、中の二人の娘を預かって貰っていた名張の親戚へ電話して助っ人をたのみこんだ。
 その夜B29が沢山来て、津の街をまるで畑に種を蒔くように焼夷弾を落とし火の海と化し、残されていた家々を焼きつくして行った。
 翌朝名張からの助っ人三人が釆た時は焼野が原、私が避難していた安東のお寺迄尋ねて釆てくれ、子供らも心配しているからと、久居駅迄歩き、その夜遅く名張の親戚へ着いた。遺児二人と共に私もそこでお世話になっていた頃、毎晩の様に警報が出る度毎、二児を連れて壕に入り不安な夜を過ごしていた。
 八月十五日玉音放送を聴き、これで戦争が終わったこと、これで今夜からゆっくりと眠れると安堵した。私はこの時四十才であった。
 事情を訴え名張支店勤務となり、翌年遺児の為に良き母をと願って再婚した。
  枝豆や母になじむ子なじまぬ子
 再婚前の春小学一年になる上娘を連れて、名張郊外散策した事があり、
  肯き踏む母失ひし吾子連れて
 この句は当時を回想しての最近作である。
 (津市 90歳)

氏名 小島  威
タイトル 戦雲の下で
本文  昭和二十年当時私はまだ十三才の子供で、米国が空の要塞とよんだ新鋭爆撃機B29が私の住んでいた津市にも空襲を行い、警戒警報に神経を尖らせるといった毎日でした。空襲を繰り返すB29に対して、日本は迎え撃つ戦闘機もなく、また高茶屋にあった高射砲は飛行上昇高度一万メートルを誇るB29には届かないため、大人たちの中には「もう、日本は駄目だ。戦争は負けるよ。」という人もありました。それを聞いたとき私はいつも「日本が負けるものか。絶対に負けない。もし私の目の前に敵の兵隊が現れたら竹槍で突き殺してやる!」と思っていました。
 昭和二十年初夏の頃、空襲警報が解除になったのでほっとして空を見上げたとき、遠い西の空でピカッと光ったものが私の目に映りました。何だろうと思っているとしばらく間をおいてドーンという音と共にポツンと黒点が見え、みるみるうちにこちらに近づいてきました。それが高射砲に撃墜されたB29であることに気がついたのは、ゴオーツというエンジン音が聞こえ片翼の二基のエンジンから真赤な炎と黒煙を吹いているのが見えるはど近くまできたときでした。ものすごい爆音と共に飛行機の風防ガラスの中で慌てている米兵の姿もぼんやりと見えました。あの空の要塞とよばれた敵機が墜ちていく。「万歳!万歳!」私たちは一人残らず飛び上がって連呼しました。嬉しかったのです。今の今までふさぎ込んでいた惨めな気持ちがいっペんに吹き飛んだ気がしました。その後飛行機は高度をぐんぐん下げながら東の方角に見えなくなりました。おそらく伊勢湾にでも墜落したのでしょう。
 翌日学校へ行くと、昨日のB29から二人の米兵がパラシュートで観音寺町あたりに降下したこと、そのうちの一人は怪我をして病院に運ばれたこと、残った一人は憲兵に捕まえられて大門町の憲兵隊本部で公開することなどを知りました。私は学校が終わるとすぐ大門町に急ぎました。着くと憲兵隊本部の前は既に黒山の人だかりでした。
 しばらくすると一人の憲兵将校が出てきて、「ただいまより米兵とその所持品を公開する。絶対に手出しをしてはならん。所持品にもさわってはならん。わかったな!」と命令口調で言いました。そして、本部のドアが開かれ目隠しをされて両手を後ろ手に縛られた米兵が一人引き出されてきました。人だかりの真ん中に立たされた米兵は震えているようでした。白いパラシュート、食料品と化粧品、ゴムボート等たくさんの所持品も公開されました。女の人の写真もありました。
 「米兵はぜいたくやなあ。あんなにいろんな品をもって戦争してるんか。」
 「女の写真なんか持って腰抜けめ。」
 「殺してしまえ!」
 「やっつけよう!」
 集まった人々は口々に罵り不穏な雰囲気になってきました。憲兵将校が慌てて「静かに、静かにせんか!」と怒鳴りましたが人々の興奮はおさまりません。家を焼かれ肉親を失った人々は、その責任がすべてこの米兵一人にあるかのごとく憎悪を込めて罵りました。そのうちどこからともなく石つぶてが飛んできて女の写真入れのガラスに当たりガチャンと割れました。それがきっかけとなり、一斉にあちらこちらから石が飛んできました。米兵に当たり憲兵たちにも当たりました。米兵の額からひとすじの血が流れてきました。憲兵たちは慌てて米兵を連れて建物の中へ逃げ込みました。人々はそれでも帰らず、建物を取り巻き「米兵を殺せ!」 「息子を返せ!」 「家を返せ!」と騒いでいました。
 私は米兵がだんだんかわいそうに思えてきました。たった一人で敵地に捕われ死の恐怖に晒されている。言葉は分からなくても危険が迫っていることは雰囲気でわかるだろう。私は人々の輪の中から抜け出しました。何かむなしい気がしてなりませんでした。あれほど恐れ憎んでいた米兵を自分と同じ人間として見たとき、彼を取り巻き殺そうとしていた私たち日本人の方が恐ろしいような気がしてきました。戦争とは普通の人間を狂気化してしまうのです。その日私は憂鬱な気持ちで家に帰りました。「戦争は罪悪だ」と心に叫びながら……。
 (松阪市 63歳)

氏名 久村 義雄
タイトル 癒えぬ戦いの傷跡
本文  私が昭和十二年、郷里の山口県立徳山中学から、東京外語支那語部(現東京外大東アジア課程中璧和専攻)を出て、当時の報知新聞社に入り、同社長野支局に在勤したが、ときは支那事変が始まって、戦死者が出始めていた。
 その秋のこと、長野近郊の戦没兵士の実家へ、紙上に載せる顔写真を借りに行き、未亡人から受取り、玄関を出たところ、私の背後を追うかのように、その婦人からはらわたを扶(えぐ)るような沈痛な鳴咽が起こった。私はぎくりとして足を止め、胸に泌みる悲しい衝撃を味わったのである。
 当時、戦死者の妻は〃靖国の妻″として、泣かないことにされていたが、愛する夫の遺影を新聞記者に渡し、いよいよその死が確実になったと知り、人間として当然な感情を爆発させたのであった。
 それから五十五年、音楽を専門に学んだ、出撃を前にした、若き特攻隊員二人の、あのベートーベンの名曲「月光」にまつわる感動の名映画「月光の夏」を、平成五年の秋、私は四日市市文化会館で観ていたときのこと、隣り合わせにいた七十位の婦人が、最初からしくしくしてはいたが、映画が丁度九州南の知覧という特攻基地のあったとこに、いまある隊員の遺品、遺書を展示した記念館に、同基地から出撃して、大空に散った隊口貝たちの遺影が、つぎつぎと写し出されたとき、突然同婦人が押し殺すように、慟哭(どうこく)のうめき声を発したのである。
そして私に「すみません。あれが私の兄だったです。隊長でした」と謝られました。私は咄嗟(とっさ)のことで「いやどう致しまして」と答えた。なお婦人は何故か席を立たれ、入口近くにいたが、上演が終ったときは、その姿はなかった。
 私にはこの場のことが、はるか五十余年の昔、あの長野における戦争未亡人の泣き声と重なって、戦争の痕跡というものは、なんといつまでも癒されなく続き、おぞましくもこうまで、惨酷無情であるかを、改めて思い知らされたのであった。
 その後、報知はやや社運が傾き、リストラのため海外へ特派員が、出されなくなったので、昭和十五年夏のこと、私は中国と内蒙古の国境地帯に生まれた、蒙彊(もうきょう)自治政府へ転出し、同政府の巴盟公署警務庁(在厚和=綬遠(すいえん))で勤務していた。
 その翌年のこと、任務のためトラックで塞北(さいほく)の広野を走行中、行く手に一つ村落が、徹底的に打ち壊され、焼き払われて、ただ土塀や外壁だけが残る、無残な無住地となって、死の静寂の中に沈んでいる、恐ろしい光景に出会ったのである。
 これはあの日本軍の「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」いわゆる三光作戦の一つであった。私はこのとき白昼夢のなかに、戦争の痛ましい惨劇を見た思いがして、今日に至るまで決して忘れられない。
 また日本軍が対中国共産党軍の執ようなゲリラ戦の対策として、辺境の村落を掃蕩(そうとう)し、焼き払い、無住地とすると共に、その部落民を家族ぐるみ強制連行して、貨車に乗せ、炭鉱に送り込み、労務者として酷使した。その輸送に従事したが、妻子と、僅かの寝具と鍋など持たされ、それまで平和で安穏な農民生活を奪われ、連れて行かれる彼らの気持のなかは、どんなにか悲しく不安で辛かったであろう。なお妻子ぐるみは、労務者の逃亡を防ぐためであった。
 そして戦後、あのベストセラー五味川純平作「人間の條件」が、七時間余の長編映画となったが、私はこれを二度まで観た。それはこの映画に中国人捕虜を、炭鉱で使役する過酷な場面や、その輸送などが出てくるから、私はあの中国農民の強制連行に加担した、過去に対する眞撃(しんし)な反省と限りない悔恨を反芻(はんすう)するためでもあった。
 私はその後、外務書記生として、北京大使館に転じ、敗戦は済南総領事館で迎え、在留邦人の生活と引揚業務を終えて、翌年四月、妻子四人で引揚げ、裸一貫から第二の人生を踏み出し、今日に至ったのである。
 なお、敗戦時に蒋介石総統が、全軍に対し仇を返してはならぬと、厳命を下したことが、日本の軍民に対する処遇に表われ、私の見聞の限りでは、これという報復的な仕打ちがなかったのは、あの戦犯に対する寛大な処置と併わせて心の底から感謝している。
 かくて私の青春は、十五年戦争の只中に費やされ、在華時代には筆には到底したくない出来ごとにも遭ったが、いま振り返ると、その当時、いかに軍国教育に汚染され、洗脳されていたかを、戦後の民主化を迎えて、はじめて痛いほど知らされたのである。
 そして私は戦争の歴史の事実に敬虔に学び、戦争の残虐さ非条理さ愚かさを、心から憎み排撃する決心を持つに至り、この平和な時代を、子から孫へ、いや永久に守っていきたいと、心から願い祈るものである。
 (鈴鹿市 83歳)

氏名 山崎  智
タイトル 地の底で風が吹く
本文  一九四五年八月十五日。
 雲の多いむし暑い日であった。私たちはその頃、伊勢市(当時宇治山田市)から五キロメートルばかりの朝熊山の中腹に、トンネルに近い大きな壕を掘るため、憲兵隊によって強制連行されて、その作業につかされていた。連行されてきたのは、宇治山田市の近くにある、軍需工場に働いていた者の中で、病欠が目立ったり、工場の労働条件に不満をもっている者などに、一つの見せしめとして、このような現場にやらされたのだ。これらは私の働いていた工場ばかりではなく、五つぐらいの工場もこうした割当がきたのである。今の近鉄宇治山田駅前に、神都公会堂と云うのがあって、八月一日の朝、総数八十人くらいの人数が集められた。病欠をしているのだから顔色も悪い者に、「現場でスコップを握ったら元気になる。」と憲兵が叱った。私は不良工員と云うことだった。工場の待遇に文句をつけ、敗色の濃くなった日本の状況を誰かに話していたのを聞かれたのか、とにかく、有無を云わさずにトラックに分乗させられて、朝熊山の現場に連行されていったのである。沖縄戦はすでに終わり、東京、横浜、名古屋、大阪も大空襲を受け、七月二十九日には伊勢市が夜間の空襲でまだ余墟(よいん)がくすぶっていた。その頃、米軍が九州か、志摩半島に上陸すると云う噂が広がり、朝熊山の中腹に大きな壕を造ることになったのである。
 朝熊の寺などに分散していた兵隊たちは痩せこけていた。みんな無口で、暑い日盛り、裸のままツルハシで赤土の山肌を崩してゆくのだが、これが地下道になるのは何時のことやら。
 私は鉄工所にいたので、壕を支える丸太棒に打ち込むカスガイをつくる小屋にまわされた。年配の兵士と私と二人であった。フイゴでコークスを燃やし、その中に細い鉄の棒を入れ、赤くなったら金のハシで取り出し、それを鉄台の上で、私がハンマーをふるってカスガイにしてゆく作業であった。
 十五日の朝、作業にかかる前に、左腕に伝令の腕章を巻いた兵隊がやってきて、
 「今日十二時に、天皇さま直々の声でご放送があるから寺の前に集まるよう」と伝えていった。私と向い合って仕事をしている兵隊は、北海道からきた二国兵だった。正確には第二国民兵と云った。兵隊検査では甲種、乙種、丙種と分けられ、甲種は現役の入隊義務はあったが、乙種、丙種にはその義務はなかった。しかし戦局の悪化で、乙種、丙種問わず召集されていた。丙種は病弱者か、身体障害者であった。そして、「二国、二国兵」として差別されていた。右目失明の者も召集されていたのだ。「天皇は我々に励ましのお言葉をかけられるのだろう」もう四十近いその兵隊は故郷に妻と男の子二人がいると云っていた。そして日本が敗れるとは思っていないらしい。
 正午前、お寺の広場に集まったのは、私たちも含めて百人位、他の者はそれぞれ農家の庭などに集まっていたのだろう。寺の前に小さな机が置かれ四球ラジオから、正午になったら天皇の声が流れてきた。みんな頭を下げていたが、日常会話の中では聴かれない妙にもったいぶった天皇の声は、ラジオの雑音で消され、全体がつかめなかった。ただ、「堪へ難キヲ堪へ────」と云うのがハッキリ判った。空白になった頭の中を、お寺の広場で、真夏の太陽に映えているトマトの赤い鮮やかな彩りが走り抜けていった。私は天皇の放送より、そのトマトを見ていたのだ。   「負けたのか」口の中で呟いた。胸が疼(うず)いた。放送が終わってみんな意味不明の面持ちで集りを解いた。そして本当に日本が敗れたと知ったのは、食事をしながら、農家から流れるラジオの解説だった。
 「ああこれで空襲も無くなり、ひょっとしたら平和が来るかも」
率直にそう思った。しかし作業は午後からもつづいた。私の相手のその兵隊は、
「ああ俺たちは初年兵を殴れんのが損したなぁ。」
と云った。
 初年兵として相当痛みつけられたのだろう。その仕返しを短絡的に後から入ってくる初年兵に向けさせる、日本の軍隊の不当な規律に戦慄した。連絡にきた兵隊の命令で、私は出来上がったカスガイを布袋に入れて肩にかつぎ、初めて地下壕に入った。この期におよんでも、まだこのカスガイを使うのだろうか。人間の背丈もあるその壕は深く掘りすすんでいて、上から水滴が落ちていた。兵隊の持っていた懐中電灯の光が土肌を照らし、その時、さっと冷たい風が吹いてきた。土の匂いがしていた。私には、戦争と云う黒い塊を、一気に吹き飛ばしてくれる鮮烈な肌ざわりであった。私はその時二十一才、青春のただ中。
 (伊勢市 71歳)

氏名 服部 百代
タイトル 九州へ炭坑奉仕
本文  津市で受けた爆弾や焼夷弾の空襲で命からがらの思いをしましたが、年を経て忘れ勝ちです。でも昭和十九年秋から翌年二十年一月迄の炭坑奉仕は、戦争中なればこそ女でも坑内作業に加わり、滅多に出来ない体験でしたから、五十年たった今もはっきりと覚えています。
 女子や学生が軍需工場へ徴用される戦争末期、炭坑も人手不足。私の信じる宗教からも炭坑奉仕隊が全国的に出動していました。結雷もない私の夫にも召集令が下りましたが、結核との診断で「即日帰郷」となりました。男として兵隊に行かない事が、今の人にとって想像もつかない、肩身の狭い幸い事でした。
 炭坑奉仕の話もせめて私がお国の為にならなければと決心し、津駅を出発する時は、出征兵士の様な気持でした。何しろ、炭坑とは恐ろしい職場という偏見を持っていましたから。
 汽車が明石、舞子と汀に松が見え始めたら、窓にカーテンを下す様にと車掌さんの注意。風光明媚な瀬戸内海の海岸線を眺める事も出来ません。軍の要塞地帯だったのでしょう。
 三重県の奉仕隊は、福岡県嘉穂郡明治鉱業平山鉱業所という炭山(やま)に既に半年程前から出動し、私達は二次隊か、三次隊でした。不幸にも先の隊員の中、落盤によるものと、炭車(たんしゃ)に挟まれた事故で二名も犠牲者の出た後で弔い合戦だと意気まく隊員もありました。石炭は黒ダイヤといわれ、重要な資源でしたが、若い男はすべて軍隊にとられ、中高年の管理職と先山(さきやま)と云う技術者として特に召集を免除された者以外、軍需工場での成績が悪いと炭坑へ廻された日本人の徴用工以外は、大部分朝鮮の人でした。そんな中へ奉仕隊として行くのですから現地では歓迎され、又、今まで炭坑では女人禁制とされた坑内作業にも女子隊員が加わり喜ばれていました。
 作業は坑外と坑内に分れ、私は坑内を志願しました。やるからには厳しい仕事をと選んだのです。入坑の前、進発所で安全灯が渡されます。之が運悪く電池切れが当たり、心細い思いで坑内を一人歩き遠く迄替えて貰いに行った事があり、それからは、明るいランプが当たる様にと念じていました。キャップランプを帽子につけて被り、半ズボンの腰のベルトに電池を固定させます。服装は男女同じ、上は黒の半袖シャツ。坑内はとても暑いから、戸外で着ていた物は脱いで持って行くのです。遊顔地の乗物の様な人車で斜坑を下ります。人車が天井から地下水の落ちるトンネルヘ、ゴオーツと入って行く時は、今日も無事にと必死で神様に祈らずにはいられませんでした。人車を下り、其処でエブという箕(み)の形のザルに赤土を囲めた小さな筒型の土栓(どせん)を一ばい入れ、横長の板を打ちつけたカキ板という棒をもち、更に三百数十段の階段を下ります。弁当、坑内は暑いから大きな水筒、脱いだ衣類、腰の重い電池、その上エブを抱えて狭い急な階段を身をななめに駆け下りるのは、容易ではありません。私たちの持場(切羽(きりは))は、この炭山きって腕のいい先山と云われる日本人一人、後山は朴華シユウ(十五、六才の朝鮮の少年)、奉仕隊男二人、女二人、それに炭車に石炭を入れて押して行く係が、恵洲(けいしゅう)というひげをはやした中年の朝鮮人、計七人の仲間です。
 石炭の壁に穴を開け、マイトを仕込み、土栓をつめて、先山が導火線にスイッチを入れ大量の石炭が崩れ出すと、もうもうと炭塵の巻い上がる中へ走り込んで全員でエブの中へ石炭をかき込み、下に待ち受ける炭車の中へ樋(とい)で流し込み、一杯になると恵洲がガンガンと叩いて合図を送る。この作業を定められた出炭量を満たす迄、必死で全員が働くのです。炭塵に塗(まみ)れて、熊か狸の様な顔をお互いに笑いながら、増産日にたまに配給されるふかしたサツマ芋をはうばった時の朴華シユウの笑顔。重い削岩槻を肩にのせながら、私の土栓入りのザルもさっと持ってくれるなど、無口ながら誠実な朴華シユウに、共に地底で働く仲間として心が通い合う日々でした。敗戦の混乱期に朴華シユウは無事に故国へ帰る事が出来たでしょうか。あのひげの恵洲さんは強制連行で来ていたのかも知れないと思うと胸が痛みます。炭坑で知り合った朝鮮の人たちを懐かしく思う事すら罪の思いにさいなまれます。たった二か月の交流でしたが、私たちを見送って朴華シユウはいつ迄も手を振っていてくれました。
 石炭産業が没落し、多くの炭坑が閉山とのニュースの続いた時期、とても淋しい辛い気持がしました。地底で働く人々は皆必死でしたから。でも戦争と云う狂気の時代に生まれた小さな心の交流はウソで無い様に思います。
 何卒朴華シユウが幸せな老後を送っていてほしいと、同じく老いた私は秘かに祈っています。
 (津市 73歳)

氏名 長 美和子
タイトル ひぐらし
本文  昭和二十年六月二十六日、津の最初の空襲により、わが家を含む辺り一面が全壊した。私は女学校四年生だった。動員先の工場から帰宅すると、家の位置すら定かでないくらい廃墟と化していた。
 母、弟妹達は、爆音が遠のいてから、防空壕を出て近くの小学校へ退避したそうだ。夕方、瓦礫(がれき)の中を戻ってきた家族を見たとたん、数時間の不安は、一度に消え去り嬉しかった。しかし、隣家では、「お父さんの足が無い、片方の手が出てこない」等、狂ったように叫びながら埃の中を家族が探していたことを記憶している。後日聞いた話だが、ご主人だけ壕に入られなかったそうだ。
 私達は、その夜から焼け残った家のお世話になり、数日後、一志郡の知人の二階を貸していただくことになった。出征兵士の家だった。六畳一間に、父母と私達五人の子供計七人が、生活を始めることとなる。着の身着の儘(まま)、荷物も無く生活用品はすべてお借りした。その夜「これで死ななくてよい」と家族で話し合ったことを覚えている。
 七月、津に焼夷弾の投下が続けざまにあり、見る見る空が赤く染まりゆくのを遥か見ているだけだった、ここは何処も防空壕を作ってなかった。ただあの下で逃げ惑っているであろう友人の顔・顔が、脳裏に浮かびやり切れない気持ちだった。戦戦恐恐と過ごした日々が夢のようだった。
 ラジオも新聞も無く、情報は全く不明であったが、自分の心の中で、勝つということだけは何故か確信していた。土壇場になれば神風は必然的に吹くものと思っていた。だから如何に辛いことでも克服できたのかも知れない。
 やがて、八月十五日のあの玉音放送であった。近所の家に集まり正座して聞いた。雑音のひどい上にお言葉の意味が理解し難く、まわりの人達の話をきき、終戦になったと分かった。大人達も半信半疑の様子だった。B29が飛んで来ない安堵感はあったが、その反面、失望や悔しさは、拭い去ることができなかった。当時16才の私にとって戦争は終わっても、敗けたなんて思いたくなかったから複雑な日々だった。
 小学生の頃は、兵隊さんへの慰問文を灯火管制の下で書かされ、以来軍国教育を受け育った私達の年代の者にとり、敗戦という事実を素直に受け入れるには、かなりの時間が必要だったのも無理はなかった。十代後半の若人が、特攻隊を志願した気持もよく理解できた。子供時代の教育の大切さを今更のように感じている。人間を如何様にも変えることのできる教育が魔物になったと言っても過言ではあるまい。
 ある日、近所の方が母に「娘さん等はアメリカさんに連れて行かれるか、暴行されるか、危ないから表に出さないように、山奥へ逃げる方法もある。」と言っていた。四人の娘をもつ母は心配したに違いない。十七才の姉は「男装しようか」とすら真剣な頚をして言った。しかしその不安はなかった。サイレンを聞かなくなり、モンペ、頭巾を外し、しばらくしてから確かに終戦になったのだと実感した。
 津へ戻り、バラック生活を始めるまでの三か月間ほどを、虚脱状態のまま田舎で過ごした。困ったことの一つに、そろそろ不潔と栄養失調の兆候が現れ始めたのだろうか、体のあちこちに吹き出物が出はじめむず痒くなってきたと、誰彼となく訴えはじめ出したのである。入浴は過一回程度の貰い風呂であった。が、七人の家族を抱えてかなり遠慮もあったせいか、だんだん遠のいてしまった。そこで私達は考えた未、家の近くに幸いにも、雲出川という恵まれた清流のあることに気づいた。日中は残暑があるとはいえ夕方は肌寒い日もあったが、そんなことは言っていられない。橋の上で二人ずつ見張りをし、橋の下の人目につかない処でさっと一浴びしたものだ。秋の夕暮れの川の水はさすがに冷たかった。あちこちから鳴き出しやがて競い合う蜩(ひぐらし)の声を、この時はじめて聞いたような気がした。
 毎年「かなかな」の声をきく頃となれば、あの頃心和ませてくれた雲出川のせせらぎが思い出されてならない。私達は何かにつけ、命あることを心から感謝し、明日からも生き続けようとの一念の日々だった。食べるもの、着るもの、履くもの何でもあればただそれだけで幸せと思った。九十年余の母の人生の中で、生死をさ迷った当時のことほど胸に深く刻まれたことが他にあっただろうか。毎年六月二十六日になると、母は戦災当時のことだけは克明に覚えていて話すのである。
 私達は、今日ある平和の礎となられた数多くの犠牲者のあることを忘れることなく、この平和を永久に守っていかなければいけない。二十一世紀を担う子・孫達に戦争の悲惨さを語りつぐことが、私たち体験者のなすべき義務であり、また使命であると思う。この拙文が少しでも若い方の心にとどまれば、幸いと思っている。
  山あひにしじま破りてかなかなの 一声やがて輪唱とならむ
 (松阪市 65歳)

氏名 野末 和子
タイトル 愛馬と私
本文  昭和二十年という年は、私にとって生涯忘れる事のない年です。
 三月三十一日朝、日当たりの悪い病室で、母は三十七才の生涯を閉じてしまいました。戦争に直接関係はなかった病死です。しかし十四才だった私は、この戦争さえなかったら母は死ななくてよかったのではと、思いつづけたのです。何故なら母はもともと丈夫な体でないのに、食糧生産、養蚕と、一年中追われづめの毎日だったのです。そして食べる物は農家であっても、大根とか、芋御飯、唯一の栄養源は、にわとりの卵と、年とったにわとりの肉ぐらいで粗食もまたお国の為と言う時でした。カ早きて倒れても、薬すら満足にない中、やせ細り、声も出ないような母は、二才の弟、十二才の妹を姉なる私に託して旅立ちました。泣き悲しんでいる間にも、米軍機が本土に空から攻撃をかけてくる状態でした。この戦争で友達のお父さん、お兄さんが戦死され、悲しいのは私だけでないのだと、心の中に言いきかせつつも、二才の弟の無心な寝顔に毎晩まくらをぬらす私でした。
 その上私にとっては、もうひとつ辛いことがありました。農耕馬として飼っていた馬が戦争に連れていかれたのです。大きい体なのに大きい目はやさしく、おとなしい性格だった馬、そばに行き草をやり、たて髪をなぜてやると人なつっこそうな目をし、子どもの私に甘えてくるようなしぐさをする馬は私の大事な友だちでした。いろんな事を話しかけると、じつと聞いてくれるような、そんな馬は、忙しい母と会話のない私には唯一の友達であり、心のなごむひとときでもあったのです。勝手に一人ジロベーと名付けたりしていました。
 田んぼへ行く時は、荷車の荷をひかせ、私はジロベーの横に並んでたずなを持って歩き、父が後から荷車をひいてきます。大きいジロベーは歩巾がすごく大きいので、私は小走りにたずなを持っていくのです。作業が終わって帰る時は、父がジロベーの背中に乗せてくれるのです。裸の背は大きくて高くて急に自分までが大きくなったような気持ちになったものです。
 そのジロベーが戦争に連れていかれることになりました。いつも田んばに出かける時は元気にパカッと馬小屋から出て来るのに、雰囲気で察したのかその日は、元気もなくシッポもだらりとし、あの大きくて愛くるしい目には涙さえ浮かべているように見えました。それは私が泣いているためそう見えたのかもわかりません。そんなジロベーを見ていたらたまらなくなって「連れていったらあかん。連れていかんといてっ」とジロベーのたて髪にしがみついて泣く私に「泣くなっ。お国のために役立つように出て行くめでたい事なんや」と父は叱りつけ、ジロベーを曳いて行きました。そのジロベーの後ろ姿に「死んだらあかんよ。元気に帰ってきてよっ」と心の中で叫んで見送った私。ジロベーのいなくなった小屋。私の口からポッツリ出た軍歌は、
  慰問袋のおまもりを
  かけて戦うこの栗毛
  ちりにまみれた髭面(ひげづら)に2
  なんでなつくか顔よせて
「愛馬進軍歌」と言う歌の一節でした。
 八月、戦争は終わって復員してこられる人々は毎日ありました。けれど私のジロベーは帰ってきませんでした。どこでどんな死にかたをしたのでしょう。映画などで見ると、砂漠のらくだのように背中いっぱい荷物をしょって兵隊さんと歩いている馬。えらかったろうな。もの言わぬ馬だから尚一層つらく思いをはせるのでした。
 去年、母の五十回忌をすませました。私は心の中で「ジロベー五十年たったな。でも私は忘れないよ」と私だけの法要をしてやりました。
 先日、娘が「おばあちゃん、六年生になる息子に今こうやって毎日しあわせな生活が出来るのは、昔たくさんの人たちの犠牲があった上での事やと話してやって。」と言いました。我儘(わがまま)な娘も子の母となり成長したなと思いつつ、孫に体験談を話しながら、つい涙の出てしまった私でした。のびのびと成長している孫たちのためにも決して二度と再び戦争などしてはならないと思うと同時に、多くの尊い犠牲のあった事も決して忘れてはならないと、老いの目に涙をあふれさせ、ペンを走らせた私です。
 (津市 64歳)

氏名 長谷川博子
タイトル セピヤ色の日記
本文  古い古いダンポール箱から、顔を出したセピヤ色の日記。赤茶け黒ずんだ、大学ノートに、毎日書いた青春時代の日記。
 戦争が激しさをます昭和二十年五月から八月の中から抜き書き。(原文のまま)
五月十四日(日) 晴
 火をふいて落ちてゆくB29、五月の空に白雲がある。赤い火がずっとずっと続く。だんだん高度が下がってゆく。海へ落ちる、落ちる。落下傘が開いた。西の方に白い傘がふわりふわりとおちてくる。人が見える。
アメリカ兵だ。戦場だ。ここも戦場だ。

六月十二日(火) 雨
 真綿が泣いているやうな音をたてて伸びる。生徒たちの指は、繭(まゆ)から蛹(さなぎ)をとり出す水の中でふやけて痛む。
それでも兵隊さんのためにと、だまって作業する。

七月十九日(木) 晴
 津海岸の駅から乗った恭子や久子が、″先生警報が出てゐます″と言ふ。小型機らしい。結城さんの駅を降りて情報を聞く。
 工場の子供達はと心配だった。走った。更に走った。後に子供達もついて走った。
 親切な小母さんが「小型機ですから急いで下さい」と、声をかけて下さる。″ありがとうございます”と、又、走った。
 ″待避っ″と、男の人が叫んで前を走る。そのあとについて、鉄条網をくぐりぬけ、桑畑に入る。子供達と伏せてゐた。高射砲の音が聞こえる。空に砲焔
がたつ。ふと見ると、小型機が鈴鹿の峯あたりを飛んで行。
 爆音の去ったのをたしかめて、頭を上げる。まだ息が荒い。桑の葉がざわざわと揺れる。子供達が動く。
 憎い米機。負けるもんか。
 水色のかわいいつゆ草をみつめて、子供達と解除のサンレンを待った朝。

七月二十四日(火) 曇(津、空襲の朝)
 敵機の爆音が、頭上で気味悪くうなっていた、と思う間もなく爆弾の落下音。大きく響く。又、又と続けざまに落ちる音。伏せてゐるその長い時間。生きてゐる。まだ生きてゐる。子供達はどうしてるだろう。
 学校へ行く。情報の分からぬまま道を歩くのは心細い。途中、火の手のあがるのを見る。空襲!!の声に走って家にもどる。けれど、やっぱり学校の事が気にかかり、呉羽橋を渡ってやっと学校に急ぐ。
 太陽が赤い。燃えてゐる赤さである。西に流れる雲は、怨みを含んでゐる黒さである。又、火の手が上がった。燃える、燃える。薄ぐもった煙が立ちこめて、目が痛い。浦風にのって流れる煙、火の粉がとぶ。
踏みつぶして走った。線路をどんどんいそぐ。
 あはれ、川沿いに眠るが如く横たわる男の人。細く開いた口元に金歯がのぞいてゐた。冷たくなったわが子をおぶってさまよふ女の人。そして、手を足を顔を、血みどろにして歩く人の群れ。泥につつまれた人、人。

七月二十八日(金) 晴(津、空襲の夜)
 津の町も灰燼(はい)と化しぬ。一夜の中に、炎々ともえる町。にくみてもあまりある米鬼の業。母をかばひつつ、父や姉と励まし合って、狭い防空壕の中にじっと耐えた小一時間。
 学校も灰と化した。奉安殿は、そのまま残り衡真影は御安泰。
 津の街の八割は、一夜のうちに灰と化し、多くの人の命を奪った。

八月十五日(水) 晴
 輝かしき我が帝国の三千年の歴史。そを今ここに悲しく水泡とせねばならぬくやしさ。ああ悲憤の涙、涙。
流々として落つる涙をぬぐふ事もせず、私は玉音をお聞きしてゐた。「朕、臣民の苦しみをみるにしのびず」
陛下はかく宣ふ。そして、世界の平和を速やかに恢復せしめんとされ給ふ。
 我等ちかって興国の為に生きぬかん。国体維持の信念を心にかたくもち、大君の為に、今また、新しき生活に進まねばならぬ。
 帝国の自存自衛と、東亜の安定を確保するの戦争目的は未だ達し得ず。
 負けるにあらず。我等正義の為に、勝利への道を進みゆくものなり。非人道なる敵米の仇、いつかうたでおくべきや。
 世界平和の日。それは十億の東亜民族の輝ける勝利の日でなければならぬ。
 最後まで、勝利の日まで、戦ひぬくとかたく誓ったあの日、今、むなしく葬られた。
 大東亜戦争、世界第二次大戦、終結の日。

 二十三歳だったあの頃の日記。セピヤ色した日記は、″戦争を二度と繰りかえしてはならぬ″ ″平和の道を歩め″と、訴えている。
 敗戦の著(し)るく立つ記の毛筆に 軍国教師の悔しきりなり
 (津市 73歳)

氏名 谷口 美鈴
タイトル 今も地震が一番恐い私
本文  昔はなかった長島・錦間の立派な道のトンネルを抜けて「名古の浜」が見下ろせる場所に車を降りると、海と山に挟まれて今も狭い錦の町は幾重もの頑丈な堤防が海を区切り、鉄筋の目立つきれいな家々がびっしり建てこみ、湾は魚の養殖場が並んでいるが、それでもその先は広々とした太平洋に続く海がおだやかにたゆたっているのが見渡せる。あの恐ろしい東南海地震の跡かたもないいつもの美しい風景だ。
 その日昭和十九年十二月七日は冬なのに暑い位暖かい以外は何時もと同じで、私は薄着で友達の新ちゃんと観音堂の方に遊びに出ていた。突然起った地面の揺れにふらつきながら何が起きたのか驚いているだけだった。
 「えらいこっちゃ」 「恐(おとろ)っしょ-」とあちこちから飛び出してさた大人達も恐怖で顔を引き攣(つ)らせ抱き合っていただけだった。五十年過ぎた今もありあり思い浮かぶのは前に居たおばあさんのほっペたが上下に異様に動く不思議さだ。すぐ大声で「みっちゃんよ-」と捜しにきた祖母に引っぱられて家に戻ると母が「一番大事な物一つとランドセルを持って寺へ行きなっ。すぐお母さんも行くで、早よっ。」と渡された「余所(よそ)行きオーバー」を暑いけれど夢中で着た。部屋は倒れたタンス、落ちた電灯、棚から落ちた物で足の踏み場もない中にガラスケースから出た剣舞人形が水色の袴もあざやかにころがり、ハイハイ人形の可愛らしかった男の子の頭も無惨にころがっていた。
 母がちゃんと来るのかと心配しながら家に居た兄の後を追って逃げる時、向かいの家のせっちゃんのお父さんが「井戸の水が全部引いてったで津波がくるじょ-、早よ逃げよ-」と云ってくれたが、そのおじさんはとうとう来ず、亡くなってしまった。
 錦地区で一番高所の寺はもう大勢の人でごった返り、高い境内から見渡す目の前の海は映画の一シーンの様で大きくうねり、うず巻き、木や屋根だけ浮かぶ家やその上で叫ぶ人や揚がる土煙り諸共、湾内をゆっくり沖へ動いて運んでいった。大人も子供も声もなく、し-んとした一ときが過ぎると「ひ-、おらい(私の)家が流されてく-」の叫び声や子供を呼ぶ親などでパニック状態であった。
 「早い、早い、お馬しゃんみたい、おもちろい、お母しゃん、もっと走って。」とわけもわからず背ではしゃいだそうな妹をおぶって必死で寺へ着いた母は、捜し物とかで一緒に出なかった祖母が遅いと気遣っていたが、半身ずぶ濡れでやっと逃げてきた姿に安堵していた。本堂も人でごった返した。暖かかった真昼と違い冷えてきた夜は、誰が持ってきたのか不明のフトンが数枚しかなく、近所同志が四方から足を入れて寝た。「寒い、寒い」 「そんなに引っぱってくな-」と胸まで入れないフトンで大人達はきっとまんじりともしなかっただろうと思う。
 次の日誰がしてくれたか知らないけれど、たき出しがあって、二個ずつもらった小さなおにぎりが美味だった。他は物もなかった。
 昼頃から境内に津波で死亡した人達が運ばれて来だした。一番に自分の担任だった久美先生のお母さんが、口の中を土一ばいにした姿のまま筵(むしろ)に寝かされ、始めて死人を見たショックもあり、人々の後から立ちすくんでのぞいていた。次には父の弟家族の母子で従弟の「ゆ-坊」が、ピンク色の頬のまま、生きているように、これも美しい「いま叔母さん」にしっかりおぶわれて運ばれて並べられた。よく家にも遊びにきていた妹と同じ二才のゆ-坊で、その父、叔父の戦死直後であった。
 私の家はつぶれたまま屋根がふたになって中身は残っているらしいと聞いた。出征中の父は戦地で居ず、後始末に残る母と妹達に別れ、兄と共に、情報を聞くなり心配して、車もない当時の事とて夜通し歩いて食糧を持ってかけつけてくれた母の親戚に背負われて、道もない瓦礫(がれき)の中を遠く離れた三瀬谷につれていってもらった。「そこにも死人が居るで踏むな」と話す声が恐く背中にしがみついていた小学生の一年と三年の兄妹だった。
 どうにかとり出せる物を整理して母と妹が本家にきたのは半月程後で、母と大伯母が洗い干すフトンからツララが下がっていた。その後空家だった母の実家に移り、満州(中国東北部)から生き残ってきた叔母、従姉達六人も加わり六年を過ごし錦に戻った。父は終戦年の四月戦死した。
 戦争末期でもありほとんどない乏しい資料によると、錦を大方壊滅させたこの地震は全壊流出家屋四百六十五、死者六十二と記されているが定かでないそうだ。二十キロを峠で隔つ柏崎村の警防団の人に託し、町長が県に打った電報「オオツナミニテニシキゼンメツフッコウオボツカナシキュウサイコウチョチョ」の絶叫の様な文面がよく惨状を物語っていると思う。ちなみに私の一番大事な物は箱一ばいの自作の紙人形で、母を大いに落胆させ唖然とさせたそうだ。
 (伊勢市 57歳)

氏名 平野 ひさ
タイトル 彼の人に、もう一度会いたかったと思いつづけた五十年
本文  昭和十七年七月十日の朝の事でした。
 私は、野上がり休みをもらって実家に居りました。母が当時の国防婦人会で出征兵士を見送りに駅へ行って居りました。慌ただしく帰るなり「平賀の政衛さんの戦死の公報が入った話だった」と悲しそうな顔で、私は只呆然として言葉もなく涙もでませんでした。
 間もなく婚家から『政衛戦死シタ。スグカエレ』の電報が届きました。それを見るなりいきなり涙がこみあげてきて奥へかけこみ泣けるだけ泣きました。そして父に送られて帰ってきました。お義父さんは「大変なことになりました」と伝えるなり又泣きました。ひとり息子さんを亡くされた御両親の御心中はどんなであったでしょう。
 それから、それはそれは悲しい寂しい毎日でございました。朝起きても、辺りが暗く地の中にすいこまれる思いでした。思えば九か月前、昭和十六年十月十八日に大阪の旅館で仮の式を挙げて二日問共にしたきりでした。夫は海軍の現役兵でした。その時は、親同士の話し合いで決められた事で、恥ずかしくて打ち解けた話は何も出来ませんでした。
 それから半年余り、便りのやりとりで、夫がどんなに温かい心を持ち自分に責任の強い人であることが、だんだんわかって参りました。そうして私は、いつしか心から夫をお慕いするようになって居りました。
 「四月二十二日休暇が出るから面会に来てくれるように」と便りが届き、お義父さんと出掛けるつもりで床につきました。しかし、運命の皮肉とでもいいましょうか、一夜の内に私の顔に腫れものができて目がふさがるくらい腫れてしまいました。熟もでて気分も悪く、私は泣く泣く断念してお義父さんだけ出掛けてもらったのでありました。
 そうして二十五日、夫の艦は戦地へとむかったとのことでございました。その時、夫からそれはそれは心のこもった遺書のような便りがありました。その手紙が私の支えとなったのです。しかし、その後、いくら待っても待っても便りはなく、とうとう七月十日の戦死の知らせです。何が何だかわかりませんでした。しばらくして、遺骨を迎えて『村葬式』と慌ただしくひとつきばかり日がたちました。
 落ちついてきますと私は「どうしたらいいのだろう、この先どうなるのだろう」と考えあぐねておりました。でも自分の気持ちは決まっていました。あの遺書のような手紙を無しにすることは出来ません。けれど周りの人がどう思っておられるのか色々ありました。しかし、お義父さんは「節子(通称名で本名ひさ)は、政衛の代わりだと思うから」と言われ、政衛さんの妻として入籍されました。これ以上泣いて悲しんでばかりはいられません。「ひとりきりの息子さんを亡くされて、悲しんで居られる都南親を助けて、この家を守っていかなければ」と決心致したのでございます。
 お義父さんは、体の弱い方でございました。昭和十九年二月十八日、病気のため桑名病院にて手だてのかいなくお義母さんに「節子と二人で力を合わせて、しつかりと後を頼む」と言われて静かに亡くなられたとの事でございました。それから、お義母さんと二人の生活が始まりました。

◎供米をおわりて向かう夕げのぜんに
          はほえみかわす母ともろとも
◎冬枯の風つめたくも身をさして
          ただひとすじに夫しのびつつ
◎雪しぐれ遠慮なくも我をうつ
          雪か涙か頼をぬれゆく
◎川の面に遊ぶ二羽の水鳥や
          夫のおもかげしのぶる我は
◎咲かぬまにつみとられし野辺の花
          実もなきが故に秋ぞ寂しき
◎年月は水の流れに等しけれ
          変わらぬ心は夫ぞ恋しき

 終戦から三十年の歳月が過ぎ、我が家もとても良い
後継ぎに恵まれ孫も三人生まれて、世間並みの家庭になりました。一番上の子が一月に生まれた時は、あまりにも嬉しくて……

◎初春に初孫できて嬉しさに 家族そろって初笑顔かな

 それから十年ほど、平和な月日が流れて平成三年三月二十一日、お義母さんが九十一意で老衰のため静かにこの世を去りました。眠るようなお姿を眺めて感慨無量でした。
 「ああ、この人と過ごした五十年。長生きであったればこそ、私は今までやってこられたのだ」とつくづく思いました。今日、自分があるのは「身内を始め親戚の方々、周りの人々、たくさんの人様のおかげがあったればこそ」と今では感謝の念でいっぱいでございます。
 いつか私もこの世を去るときが釆ます。その時、宿業でどんな死をむかえるかは分かりませんけれど、必ず彼の地で彼の人と会えると信じて一生を終わりたいと思います。
 (多度町 75歳)

<空襲>

氏名 木村かつ子
タイトル 平和を願う橋三瀧橋
本文  三瀧橋は、御在所ケ岳を源流として伊勢湾へ注ぐ三瀧川に架かる旧東海道四日市沿道の橋である。
 平成六年八月吉日、新しく架け替えられた三瀧橋の渡り初めの日である。中部中学生の吹奏楽が高らかに演奏されるなかを、山高帽に紋付羽織の三夫婦を先頭に生まれ変わった三瀧橋の渡り初めが始まった。私は心をはずませながら皆の笑顔に混じって橋を渡った。戦前の三瀧橋の姿を充分に残しているうれしさに橋の欄干に手を置いてみた。欄干からつたわってくる夏の陽射しが遠い日の思い出を誘うかのように胸の奥から湧き出るのを感じた。
 旧三瀧橋は、大正十三年市内初の鉄構橋で道巾も広く、橋の両端には大きく刻まれた石が積み重ねられ石柱をかたち作ってた。石柱の上にはモダンな外灯が付けられ、橋をいっそう瀟洒(しょうしゃ)な装いにしていた。橋の附近には消防車の車庫や、警察の派出所があった。夏の夜の橋の上は人影が多く、七夕や花火大会の日は人混みで賑わっていた。冬は雪景色の河原にかき舟の明かり(牡蠣(かき)料理店)が川面にうつり情緒豊かな風情であった。春は桜堤を楽しんだ。戦争が闌(たけなわ)になり、橋の袂(たもと)に立って、武運長久を祈り千人針の一針を願って女性の幾人立ったことか。そして戦災の惨めさを充分に体験した橋であった。
 三瀧橋の近くに住んでいた私は、昭和二十年六月十八日の四日市大空襲に出合った。六月十七日午後十一時半頃、一亘解除になった警報が空襲警報に変わったとき、町内の警防団に詰めていた父の大きな声が戸口から聞こえた。
「今夜は危ない、早く逃げなさい。」
と言って出ていった。妹と私はかねて用意の非常袋を持ち、弟二人は各々の自転車に荷物を積んで羽津山の伯母の家に向かった。末弟(小一)妹(小六)と母と私は、前庭の防空壕に入った。まもなく、隣の清子さんが、
「かつ子さん、そんな所に入っていてはいけません。早く逃げなさい。」
と、注意してくれた。清子さんは名古屋の空襲で焼け出され里帰りをしていた。私は早速弟と妹に二人で逃げるように言い、母と二人で家を守ろうと思った。家の中をうろうろしているうちに、裏の建福寺を隔てて第一小学校の方に火の手が上がった。私は逃げなければと急いだ。いつまでも家に執着している母を促し、母の手を取って家を後にした。家を出て十軒程きた所で焼夷弾の爆撃に出合った。焼夷弾は母と私のすぐ横に落ちた。幸いにも直撃をのがれたので、母の手を強く引っぱって通り抜け三瀧橋へと走った。橋の手前の髪結屋さんの家が燃えていた。私は橋を渡ろうかと迷ったが渡らず堤へと向かった。堤防は人、人、人で肩を触れ合い、押し合うほどで走ることも通り抜けることも出来なかった。四日市の多くの人が三瀧川をたよって集まっていた。B29の攻撃で照らし出された人々の悲愴な顔を見て、私は焦燥に駆られ母の手をしっかりと握った。
 人の流れに流されて知人の家の前に来たとき、ふじさんの母親が乳母車の中に座って両手を合せ念仏を唱えていた。見て見ぬふりをした心残りが今も私の胸底に残っている。何回目かの焼夷弾が三瀧川へ雨のように投下され、シュシュシューと金属音をたてて砂の中に突き刺さる音と同時に上がる人声の異様さに、川の中を這うように川上へと移動していた母と私は抱き合って息をひそめた。
 川靄(もや)を通して見える薄明かりに音なき夜明けを感じた。暁光に浮かぶ三瀧橋、明治橋、近鉄鉄橋の残っているのを見て力強さを感じた。B29の爆音の消え去った東の空を燃やして真紅の太陽が昇ってきた。その時「生きていた」という喜びが一夜の悲しさを吹き飛ばした。太陽に勇気づけられた私は、父や弟妹のことが気になり母を堤に休ませて三瀧橋に向かった。
 明治椅に近づくと人の倒れているのが目に入った。明治橋と三瀧橋との間にはより多くの人が倒れていた。
息絶えている人、助けを求める人の声、なすことを知らない私は手に汗を握って走った。三瀧橋附近には人が重なるようにして倒れていた。三瀧橋は熱くて渡りづらかったが思い切って渡った。橋の上から見る街は焼け野原で、建福寺の墓地のみが寂寞(じゃくまく)と見えた。河原に降りて橋脚を見ると逃げてこられた人々が大勢集まっていた。私は近づいて妹と弟の名前を祈る思いで何べんも大声で呼んだ。すると、橋の下から真黒の顔をした子供が二人泣きながら私の方に向かってきた。私は駆け出して二人の肩を抱きしめて泣いた。三人は言葉もなく涙と埃でくしゃくしゃであった。
 三瀧橋から見るはるかな鈴鹿嶺の峯々は、優美な姿で今も私に語りかけてくれる。三瀧川の流れは、あのいまわしい戦争の犠牲となられた御霊に哀悼の祈りを捧げるかのように晶々と流れている。生まれ変わった三瀧橋は永久の平和を願う橋であるように思った。
(四日市市 72歳)

氏名 八馬 貞雄
タイトル 桑名が燃える
本文  昭和二十年七月十七日午前一時頃、警戒警報が発令されて、床から飛び起き着衣をおえると同時に、空襲警報が発令された。B29の爆音が、旋回しているように聞こえてくる。
 今日は非番であるが、空襲警報が発令されたら本部付防空警備員のため出動しなければならない。家から外へ出て驚いた。
 市内上空が、照明弾の落下により昼間のように明るい。一番先に三之丸地内三菱航空機桑名工場あたりに、火焔が上る。高度を下げているのか、爆音が高くなる。
一か月前の四日市の空襲が思い出される。完全に桑名が攻撃目標だと、本署へと走るが、途中避難する人で大混乱である。いたるところから焔が上り、京橋を経て、寺町通りをと思ったが、もう火勢強く、通行不能。常磐町を直進、旭町から八間通りへ抜けようとしたが、これも通行できぬ火の海である。
 ようやく精義小学校の校庭を横断して、本署へ到着する。もうその頃、付近一帯は焼夷弾の落下により物凄い火煙の真っ只中である。
 完全に市中が、同じ情況であろうと思われる。当時としては相当巾広い八間通りでも、両側からの火焔と、火災とともに発生する物凄い風圧、ただでさえ真夏の七月中旬、暑い。そして煙が最大の苦痛であった。
 頭にかぶっている鉄兜が熱くなりたまらない。署内は煙の吹込みに、目は痛む、呼吸は苦しく、死が迫って来るような気がした。
 情報もなく時を待つしかない。
 頭がやけつくようになり、玄関口右側にある防火用水を、バケツで頭にかぶる。この用水があったので、命が保てたと思った。平素から水量が少なくなる度に、満水にして万一に備えたのが役に立った。
 二階の警備員が煙のため息苦しく、降りて来る。時々外へ出る。屋内にいるよりは少々苦しみがしのぎ易い。風の勢いの凄いのには驚く。安田代書人宅前の防空壕に、老婆らしき一人が、うずくまっているらしいので、署員二、三人で、その場へかけつけ本署へ来るよう誘導するが、大事な品物があるので離れることができないと応じない。しかし、命を失ったらなにもならないと、忠告してやっと従順する。あのままだったら、熱気で絶命である。
 長いような二時間余で、ようやく、B29の編隊も去り、火勢も弱くなる。すでに、延焼物はほとんど倒壊したためであろう、煙の心配もなくなった。
 東の空が明るくなると、やっと、無事だった安心感から身体がだるく、空腹と目が痛い。誰もが充血した目をしている。
 そろそろ各区域の雁災情況が入り、警防団員、署員もかけつける。市街の八十パーセント焼失である。すると、急に家族の身が案じられる。
 しばらくして、上司に話し許可を得て、朝食用に乾パン一袋支給され、それで空腹をしのいで、内堀の自宅へ向う。だが、八間通りは通行できても、寺町宮通り、魚棚は全然通行不可能。本署へ引き返し、各地の通行可能な個所を確認してから到着したが、どこの町を通って来たのか判らない程、頭の中が混乱していた。B29が去って数時間経ていて、鎮火していても焼け跡は熱気で巾が狭い道路は、とても歩行出来ない状態である。
 空襲警報発令直後、父は外堀、新屋敷の姉宅へ行き、家族は東野方面へ避難したらしく無事を確認する情報を知り安心したが、近所の谷口さん、水谷さんら数人の不幸を聞き残念でたまらない。心の中で合掌する。
 急ぎ本署へ戻る。
 署内では負傷者の問合せ、照会等、市役所員、救護隊員、警防団員と、連絡員の出入りが多くなる。また、死亡者が多く、その検死に、署員は大変である。死者約三百五十名だと思う、他に行方不明の方も。望楼から、桑名市街を眺め、感慨無量である。
 福島、新矢田、馬道、東方、修徳、駅前の一部、福江町、大福等が戦火をまぬかれた。ほかは、ほとんど焼野原である。部分的に残った家屋も所々見受けられたが。
 ……そして一週間後、再びB29の編隊の攻撃を受けることとなる。七月二十四日午前十時頃、爆弾との闘いである。
(桑名市 68歳)

氏名 本堂美知子
タイトル 私の知っている戦争
本文 日増しに空襲が激しくなった昭和二十年七月二十四日、津の町は二度目の爆撃を受けました。そのとき私は、津の殿町に住んでいました。
 その日、私の家のラジオが壊れていたので、何も気付かずに、両親は朝から、疎開させる荷物の整理と、荷造りに忙しくしていました。
 朝の九時だったでしょうか、友達の玉ちゃんが本を返しに来ました。「長いこと借りていてごめんネ」と、本を私に渡すと「もう帰るワ」と、足早に帰って行きました。玉ちゃんの家は、私の家から五、六分の所です。玉ちゃんは「ただいま!」と外から声をかけ、母さんが家の中から「お帰りなさい」と出てこられたそのとき、艦載機の機銃掃射に撃たれ、戸口で死んでしまったそうです。またその同じ頃、同級生の春ちゃんも、機銃掃射に撃たれ、その上火災が起き、トイレに入ったまま黒焦げになって亡くなってしまったそうです。
 春ちゃんと玉ちゃんの死を知らされたとはぼ同時に、向いのおばさんが、怒鳴るように「保ちゃん(私の父のこと)何しとるの、早よううちに来てラジオ聞きなさいヨ」と呼ばれ、家内中で向いの家にかけ込みました。
 そのとき、ラジオから聞こえてきたアナウンサーの声は、うわずって「ただ今、B29が宇治山田上空を旋回中で……」と言い終るか終らないうちに、ガガガガァとひどい雑音になりました。とたんに、ドカーンと物凄い音がしたかと思うと、目の前が真暗になり、何も見えません。音と同時に地響きがして、家がゆれているようでした。暫くすると、ドスン、ドスンと音がして、土煙りが立ち込め、光が差し込んできました。爆風で壁が壊れ、開けてあった戸が塞がってしまったのを、父が蹴って出口を作ったのでした。そして父は言いました。「さっき落ちた爆弾の穴まで走り、そこで待機しなさい。一人ずつ出て行きなさい。その途中で何が起きても立ち止まらず、前だけを見て走りなさい。たとえ、父や母が死んでも、振り返らずに逃げなさい。今は非常時なんだから。」
 兄、姉、私、母と妹、そして父の順に穴に駆け込みました。穴の中には水が溜まり、その水は温かく、温泉のようでした。私達は穴の斜面にへばりついていました。頭の上をカランカランカランと、金属音を響かせてB29が飛び交っています。あとから穴に入ってこられた人も何人かいましたが、空から丸見えだと言って、すぐに出ていかれましたが、落ちてきた爆弾にやられてしまいました。
 父の考えは、一度落とした穴に、二度も落とさないだろう、との判断でした。その間も爆弾の落ちる音、カラカラカラザザザザッ、ザー、ドカン、とひっきりなしに続いています。
 やがて三方から火の手が上がり、みるみる火は広がりました。東は海の方まで火の海と化してしまっているのです。兄と父が話しています。
 もう一方も火の手が上がるなら、中心に居た方が良いし、急いで逃げおおせるものなら、津を脱出した方が良いが、どうしたものか、女子供を連れての脱出だから、できるだけ危険は避けたいのだが、と言う父。兄は腕組みをして考えていましたが、「美知子は僕がおびます。お母さんは妹を、お父さんは誘導して下さい。」と言い、家族は歩き出しました。
 道には、電柱が倒れ、電線や瓦が散らばり、ガラスはあめのように熔けて、散らばっていました。道は寸断され、家は崩れ、その中を逃げました。途中父が、春ちゃんの死を悼(いた)む私に替って、私の気の済むようにと、お悔みに寄って下さいました。
 逃げる途中で、首が電線にぶら下がっているのを、また、首のない詰め襟の服を着た男の人が歩いているのをみました。爆風で上半身裸にされた女の人がいました。建物の下敷きになっている人もいました。
 ガレキの中、火の手を逃がれて、やっとの思いで町外れまで来たときは、もう夕方近くでした。母の里の家は残ってはいましたが、中は空っぽで、ガラス戸は飛ばされてありませんでした。道で人が話してくれました。爆弾で助かって、爆風で死んだ人。小川に伏せて息をころしていた人が、もう大丈夫と頭を上げたとたん首をもぎ取られた人もいる、と言うのです。
 逃げてくる途中、家の下敷きになり、助けを求めている人、うめき声、母の足を引っ張り助けを請う人、母は泣きながら「許して下さい。子供が、小さい子供がいますので、どうか許して下さい。どうか恨まないで下さい。」と、手を合わせていました。
 これらの光景は、今もなお私の脳裏から消えることがありません。戦後五十年経った今もなお。
(東員町 60歳)

氏名 澤村 節子
タイトル 無くなって居た町(津市玉置町)
本文  ヒュルルルルーザザザザザー。何の音だろうと思ったとき、どこからか飛び出してきた母が私達四人姉妹を突き飛ばすように庭先の防空壕に押し込んだ途端、目の前が真っ暗になり何の音も聞こえぬ静寂が訪れました。
 どれくらいの時間が経ったのか判りません。当時四歳だった一番下の妹の泣き声に、ふと気がつくと、身動き出来ぬまで壕の土が私達の体を押し付けていました。一九四五年七月二十四日、朝から日差しの暑い日でした。私は四人姉妹の長女で十三歳。県立津高等女学校の一年生。母三十六歳。父は二度日の中国戦線から帰還し、県庁の職員として勤務中で、遠からぬ玉置町に住んで居た私達を案じ、駆け付けてくれましたが、辺りはただ瓦礫(がれき)の山で、見当も付かず、隣家に杉の大木があったのを見当てに、ここぞと思うところを掘ると、左半身を吹き飛ばされた母が居り、まだ息があって、右肺から搾り出すように声を出したそうです。私達はと言えば、身動きもならず真っ暗な中に、急に頭の上にぽっかりと穴が開いて光が射し、父の声が降ってきたのに、声も出せず、ただ呆然とするのみでした。父は、血塗れで内臓のはみ出た母を背に、瓦礫と、死体の山を踏み越え、救護所に向かいましたが、母は父の背中で、当然ながら事切れておりました。
 町内で、この現場に居て、生き残れたのは私達姉妹四人だけだったとは、後から聞いた事実です。近くの神社の境内に死体が丸太のように並べられ、暑い夏の陽にさらされて居た光景を今も忘れることが出来ません。爆撃で殺された人達は、広島、長崎の原爆に因る被害者だけではありません。東京、大阪、名古屋等々、大都会はもとより、地方都市にも被害者が、山程居たことを忘れないで欲しいものです。
 母が戦災で爆死したと知り、「その頃の話を」と何度も求められてきましたが、被災当時、思春期だった私の心に染み付いた、残酷な光景と悲しみは、今の今まで、それを口にも筆にもすることが出来ないで来ました。とりあえず父の郷里、伊賀に、下の妹二人を帰した後、後始末に忙しい父と別れ、一日遅れて二番目の妹と二人、汽車に乗り、伊賀へ向かうときの心細さ、今も生ま生まとよみがえります。そして、そこで待っていた、物の無い時の人の心の冷たさ、貧しさ。家も土地も知らぬ問に人手に渡っていたり、そんなごたごたの中、終戦後、職を辞し、郷里に帰った父と十三歳から四歳までの娘四人。慣れぬ手に農具を握り開墾し、日雇いにも出、泥鰌(どじょう)取りまでし、後には霊山の頂上に出来たNHKの中継所に勤めて、長女の私だけは阿山高女に転入、制度切替え後の男女共学の上野高校にも学ばせてくれました。
 昨一九九四年、母の五十回忌の供養を伊賀の寺で行い、母の遺体は津市に仮埋葬され、その後都市計画で他へ合祀されたようなので仮埋葬させて下さった寺を探して、五十回忌の供養をして項きました。そのついでに、被爆した辺りを捜して見たのですが、既に玉置町という町は無く、ただ「たまき公園」の名が残っているだけでした。
 米寿を迎えた父もこれでほっと一息したように見えます。私も自分自身に課して居た禁則を破棄、思い切って書いてみることにしました。若い時から自分なりに努力してきた平和への行動の一助になるならば、五十回忌を終えた母も喜んでくれるのではないかと思いつつ。そして半年、否、一か月早く、当時の天皇が戦争中止の命令を出して居てくれたらと、心の底で今も恨みつつ……。
 (伊勢市 63歳)

氏名 川瀬 朋子
タイトル 駆け巡る恐怖-被災体験より-
本文 小学校四年生の時であった。私は津市に生まれ、当時、三重県立師範学校男子部附属国民学校に通っていた。教生の方が一クラスに一名配置されていて、朝一番の教室での挨拶は教壇の横に祀られた神棚に向かって拝礼することから始まった。
 当時、制服を着用していたが、二十年、金の釦(ボタン)は陶器に替わり金具の物は段々と身辺から何処かへ持っていかれた。
 英霊室が、校長室の隣にあって一週間に一度は、そこでクラス一同は唄った。
「共同参の帰り道 みんなで摘んだ花束を 英霊室に捧げたら 次は君らだ分かったか しっかりやれよ頼んだと 胸に響いた神の声」
 文部省認定の教料書の紙がザラザラになってそれも更に薄くなった。お昼のお弁当は日の丸弁当、戴く前には必ず唱和した。
 「今日も学校へ来れるのも 兵隊さんのお蔭です お国の為に働いた 兵隊さんのお蔭です」
と掌を合わせて蓋を開けた。
 家を出る時も帰ってからも近くの御山荘橋の袂(たもと)に立って、千人針のお願いをした。世相の厳しさは様々な形に表れたが、体育の時間に手榴弾の投げ方も教わった。高山神社の道を隔てて師範学校前がお濠で、上空に敵機来襲の時には「このように飛び込むのだ」とその格好も教わった。
 七月二十四日、松阪上空にB29来襲、警戒警報が鳴り響いた。学校、家いずれか近い方に急ぐという事を指導されていた私は、ありったけの力で家に駆け込んだ。途端に「ズドーン」と凄い音、瞬間父の身体に覆われて階段下で蹲(うずくま)った。空襲警報は直後に鳴った。「防空壕に急いで入りなさい。」という父の声は上ずり顔がひきつっていた。壕の中は、見知らぬ人が入っていて私達兄弟の入る余地を僅かに残していた。それは安濃川の右岸の堤の下に作られたものであった。入った途端に「ひゅるるる」と音、爆弾が空中を落下する時の不気味な恐怖の塊の音で「ズドーン」と刺すように地を貫いた。爆風で頬は砂に痛い程叩かれ、耳を劈(つんざ)くその凄まじさに壕の中では男の人もすすり泣いていた。思えば、壕の両側が開いていたので生き残れた。沢山の生き埋め状態を見た。隣家は屋根の真中心に爆弾が落ちたので全滅であった。B29の爆音が遠のいた頃、壕から出て安濃川を見た時の驚き。人があちこちに浮いていた。母と子の抱き合った姿、乳母車、自転車、人人人。通りがかりの人が吹き飛ばされて命が絶えた、この世のものとは思えない地獄図であった。
 次女である姉が壕に居ないので、父と母はB29の飛ぶ中、探し回った。台所で、非常米といって当時米の炒ったのを缶に入れていたが、姉は火の後始末をしていて逃げ遅れ、直撃弾で顎が外れた無惨な死を遂げた。母の両腕、両脚は三箇所ほど爆弾の破片を受けてパックリ石榴(ざくろ)のような穴が開き、父が止血のために手拭で強く縛りヨードチンクか、粉の劇薬で応急手当てをしていた。母は蒼ざめた顔で失神状態であったが、私達兄弟は、その冷たい掌を握ることでその場の安堵を得ていた。
 夜、近くの知人宅へ身を寄せさせて貰った。電灯も断れ、暗闇の中、懐中電灯が鈍い光を落としていた。そして二十八日の夜、突如閃光(せんこう)が走って外の異状を感じた。焼夷弾が既に落とされていた。兄弟は手を繋いで逃げた。二十四日の爆弾の穴に落ちないようにと、すっかり変わった町の様子は、どこを今走っているかも解らない。不謹慎にも人の屍体を幾人跨いできたであろう。背中に焼夷弾が突き刺さった儘(まま)「お母さ-ん」と息絶えていく人をも横に見た。どうする術もなかった。地に落ちて炸裂する時の火の粉を避けるために防火用水に頭巾を浸しては唯、走るのみ。父母とはいつの間にか離ればなれになった。父は母を負ぶって逃げ回っていた。声を交わすと無線で敵に判ると禁じられ無我夢中でみんなの走る安全と思われる方向について駆けていた。
 二里半程も走ったのであろうか。そこは野田という地名の津の町はずれの山裾であった。露じめりを服に感じたが皮膚感覚は全く無い恐怖一点の夜明けの頭であった。長女である姉が見知らぬ一軒の家に頼みこんで、やっと畳の上に座り込んだ。馬鈴薯の蒸(ふか)したのを出して頂き口にしたとき、こうして今生きていることの不思議が先に立った。
 焼け跡に行けばきっと父に会えると信じた姉は一人で山道を昨夜の後戻りのように歩いて行った。父も現場に来ていて、子供達の安否を気遣っていた。この再会の様子を聞いた時、胸が圧迫され涙なしには語れない。
 母の郷里である鈴鹿に、みんなで身を寄せた。祖父と叔母の平穏な暮らしをまるで乗っ取りするかのように七人が雪崩れこんだのである。防空壕も掘ってない鈴鹿は、ひととき和らぐ事ができた。八月十五日終戦、玉音放送を聴いた。先の生活は何も掴(つか)めなかった。
 核廃絶、戦争のない世界を心から叫びたい。
(鈴鹿市 59歳)

氏名 加藤 つた
タイトル 我が町津の空襲を思い出して
本文  忘るる事の出来ない七月二十七日の事です。今夜あたりはこの町も焼かれるかも知れないと町内に噂が流れていました。
 夕方も近くなって来たので今夜はどこで野宿しようかと、配給のかぼちゃやさつまいもなどを煮て弁当箱に詰めて出掛けました。
 乳母車に四才の長男を乗せて、一才の妹を背中に背負って、義母と四人で家を出ました。
 六月に昼の空爆に二回程いためつけられた我が家も、瓦は飛び壁は落ちてまるであばら家のような住家になっていました。日は西に落ちて暗くなって来ました。しばらく行くと警戒警報発令のサイレンと共に係りの人が大声で叫んで行きます。私達四人はいつの間にか久居の町を通りぬけて竹やぶのある所に来ました。こんどは空襲警報が発令されました。
 もう何機かの編隊機が私達の頭上を耳もやぶれんばかりの音で北上して行きます。津の方面を見ると天をも焦さんばかりの火、火、火です。火の海そのものです。阿漕駅近くに油の入っている大きなタンクがいくつかならんでいました。そのうちそれに火がはいったのか次々と爆発して行きます。ボカンボカンと遠くまで聞こえてまるで仕掛けの大花火を打ち上げているようです。焼夷弾を落とした飛行機は旋回して帰って行きます。何百機来たかは知れませんが、三角形に隊を組んで頭上を通る姿は今でも眼に浮かんで来ます。
 やっと夜が明けたので津の方へ帰って来ました。丁度青谷の岩田池の所まで来た所、昨夜逃げおくれた人々がやけどをした方、怪我をした人、抱いて逃げた赤ちゃんの死がいを布に包んでいられる人、皆横たわって泣いていました。
 まるきり地獄絵そのものでした。火もおさまって来たので町の中に行こうとした所、まだ灰が熱くて近よれません。しばらく待っていると、近くに製粉の倉庫があり、其の半分ぐらいに火が入って焼けつづけているのを引きつり出して、布袋の粉を皆に分けて下さいました。その粉を口にほおばったりしていました。やっと町の中に入り我が住んでいた町に来ました所、隣り組の方々も七、八人見えて、人数をたしかめた所、何人かの姿が見あたりません。後でわかった事ですが、熱いので井戸に飛び込んだ老人御夫婦、近くの神社まで行って煙にまかれて死亡された方、道路上で焼死なさった方、又防空壕の中で目ものどもやられて死にたいと泣いている人、その姿は残酷そのものでした。其の翌日柳山地区の一部分が残って、元の県立女学校でおにぎりをやるとのこと、並んでいた所急に大雨が降って来ました。近くの知り合いの家に雨宿りさせてもらいました。その時、住む家がなくなったのだから私のはなれの一間を貸してあげると親切に云っていただき、そこにお世話になることになりました。
 それからも北上するB29は何回も通過して行きます。其の都度壕にとびこんでいました。ある日、焼け出された人は市役所まで証明を取りに来るようにとの事で、丁度今の丸の内あたりを歩いていると、壕の中から飛び出して来た男の方が「皆寄って来なさあい」と大声でよんで下さいました。今から玉音放送があるからと、ラジオを持ち出して下さいました。しばらくすると何やら雑音の入ったラジオが、「たえがたきをたえて……」、そのあとはしっかり聞き取れません。中の一人が「ああ戦争が終わったのや、万歳々々」と大声をあげたものの、其の場に居た人々は皆泣いていました。早速家に帰り、それからは四人の生活が始まりました。
 食料の配給はアラメヒジキばかりで、米など夢の夢でした。少し知り合いの家にあずけてあった衣類を一枚又一枚と米に換えて、子供達も栄養失調にもならずに生活してきました。
 戦争は終わったが、出征している夫の行方がさっぱりわかりません。県に世話課が出来たので聞きにいった所、この部隊は南方ルソン島で全滅しているとのことです。近所の出征した人達がポツボツ復員して帰って来られます。でも、信じる事が出来ない私は、夜の物音にも飛び起きたりもしました。ある時世話課より、この隊の本部付き数名が残ったのみで、全員最後の総攻撃で名誉の戦死をしたと返事が来ました。今思うと、なぜ隊長が助かって東京に帰って、兵達は全滅とは考えられません。悔しい思いが胸いっぱいなってまいります。
 それから後日、公報の戦死の通知があり、白木の箱を長男が胸にかかえて、妹を私が抱いて家に帰りました。近所の方々が涙をながして迎えて下さいました。それから身につけていた洋裁をして一家四人の生活をしてまいりました。
 私も今は老いの身となり、息子夫婦と孫二人に恵まれて、幸せに感謝して一日一日を大切に暮らして居ります。
  これからは残酷なこのような戦争が二度と起らないで、全世界がいつまでもいつまでも平和でありますよう祈りつつ。
 (津市 77歳)

氏名 小林 靖子
タイトル 戦争の爪跡
本文  一九四四年から四五年にかけて空襲も一段と激しくなってきました。ある日叔父が訪問することになっていました。母は食糧事情の悪化で頭を悩ませていました。側で見ていても困惑の色は隠せませんでした。叔父は日帰りの予定でしたが気が重いと云って泊まることになりました。私は母の苦労も分かっていましたが、なぜか空襲の恐怖が和らぐ安心感がありました。だがそれも束の間、その夜は大空襲となりました。サイレンが不気味にけたたましく鳴り始めました。瞬間、B29が編隊で爆音を響かせながら接近してくるのが恐ろしく胸に迫ってきます。その時パアッと昼間のように明るく感じました。まるで津市内が見渡せるごとく、照明弾だ。アッすずだ。電波妨害のすずが、ジャラジャラ落ちてきます。
 叔父は、ここにいては危ない、海に逃げようと云いました。避難準備は慣れているから、叔父の命令に従いました。持つものは水筒だけ、防空頭巾の上から銘々ふとんを被りました。一目散に走りました。すると喉がカラカラで息苦しい。水を呑む悠長さなんてない。兎に角走った。家族とはぐれないように、死ぬのだったら一緒と云う意味で確かめ合いながら走りました。B29爆撃機から焼夷弾が雨あられの如く降下します。海水へ入って、ふとんを濡らして頭へかぶれと云うが、一旦水に漬けたら動かせるものではありません。とうとう身から放してしまいました。水筒も見当らない。沖から寄せて来る波は火の玉だ。焼夷弾の油が海水の表面で燃え上がる。追いかけてくる。砂浜に逃げると捨てられたふとんが、じゆうたんを敷きつめたようになっていました。それも燃え上がる。人波を縫って叔父が誘導してくれる。松林も燃えてきた。波が火の玉を押し上げ砂浜が燃え、松の木が燃え落ちてくる。焼夷弾が目前に落ちてくる。人が燃えだす。助けて、助けての声が耳に突き刺さる。私達の足元に這い上がってくるが、どうすることもできない。アー燃えて死んでゆく。それから何時(なんどき)過ぎたのか。B29爆撃機は、降下するものも無くなったのであろう。生き地獄だけを残して去って行きました。生き残った人々はみな唯茫然と屍のようになっていました。子供の名を呼び、親を探し求める子供、何と痛々しい、胸が張り裂けそうです。何の抵抗もできず、何の助けも出来ない弱者を、なんで、どうして、これ程までに憎しみ、こんなにむごたらしい目に合わせて、弱者はどうして生きればいいの!!やはり一生苦しみを背負(しょ)い込んで生きて行くしか道がないのです。
 翌朝は静かな朝となりました。私達は運良く助かることができました。気がつくと叔父はもういませんでした。恐怖に戦(おのの)いて、空腹もわかりません。そんな時、海から沢山の遺体が戸板に乗せられて運ばれてきました。全身焼け焦げた人、上半身焦げた人、下半身焦げた人、幼児を抱きかかえたままの人、幼児を背負ったままの人、肩に救急カバンと水筒の紐らしきものがクロスされたまま下半身黒焦げの人。私は暫(しばら)く運ぶ様子を呆然と見つめました。次は自分かも知れないと思いました。遺体は絶えることなく運ばれました。お寺さんの本堂の前が遺体の山となりました。それ以後は、糸がプツンと切れたように耳にすることなく、口に語ることなくみんなの体の中で秘め込まれているのだと思います。私もそうだからです。話して聞いてわかるような生易(なまやさ)しいものでは決してありません。身元不明の遺体は砂浜に埋葬されたと聞きました。
 それから十年後同じ日、中学生の水難事故がありました。遺体の埋められた場所の近くです。生存者の話によると防空頭巾をかぶったおばさんが呼んだと云います。私はその現場に駆けつけて見たのです。小舟の両脇に二ツ折れになった遺体がまるで昆布かわかめのように被(かぶ)さっていました。そうして静かに波打ち際に並べられました。まるで昼寝でもしているかのように目に映りました。この学生さんは私が恐ろしい焼夷弾攻撃をさ迷うた時の年令と同じです。振り返って思い出す恐ろしさ、心が凍る思いでいっぱいです。
 最近物忘れが多くなってきましたが、悲惨な戦争の爪跡だけが鮮明に記憶に新しく感じております。戦争だけは二度と再びあってはならないと思います。戦争は弱者に重く伸し掛かるものです。この体験文は、体験したはんの一部分です。
(安濃町 64歳)

氏名 浜口 宏子
タイトル 伊勢にも神風は吹かなかった
本文  昭和二十年七月二十八日。朝から何度も空襲警報が出た。その度に家と塀の間の小さな空き地に掘られた防空壕に入ってはB29の爆音が頭上を通過していく何時間かを過ごした。
 家族は国民学校一年生の私と四才の弟、浪人中の父の三人だった。ほんの二十日ほど前に母と赤・Vの弟を病気で失ったばかりだったが、人が死んでいくことは日常的な出来事だった。あちこちの家に戦死公報が入っては「おめでとうございます」と挨拶されるような狂った世の中だったから。
 夜になると何を思ったのか父が「靴を買ってやろう。」と言いだした。私達一家は灯火管制の敷かれた真暗な道を曽祢の商店街へと出掛けていった。
 靴屋の店内はガランとしていて数個の箱があるだけだったが、父はその中からやっと私に合う靴を見つけて買ってくれた。茶色の豚皮で足の甲をベルトで止める可愛い形の靴だった。私の履いている布靴は粗悪なゴム底のためひび割れていたから、父はそのことを気にしていたのだろう。靴が手に入った親子は久しぶりに豊かな気分で家路についた。
 その真夜中、父のするどい叫び声で目をさますと空襲警報のサイレンとB29の爆音が同時に飛びこんできた。せかされるままに防空頭巾を被り買ってもらったばかりの靴をはいた。B29の轟音が頭上をおおい、ザザーという豪雨のような音が飛び交う。恐ろしさに足が前に出ない私に向かって、「逃げるんだ!」と父は私の手を引っぱって走りだした。照明弾が炸裂すると、街中が昼間のように明るくなった。焼夷弾は何十本も一かたまりになって落ちてくる。それがなだれ込むように落ちてくると同時に家並から火の手が上がった。
 私達は防火用水で頭巾を濡らすと火と火の間をぬって闇の方へ闇の方へと逃げていった。
 高向の踏切を渡ると道が左右に分かれてる。逃げる人達はつかれたように一様に左へ曲っていく。父も人々の行く方へ曲ろうとしたが、私は理由もなく「こっち、こっち!」と父を呼び止めて右へ曲った。左は宮川の河原に続く道。右方には日赤病院の大きな建物が建っていた。病院を廻りこんで裏手に出ると広大なとうもろこし畑だった。
 「ここはなかなかいい。」と父はいい、弟を背中からおろした。焼夷弾が落ちるたびにあたりの風景が浮かび上がる。あまり遠くないところに宮川の河原があり、そこにひしめいている人々が見えた。人が群がっているところをねらって焼夷弾を落とすのだろうか。河原で悲鳴が上がった。今逃げてきた方角を眺めると台形や三角形の形をとどめたままの家並が真赤だった。空はいつ見た夕焼けよりも赤かった。
 「家はもうないかも知れない。しかしみんな無事でよかった。ここは全くいい場所だ。私達は神様に守られてるねえ。」と父はいい、私達を両脇に抱きかかえてくれた。
 父は二年前、兵士になることを至徳とする教育を拒んで教師をやめ、祈りの日々を送っていた。人間の生命の重さを知り、英米と戦うことの愚を知る日本人の一人だったと思う。
 太陽が昇ると、火の手の鎮ったのを見て私達は街へもどった。昨夜逃げてきた道を逆にたどっていくと、家々の残骸がるいるいと続いて、まだくすぶっている。真夜中に見た真赤な家並の最期なのだった。
 彼方に田中病院の建物が何の遮蔽物もなく建っていた。「あっ!残ってる。」私は急に元気が出た。私達の住む町は病院の後側にあったから。病院前の通りを境にして商店街側は一軒も残っていない。勿論昨夜靴を買った店もなかった。
 「靴屋さんがないよ!」 「私達が最後の客だったねえ。この靴は昨夜のうちに買われて助かったんだよ。」父はしみじみ言うのだった。
 三人は焼け焦げた匂いのただよう商店街跡に立って真夏の空を見上げた。さえぎるものがなくなった街の上に、いままで見たこともない大きな空が広がっていた。
 焼け跡は何も彼も赤く変色していた。赤い土、赤い瓦、赤いトタン。がらくたの赤い風景の上に灼熱の太陽が照りつけた。大人達は日陰の無くなってしまった剥き出しの街の中を泣きもせず喚きもしないで歩いていく。何の罪を犯したわけでもないのに罪人のように黙々と歩いていく。私は七才で幼かったわけだが、それでもあの日のことはよく憶えている。
 隣家の主人は人のいい商人だったが、「土壇場になったら神風が吹くんや。ここは大神宮さんの土地やでな。」と言っていた。それがおじさんの口癖みたいなものだった。
 何年も後になって、あれはおじさんばかりか日本人の大部分の信念だったと知ったわけだが、そのことの方が焼夷弾の火中を逃げたことより恐いと感じた。そこまでも人心を誘導しうる力を持つものを恐いと思った。
 (伊勢市 56歳)

氏名 勝田 清和
タイトル あっと言う間に終戦五十年
-広島原爆救護へ出動した思い出-
本文  昭和二十年一月海軍軍医学校を卒業、同年二月別府海軍病院に勤務を命ぜられ同期生二十名と着任、同年六月広島県賀茂郡黒瀬村(JR山陽本線安芸トンネル東口の近く)の賀茂海軍衛生学校に転勤し後輩の指導に当たっていた。八月六日午前八時から診療開始、患者の血圧を計ろうと聴診器を耳につけた時、ピカッと雷の稲妻の様な光を感じ耳にツーンと圧迫感がきた。あわてて耳から聴診器を外した途端、窓ガラスがガタガタとゆれ出した。地震かなと思ったら数秒後にドーンと火薬が爆発した様な音がした。一同の者があわてて外に飛び出して音のした西北西にある小田山(標高七一九メートル)の方を見たら、山の向う側に大きなポールの様な丸い煙がムクムクと上がってくるのが見え、それがだんだん大きくなり高く昇ってゆき、熱気球の様な形になってきた。午前十時頃に部屋に戻ると、軍医部長と薬剤部長が居られ、「今朝の爆発は火薬庫ではないと思われる。おそらくウラニウム爆弾を米軍が落としたものだと思う」と言われウラニウムの説明を聞かされた。
(日本でも当時核爆弾研究所が現北朝鮮の元山市にあったとも後に知りました。)
 昼頃に庁舎前に全員集合。学校長より中央司令部よりの命令の伝達が行われた。
 「今朝広島市に米軍によりウラニウム爆弾が投下され広島市は壊滅、陸軍の救護隊も作業不能により、海軍は救護隊を編成し広島市へ出動せよ。ただし、ウラニウム爆弾による放射能があるにより、一泊二日の交替編成をなせ。なお負傷者の殆どが重症火傷患者であるので、治療器具及び薬品は重症火傷患者治療を主として準備し出動せよ」と。
 私たちは直ちに、十二救護班を編成した。私は三班の班長に指名された。総合班長は牛場軍医大尉、私の三班は軍医候補生十二名、衛生兵三名の十六名編成となった。各班は早速火傷手当てに必要なリバノール肝油を一斗缶十五個、ガーゼ、三角巾その他の救護薬品をトラックに積みこみ、レントゲン撮影時に使用する放射線防禦服を着て、午後三時出発、市内に入るため猿又川を渡ろうとしたら、橋は全壊しており、市電の鉄橋を渡り市内に入った。道路の上や焼けた木の下に人間がバタバタと倒れているのを見つけた。車を降りて調べてみると、死体、死体ばかり、殆どの人が躰の露出部に三度以上の火傷が確認された。道路上の死体を横に移し車を進行させ京橋川にたどりつく。橋は全壊、市電の鉄橋もこわれて落下している。川の中に沢山の死体が浮いている。路上の市電が屋根は落ち窓は全部こわれていて中には死体、死体の積み重ねみたいになっており、調べたところ生存者は全くなし。広島の街の中心に近づくに従って、その状態が呉の場合の数倍になってきた。太田川の方にある産業会館の屋根の上が鉄骨が真っ赤になってムクムクと煙をあげている(現在の原爆ドーム)。果して生存者は居るのかと思いながら、レントゲン放射能測定器で放射能度を測定中、爆心地の陰と思われるビルの陰から多勢の人が現れ、「助けてー助けてー、水がほしい。兵隊さん水をくれー」と叫びながら手を振っているのに出会った。殆どの人が大火傷の状態、水筒の水を飲ませてやったら、嬉しそうな笑い顔をして静かな眠りに入っていった。
 放射能度の少ない所、爆心地の陰に当たると思われるビルのすき間に早速診療テント、救急処置テント、患者収容テントを張り、赤十字の旗を立てて救急診療を開始、テントの周りはまたたく間に数百人にのぼると思われる人、人、人。殆どの人が火傷三度以上のひどいもので、中には皮膚が外れて真っ赤な皮下組織が見えている人が多数、直ちに診療開始、リバノール肝油をその人の火傷の大きさに合わせ切ったガーゼに浸して張りつける。激痛を訴える人には鎮痛注射をした。次から次へと来る人、人でその処置しかできず、骨折とか打撲症等の処置は、後でするしかない状態だった。夜になる、電灯はない、持参した懐中電灯をたよりに、午後十時頃まで診察、救護班も疲れてこれ以上続かない状態、でも患者が次々と集まってくる。診療を止めるわけにはゆかない。班を二分して二時間交替で休息をとることにした。
 八月七日午前十時にまた総員で診療開始、十二時頃になって、持ってきたリバノール肝油の液が殆ど無くなってしまった。負傷者の人から早く診療してくれとの要望しきり。困り果てたあげく、収容テントを見に行ったら、何と何と昨日と今朝治療して収容した人が多数息を引取ってしまっていた。そこでパッと思いついて、死んだ人に張ってあったガーゼを外して集め治療に使った。交替班が来るまで、死亡した人を見つけてガーゼを外して他の人に張り、それのくり返し、やっと午後四時すぎに交替班が到着、申し継ぎをして帰路についた。その後、放射能障害による血液障害を先ず直すために、毎日、人参、ホーレン草、ゴボウ、大根等を生のままバリバリ食べて、週一回白血球数の検査をした。最初少し白血球数が増えたが、約一・五か月~二か月で正常にもどった。
 終戦後南方復員船の勤務につかされ、南方諸島を巡り、多数の人々に帰国してもらった。同年十二月二十日復員命令が出て自宅に帰り、現在に至っています。
(久居市 72歳)

氏名 井手窪捷誼
タイトル 原爆被災者の極限的惨劇
本文  私は、昭和二十年八月九日、長崎市へ投下された原爆被災者の救援看護に従事し、原爆による生き地獄をまのあたりにしました。その中で原爆投下に至らしめた戦争!!こそ、最も恐るべき根本である事を痛感しますと共に、平和というものの尊さを、心底思わずにはおれませんでした。
 以下、私の体験は、昭和十九年初頭当時の徴兵制度により海軍衛生兵となり、長崎県雲仙公園にありました海軍病院勤務を命ぜられた処から始まります。当時の国状の一端を記しますと、雲仙は温泉の熱湯が強力な蒸気と共に常に噴出している処や、又雨の日には、街の道路のあちこちから蒸気や泡が吹き出すなど風情豊かな温泉地で、高級ホテルや観光客の多い街でした。ところが、当時はその殆どのホテルが国によって接収され、海軍病院に様変りしていたのです。或る日入院していた傷病兵の一人が「お前たちはもう船に乗る事はないな、日本の軍艦は殆どやられたよ」と、声は周囲を憚(はばか)りながらでしたが、実感もって聞いたのを今も覚えています。
 そんな八月九日十一時二分、突如ピカッと一閃光(せんこう)が走りました。長崎方面へ目をやりますとキノコ雲がムクムクと、順次大きくなりつつ上昇しているのが見えました。翌朝は私たち衛生兵に「被爆者救援の為、至急諌早海軍病院へ出向する様に」と指示があり、私も早速かけつけました。長崎市外の病院や施設へも怪我人が続々送り込まれてきたのです。私は余りにも悲惨な被爆者に只々驚きました。
 頭も顔も胸も赤く焼けただれ、その一部の皮膚がはがれて垂れ下がった儘の人、左側からの爆風だったのか、顔から左半身が一面焼け、頭に卵大の穴が空き血が流れた儘の放心している様な人、顔も赤く腫れ上がり、胸も腕にも大小無数のガラス片が一杯刺さり動けない人、又顔や腕や胸など全面焼け、乳の皮膚がベロッと垂れ下がり、全身小刻みにぶるぶる震えている二十才前後の娘さんなど、実に痛ましい人々が毎日送り込まれ、どの病棟も廊下も足のふみ場もない程になりました。そして、のどが大変渇くらしく、病床のあちこちから「兵隊さん、水、水」と小さい中にも必死に求める声に、私は本当に胸しめつけられる思いでした。
 又無意識の様な状態の中から、「お母さん、お母さん」と、懸命に呼んでいる子供や娘さん、そうかと思うと子供を呼んでいるかの様な母親らしい人。尚恋人なのか若夫婦なのか「○夫さん、○夫さん」 「○子さん、○子さん」など、うわ言の様に呼ぶ切ない声、私は可愛想で可愛想で、呼んでいる相手の人に成り代わり、返事をしたり、手を取って上げたりしたものでした。ところがそれで安心するのか、事切れる人がよくあり、やるせない心境で一杯でした。
 又時節が暑い夏の事です。間もなく、何とあの「うじ虫」が、包帯の隙間のあちこちから、うようよ出たり入ったりしているのです。いや耳の中、鼻の中、目にまで、固まりになって這っているのです。ところがそれを自分で取ろうとする人は誰もいないのです。実に憐れでした。本当に悲惨でした。私は鼻を突く悪臭の中で、人間の極限的生き地獄を見る思いでした。そして尚どこの誰だか分らない儘、沢山の人が息絶え、文字通り死人の山が毎日できたのです。私はあの一瞬の閃光によってこれ程までの惨劇が、と只々驚愕するのみでした。
 そして八月十五日、終戦の日を迎えるのですが、米軍は早速日本に上陸し、諌早病院へも進駐して参りました。私は勝者の誇りに対する敗者の惨めさを、侘びしい中で痛感しました。特に街の子供たちは、物不足の中で育ってきただけに仕方のない事でしたが、チョコレートやガム欲しさに、アメリカ兵に物乞いをする。アメリカ兵は、犬猫にでも与えるかの様に物をくれてやる。私は益々、敗戦の悲哀と屈辱感をどうしょうもありませんでした。
 本年八月六日の中日新聞社説に「戦争は必然的に狂気と非条理を生む」とありましたが、当時の惨劇を今思い出し、全く同感です。
 従いまして、既に広島級の何十倍もの破壊力ある原爆が開発されているという現在、愈々(いよいよ)核兵器廃絶は絶対でなければなりませんが、それにも増して恐るべき根源こそ、人類間の争いであってみれば、私達は戦争のない平和で高度な文化世界を、どうあれば築く事ができるのか、道は遠くても必ず到達しなければならない二十一世紀の最大目標であり課・閧ナある事を、被爆者看護の体験の中から痛切に思わされています。関係した沢山な犠牲者の冥福を祈りながら私の記と致します。
 (津市 71歳)

<引揚げ・抑留>

氏名 山下ソメノ
タイトル かえり船
本文 ♪夢は今も巡りて 思い出ずる故郷♪
 いつの日か、人は帰ることを願って止まないのが故郷でしょう。同じ日本人の中にも、二度と帰ることはおろか、見に行くことも大変困難な故郷をもっている人達もたくさんいるのです。引き揚げ者……それが私達です。戦火に焼かれて、焼け野原にほうり出された人達と同様に何もかも無くし、加えて祖国に帰りついても、日本人としての市民権すら得られなかったのです(国を出たものの宿命といえばそれまでですが……)。私は朝鮮三十八度線以北、元山(げんざん)で生まれました。確かに内地の方の言われるように、比較的恵まれた生活をしていたのは事実です。それが、日本の占領と搾取に根差していることを知るのはずっと後のことでした。
 殖産銀行元山支店に勤務している時に私は敗戦を迎えました。同時に預金の払い戻しが目立ってきて、資金不足を補うために、支店長自ら(若い男子行員は召集されてしまい、残っていたのは高年者と女子行員、朝鮮人行員だけだった)海軍機に乗り、ソウルの本店まで資金を取りに行かれました。そのまま戻って来なくても仕方ないくらい危険な状況だったのに(本店でも「戻るな」と言われたそうです)、本当に命をかけて在留日本人のために、戻って来られました。そして無事、払い戻しも済み、ほっとしたのもつかの間、今度はロシア人が上陸して来ました。いち早く情報を手にした官・公・署の人々はその頃には韓国へ逃げ去った後です。裸足で、軍服とは名ばかりのわかめのような服を纏い、毛むくじゃらの腕には、略奪した腕時計をズラリと付けて……日本人の抵抗を予測してか、そのような最初に上陸してきた兵士は、弾除けの囚人達だったそうです。従ってやることは略奪と暴行です。女性は女性であることがバレると、容赦なく暴行されました。板など打ち付けてあってもそれを剥がし、夜になると女を出せと上がり込んで来ます。私も顔に靴墨を塗ったり、床下に隠れたり必死で逃げました。朝鮮人も踏み込んで来ます。「朝鮮で儲けたもの皆置いてけ!裸で帰れ!」と言いながら、欲しい物は皆持って行きました(それは当然かもしれませんが…)。
 そのうちに今度は北方からの避難民が続々と元山に入って来て、学校等に寝泊まりしていたのですが、長い旅路で疲れきっていて、食べ物もろくにないところへ、コレラや発疹チフスが発生し、医者も薬も無い中、避難民の方々は次々と亡くなっていきました。朝鮮の十一月は、もう土も凍っています。スコップなんてもちろん無いので、手で掘って遺体を埋めるのです。当然深くは掘れないので、手や足が地上に出ている状態でした。民警隊の目を盗んでよく母とそこへ食べ物を運んだりもしました。そんな避難民の所へも、夜になるとロシア人が女を求めてやって来るのです。そしてジープに乗せて連れて行かれるそうです。
 子供をおぶって何里も歩き、お乳もあげられず、いつか背中で冷たくなっていた我が子を草の陰に捨てるように置いてきたとか、子供の泣き声でロシア人に見つかってしまうので、松の木に縛り付けて捨てて来たとか、集団脱出の悲劇もたくさん伺いました。
 そんな中、私達もようやく脱出の目処が立ちました。朝鮮人行員の方が、漁船にひとり千円で乗せてくれると約束して下さったのです。
 脱出の日は昭和二十一年五月十二日と決まりました。しかし姉がチフスにかかってしまい、家族皆での脱出が困難になってしまい、急遽私が妹を連れて脱出することになりました。私二十三歳、妹十二歳でした。決行の日、親子で水さかずきを交わし、両親達と別れました。夜十時頃海岸より闇舟に乗りました。他にもひと家族一緒でした。魚臭い船底に隠れ、息を殺していました。まだ小さい妹は、「お母ちゃんの所へ帰る。」と言って泣きます。それを怒ったりなだめたりしながら……そして何時聞くらい過ぎたのでしょう。上から三十八度線を突破したという声が聞こえました。そして海岸に上がったらオモニ(朝鮮人のお母さんの意)が迎えに来てくれて、暖かな部屋で真っ白なご飯とキムチをたくさん御馳走してくれました。この味は生涯忘れることができないでしょう。その時オモニが「日本に帰っても朝鮮人悪い人だと言わないで下さい。」と言われました。そう、悪いのはすべて戦争なのです。憎む理由もないのに人を憎み、罪も犯してないのに人を殺して。
 戦後五十年経ちました。五十年といったら、ひとりの人間が分別ある大人になる年月。日本にも分別ある大人になってほしいと切に願うばかりです。
 田端義夫氏の「かえり船」を聴いては、二度と戻れない海の向こうの故郷へ、思いを馳せる日々を送っています。(白山町 72歳)

氏名 奥野 秀和
タイトル 北朝鮮「平壌」の思い出
本文  もはや五十年の歳月が流れ、幼き頃の記憶は既に忘却の彼方へ埋没して、かすみ去るのみである。この辺で、ささやかながら抵抗して今一度、記憶を呼び戻してみたい。

 私達が朝鮮へ渡ったのは昭和十八年の事だった。その頃私の父は津市の「丁字屋」へ勤めていた。この会社は、その昔、呉服店から明治になって洋服部門を加え、順次発展して、戦争中は百貨店になっていた。
 当時日本国は朝鮮、満州(中国東北部)方面へ勢力を伸ばしていた。「丁字屋」も支店を朝鮮の釜山、京城(現・ソウル)、平壌、新義州等へ出店し、遂には本店をも京城へもっていったのである。
 戦争も末期をむかえた昭和十八年、北朝鮮平壌支店の充実をはかるべく、父は支店長として派遣された。
 私とすぐ上の姉と両親の四人で渡朝した。私はそこで幼稚園から小学校へ入った。
 妹が生まれたのはその頃だった。朝鮮で生まれたので「朝子」と名づけられた。年子でもう一人「繁子」と言う妹も生まれた。
 そうこうしている内に終戦。ここは戦場でないので全く実感が無かった。しかし終戦間際に現地で召集された民間人の兵士達が、戦後一旦家に帰りながら直後に再召集されてシベリアへ送られて行くのを、店の二階の窓の透き間から目撃した事があった。何百人かの兵隊が行進して、だれかの妻が必死に追いかけて来て、一言、二言、言葉を交わしている。切羽詰った状態を何とも言えぬ気持ちで眺めていた。その頃父は新義州へ長期出張中で我々家族と、はなればなれになってしまった。まわりの人達は手のひらを返す様な態度になり、住んでいた店舗の裏の幾部屋も明け渡しをせまられていた。当時北朝鮮はソ連に侵攻されており、日本人は軍人はもとより民間人も有力者は身柄を拘束されていた。父もそうなるはずだったが、知人にかくまわれて潜行し事なきを得た。しばらくして隠れて帰って来た父と再会した。ここにはそのまま住めないので、郊外のある建物の横に張り出した一畳程の石炭小屋、ここへ一家六人が転がり込んだ!横になって寝られないので皆、座ったまま寝るのである。ここで数か月を過ごした。父は日雇い労働者となってわずかな収入を得ていた。その次には一軒の家に日本人が数家族入っている所へやっと入れてもらった。しかしこの様な状態でいつまでも過ごすのは父も望んでいなかった。一日でも早く内地(日本)へ帰る方法を模索していたのである。内地へ帰らぬむねの誓約書が回って来てそれに判を押さされた。その内にヤミのトラックで三十八度線近くまで夜逃げする方法があるとの事で、父はその資金も、知り合いの日本人に内地へ帰ったら必ず返すからと、やっと借りて決行する事になった。
 ある日の夜、郊外のコーリャン畑に潜んで待った。やがてトラックが来て、荷台に他の何十人かと乗せられてある所まで到着した。それからはかなり大きな山脈を徒歩で越えねばならない。何日かかったであろうか?
 途中何か所かで、朝鮮人による私設の関所の様な所があり、それぞれ金品を巻き上げられるのである。その為わずかに用意された金も無くなってしまい、山の中で食物も無く幾日も歩かされた。皆が栄養失調状態でふらふらしながらやっと三十八度線を越えた。
 そこからは南朝鮮(現・韓国)で米軍の勢力範囲であった。わずかながら食糧もあたえられ、トラックで海の見える所まで運ばれた。そこでも乗船の順番待ちで何日かまたされたが、やっと引揚げ船に乗船出来たのだった。しかしその船内で妹の「朝子」は栄養失調で遂に亡くなってしまった。まともな葬式も出来なかった。お経を読んで海中へ流すのである。
 船は佐世保港へ着いた。我々はそこの援護局へ、母と下の妹「繁子」は病状が進んでいるので病院へ廻された。
 しばらくして母が我々の居る所へ帰って来たが、妹「繁子」は病院で亡くなったとの事だった。母自体も、もう一週間手当が遅れたら危なかった様で、栄養失調から黄痘が出て白眼は黄色くなり、足はぼんぼんにむくんで指で押すと、へっこんだまま元に戻らないのである。
 その後、残った私達はやっと郷里へ帰って来たのである。父はその後「丁字屋」へ復職し、約十年後やっと独立して小さな洋服店を開業した。私をどうにか跡取りに仕立て上げ、三十年程前に七十才で亡くなった。母は八十二才まで生き十年程前に亡くなった。あれから五十年、感慨にふけりつつ、改めて平和の大切さ、尊さをかみしめているこの頃である。
(津市 58歳)

氏名 小林 和代
タイトル 三十八度線を越えて
本文 今、考えてみると当時の私達は、難民だったのですね。
 その日は、丁度今日のように青い空が一杯の昭和二十一年九月十七日、北朝鮮の収容先鎮南浦(現・南浦)の米倉庫を後にして懐かしい母国内地への帰路に着いたのです。父は、軍人であったためシベリアに抑留され、母は、体が弱く病人として別行動で結局私は、姉二人と持てるだけの荷物をもって、二千人の人々と一緒に歩き出したのでした。二千人の列は、長蛇の如く続きましたが私達姉妹は、元気良く先頭の集団に、また乳飲み子のある人やお年寄りは、後ろになり内地へ帰りたい一心で一生懸命に歩きました。
 夜になると川の辺で野宿です。私は、薪を拾いに行き、姉たちは、石を集めて竃(かまど)を作り夕食と明くる日の食事の支度をするのです。食事と言っても、お粥か高梁(コーリャン)の御飯です。ささやかな夕食が済み、やっと横になれたかと思うと、現地の役人が、どやどやとやってきて荷物をひっくり返して目ぼしい物は、着ている服まで取って行きます。私が一番口惜しかったのは、父の軍服の写真を見つけると靴の下に踏みつけて破ってしまった事です。だから今残っている写真は、父の所だけ切り取ってあります。
 何度かこのような情け無い思いをしながら、来る日も来る日も野や丘を越え、川を渡り、苦しい茨の道を歩きました。途中力尽きて倒れた人は、そのまま、お墓も造れず、地名も判らない所に置き去りにされるのです。本当に惨い事ですが、皆自分が歩くのが精一杯で、とても人の世話など出来る状態ではありませんでした。
 こうして一日平均二十キロ位歩き、ようやく十五日目に境界近く迄辿り着きました。三十八度線を越すには、昼間は、ソ連軍に見つかるといけないので、山の中に潜んで居て、夜、月明かりを頼りに、とぼとぼと山道を歩き、やっと夜中に三十八度線の峠を越えることが出来ました。そうして着いた所が、青丹でした。ここでは、おむすびを一個十円で売っていましたが、私達には、そのお金がなく、最後まで大事に持っていた一度も手を通した事のない服と、おむすびを交換して食べました。
 こうして二日程滞在後トラックで開城へ行きました。開城では、広いテント村が出来ていて、方々から逃れてきた日本人が、収容されていました。ここには、一週間の滞在です。ここで別行動をとっていた母に偶然会うことが出来、その喜びは一入(ひとしお)でした。母は、鎮南浦から船で川を渡り、そこから馬車で途中まで行き、三十八度線を越えるときは、皆一列に並んで一本の綱に掴(つか)まって峠を越えたそうです。開城には、私達より四日程早く着いたため、再び親子別れて、先に出発して行きました。又テント村では、平壌時代の友達とも再会し、終戦後からここまでの苦労を話し合い、涙するのでした。
 瞬く間に一過間が過ぎ、今度は、貨車で釜山へ行きます。うす暗い箱の中で身動きもできない程ぎゅうぎゅう詰めでしたが、あの山道を歩いたことを思えば、感謝しなくてはなりません。三日程この貨車にゆられて、やっと釜山に着きました。釜山では、麦ばかりですが缶詰め御飯を項き、とても美味しくて一生忘れられない位感激しました。ここでは、一日海を眺めて内地からの迎えの船を、今か今かと待っていました。夕方になりやっと船が着いて、一同乗り込み、出発は明朝五時です。これで夢にまで見た内地に帰れると思うと、その夜はなかなか眠れませんでした。
 明くる日、目が覚めると、もう十時でした。船酔いしたのか、ふらふらで、やっと手摺りに掴まって甲板に出ると、どこを見ても海ばかりでしたが、頬打つ風が心地良く、すぐ気分も良くなりました。その時突然誰かが「見えたぞ、見えたぞ」と、遥か水平線の彼方にぼんやりとかすむ島影を見つけました。甲板にいた全員が、思わず拍手をしました。そしてその日の三時頃、博多湾の沖へ着きました。
 船では、一週間の検疫期間があります。博多の町を目前にして、お預けです。その間、演芸会が催され歌や踊り等披露され、又ある人は、開城のテント村の生活を歌にして歌い、皆の涙を誘いました。いよいよ昭和二十一年十月十八日、鎮南浦を出てから約一か月目に上陸出来ました。港では、「引き揚げ者の皆様永い間ご苦労様でした」とか「引き揚げ者を温かい心で迎えましょう」という貼り紙に傷心の私達の心は、充分慰められ目頭が熱くなりました。
 終戦後、敗戦国民として外地で貧しさに耐え、あらゆる精神的苦痛を乗り越え、日本人同志でも油断もすきも見せられない生存競争に月日を送り、やっと帰れた祖国での優しい言葉や文字に接し、生きていて良かったと実感したのでした。今、核実験に世界中の人々が抗議していますが、この地球上で二度と五十年前のような悲惨な戦争が起こらない事を願っています。
(桑名市 60歳)

氏名 谷口ますみ
タイトル 敗戦引揚げの苦難無事乗り越えて
本文  昭和二十年八月十五日ラジオの前で正座していた大人達の顔色が変わったのです。私達子供には放送の意味がわかりません。父から聞き敗戦を知りました。当時私は国民学校五年、満州(中国東北部)の地でした。この先日本はどう成るんだろうか、まして異国の地に居る私達日本人の身の上は両親がついているのに次々と不安が込み上げてくるのです。
 予想どおり半日の内に日本人と満州人の立場が一変してしまいました。十五日の夕方より襲撃が始まり、安全な避難場所を考える時間も無く、人里離れたトウモロコシ畠や洞(ほら)穴へ避難しました。犬の遠ぼえは勿論、風の音、虫の音までが不気味に感じ、恐怖の余り幼い弟妹達も口を噤(つぐ)んだままでした。その内ソ連兵までが侵入してきたのです。主な建物等もすべて乗っ取られてしまいました。
 昼も家外に出る事が危険になり、レンガ建の家を厳重に戸締りして、家中にタンス等で隠れ場を作り、貴重品は天井裏、床下に隠し閉じこもる生活が始まったのです。ソ連兵は夜になると銃を持って主に若い女性を捕えにくるのです、遊び相手にするためです。ラジオ、郵便など外からの情報は全くとぎれ、ただ身を守る毎日でした。神社が壊された時は御神体が足で踏みにじらたとの事、歯がゆい思いでした。
 やがて二十年も暮れ、二十一年七月になりました。子供達の教育の事も心配になり、日本への引揚げを決意しました。引揚げ証明書を手にすると、今日の中に引き揚げろと命令され、短時間でリュックに必要品を詰め、衣類は一枚でもと重ね着して、「おにぎり」を作るのがやっとでした。日本人が引き揚げる事を聞きつけると、家主がまだ居るにもかかわらず、入り込んで目の前で土地、家、家具の奪いあい。私達は追い出される様にして我家を出てきました。
 すでに三十八度線が引かれ、朝鮮を通っての帰国はできません。汽車に乗ったものの果して無事日本へ帰れるだろうか、不安な気持ちでうとうとしていると、汽車が急停車したのです。これより先は線路が破壊されているから、汽車から降りて歩けとの事、真夜中それも知らぬ地、直ぐに動く事もできず夜明けを待ちました。知らぬ山道は迷いやすいし、危険も多いとの事で、線路伝いに歩く事になりました。線路の石で靴の底がボロボロに破れ、足の痛みを堪えて歩きました。
 ある所まできた時、鉄橋を渡る事ができず、そこからは満州人に襲われる事を覚悟で山道に入りました。もし家族が散らばる事があっても二人が一体に成って手を放さない様にと、姉十五才は妹二才をおんぶ、兄十三才と弟七才、私十一才は妹九才、父は弟五才と妊娠九か月の母の手を握り、皆が黙々と収容所のある方角めざして歩きました。夜は野宿、持ってきた食糧も心細くなり川の水を飲んで飢えを凌ぎ、途中山の中で三度襲われ持っていた金、品物はほとんど取られました。
 幸い身体に害を受ける事なく、何日歩いたでしょうか、汽車の通っている駅を見つけました。直ぐには乗せてもらえず三日程広場で野宿、その間にも残り少ない品をせびられ、今度は子供をくれないかとの事、怖くなって隠れました。
 やっと私達の乗る貨物列車がきました。屋根がありません。戦時中に日本軍が軍馬を運んだ車とか、中には馬のふんが固くなって残されたままです。途中夕立にあい、雨でふんがやわくなり足がめり込んでいくのです。夕立の去った後陽が照りつけ、ふんの臭が一段ときつくなり気分が悪くなり、妹も一時意識が無くなり死ぬ寸前でした。十日余りかかってやっと奉天(現・瀋陽)の収容所へ辿りつきました。
 既に三百人余りの人が帰国する日を待っていました。元日本の鉄工所あとで、鉄板の上に荒ムシロにくるまって転寝(ごろね)ですが、今日からは屋根の下で、満州人やソ連兵に襲われる事なく、安心感と十日余りの疲れで皆死んだ様に寝入りました。
 食事は二食、コウリャン(キビ)やトウモロコシのおかゆ一杯と水。空腹は勿論、身体には「しらみ」がわき栄養失調、赤痢、コレラで次々と倒れ亡くなっていきました。髪の毛が遺骨代り、後は大きく掘られた穴へゴミ同様に始末され無残なものでした。
 六十日余りの収容所生活も私一家「九人」は無事堪える事ができ、コロ島より引揚げ船にのり込みました。母は乗船して女児を出産、母は助産婦でしたので必要なお産道具をリュックの底に隠し、自分のお産に役立てたのですが、あの子は産声をあげる元気もなく、私達の八人目の妹としての仲間入りができませんでした。
 オーイ、日本が見えてきたぞ、その声に先を争って甲板に、涙が止めどなく流れる。七月に家を出て、九月博多へ上陸、父が築いた財産は消えたが、それ以上の宝を持って帰国できたと父は言いました。その「宝」とは私達一家九人が無事帰国できた事です。
 天国のお父さん、お母さん、早いもので戦後五十年を迎えました。引揚げの時は私達を守って下さってありがとうございました。
 あの時の苦労がどんな困難にも負けぬ精神力を私に備えてくれました。私も六十一才になり元気で頑張っています。二度と戦争をくり返す事のない様に、平和を祈りつつペンをおきます。
(阿児町 61歳)

氏名 岡野すてゑ
タイトル 遥か満州(中国東北部)の地に眠る我が母と我が子
本文  昭和十五年四月満州北安(ペイアン)省海倫(ハイロン)県の警察官として勤めていた主人の元へ渡満しました。昭和二十年四月に次女出産のため、日本から来てくれた母が、六月に帰る手続きを取りましたが、軍人の家族優先で帰国することが出来なくなりました。
 八月十五日終戦、この日を境に満州での私達の生活は一変してしまったのです。その日の夜から銃声の不気味な音が響き、満州人がウロウロと官舎の廻りをしています。満州警察より主人に呼出しがあり、何日待ちわびても帰ってきません。そのままシベリアの捕虜となってしまったのです。母と四才の娘、それに四か月の乳児と私の女だけの家族となってしまいました。
 その年の十月の始め、突然一時間以内に官舎を引き揚げよとの命令、おむつ、子供の着替え、母にリュックサックを背負ってもらい、身につけられる物は総て身につけ、やかん一つ、鍋一つ、これが私達の全財産となりました。官舎の同僚の家族二十組が、二列になって、海倫の官舎を後にしました。その道中、満州人が柄の長い草刈り鎌で、私達の持ち物や子供を攫(さら)おうとしている。私と母は、四才の長女を真ん中にして、手をしっかりと握りしめ、一時間以上もかかって海倫駅に着きました。屋根の無い牛馬専用の貨車に、すし詰めで乗せられ、三時間ほど経った頃、貨車が急停車させられて、ロシア兵に、婦人を二人出せと要求され、出さなければ貨車は動かさないとのこと、四方は見渡すかぎりの草原です、勇気の有る婦人が二人犠牲になって下さり、無事貨車は発車する事ができました。その後ハルピンに寄り、二晩すごしました。
 収容所といっても日本の小学校跡でした。土間の上に、ぎっしりと詰め込まれ、家屋の戸や窓は壊され、風雨が部屋に吹き込んできます。中国東北部は冬の到来が早く、秋から冬へ、急転直下です。燃料はなく、食料も乏しいなか、海倫より持ってきた、カンパンで助かりました。ここでも夜になると子供を攫いに来ます。病人もぼつぼつと出てきました。
 その後、奉天(現・瀋陽)の収容所に移りました。奉天駅の近くで、日本人が住んでいたらしく、六畳ぐらいの部屋が十五あり、荒れ放題です。紙屑とボロ布を集め、敷布団を作り、親子四人丸くなって眠りました。やかん、鍋一つの生活が始まり、石を集めてかまどを作り、高梁(コーリャン)、とうもろこしを買い求め、お粥を作り、雪を解かしてその鍋でおむつを洗いました。今思えばゾーッとするが、命をつなごうと思えば汚いなどと言っておられませんでした。
 戦時中、威張っていた日本人も哀れなものです。病気になっても薬を買う金もなく、医者もいないなか、栄養失調に加え、疫痢、発疹チフス、麻疹(はしか)が猛威をふるい、毎日死人が続出しました。又なかには、満州人と結婚した人もいます。子供達もだんだん少なくなってしまいました。開拓団から逃げて来た家族の中には、子供が一人もいないのです。途中、満州人に攫われたと言っていました。若い女性達は、丸坊主になり、顔に炭をつけ、ロシア兵から逃げていました。着ている物はシラミだらけで、日の当たる所でシラミ取りです。
 十二月に入り、長女の洋子が元気がなくなってきたのです。熱が高いので雪を取って冷やすが下がらない。十二月六日、娘は「お母ちゃん、あのお花取ってちょうだい」と言って、息を引き取ってしまいました。毎日ゴロゴロと死人が出、家族全員死亡した人達もいました。今度は私がひどい熱である。私の枕元で「お前は元気になってくれ、乳児を残されたらどうして生きていかれよう」と言っていた母も、ついに高熱に冒され、五日後の十二月二十五日に亡くなる、五十二才でした。
 私は収容所の皆様にお世話になり、一か月後に歩ける様になりました。乳児と二人いつまで命が有るか分からない中、日本に帰り、父と兄に母の位牌を渡すまで死ねるものか頑張ろうと思い直しました。郊外の草原の百メートル程の高い堀より投げ込まれた死体は無残にも総て、裸のままである、それが日本人最期の墓となったのです。
 五月二十五日、海倫を出て八か月突然の引き揚げの命令が出る。二体の位碑と乳児を胸にしっかり抱きしめ、「お母さん、洋子、さようなら、いよいよ私達は日本へ帰ります、必ず又来ますからね」、言葉に表現出来ぬ程の淋しさとつらさで、後ろ髪を引かれるような気持でした。コロ島から船に乗り、六月一日佐世保港に着きました。下船した途端、十数人の婦人達が私達親子を囲み、「こんな小さな赤ちゃんを連れて帰ったのは初めてですよ」と、涙を流して喜んでくれました。その次女も今では孫を抱き、幸福に暮らしています。
  こんな生き地獄の様な体験は私達だけで、十二分です。地球上が戦争のない平和な世界になる様、祈る昨今です。
 (阿児町 77歳)

氏名 井本  孜
タイトル 吉林脱出から家族との再会へ
本文  敗戦当時、私の家族は新京(現・長春)の南の通陽県伊通に住んでいた。私は吉林市の吉林中学校に在学中で、寄宿舎生活をしていた。
 寄宿舎には新聞もラジオもなかったから、当時の日本の情勢については分からなかった。八月十八日午後N学校長に呼び出され、「治安が悪いので、このシャツを一枚ずつやるから、新京方面の者は帰るな。」と言われた。
 一年生だった私は、上級生と相談し、十九日早朝一緒に吉林市を脱出することにした。だが、親元へ帰れるかどうか不安だった。
 翌日吉林駅の近くで、N学校長に見つかったが、許して下さった。
 私が乗ろうとしていた列車には、荷物を持った中国人が何人も機関車の上や横に乗っていて、異様な光景であった。
 その当時、吉林から新京迄は四時間十分かかったが、この日はかなり時間がかかり、夕方新京へ着いた。駅の構内では、大豆の倉庫が黒煙をあげて燃えていた。
 汽車から降りると、上級生二人は自分の親元との連絡がとれたので、私に「君は好きなようにしろ。」と言って駅頭で別れた。
 一人ぼっちになった私は、前に一度泊ったことがあるKホテルへ行ったが、表のドアに張り紙がしてあったので、それを見てから東本願寺へ行った。そして、大勢の避難民の中へ合流したのだった。
 私は公主嶺経由で伊通へ帰るつもりでいたから、翌日この寺を出て新京駅へ行った。所が、駅の事務室には机や椅子が沢山詰め込んであって、構内は片付けられ、ごみが燃えている煙だけで駅員らしい人はいなかった。デマで不安だったが、いつ発車するとも分からない停車中の汽車に乗った。そして、次の日に別のホームの列車に乗り換えた。
 私が乗った客車は半分が貨車になっていた。夕方になると、その貨車の辺りが騒がしいので見に行くと、ドアが少し開いていて白系ロシア人の年配の男が自殺を謀り、胸の辺りからシャツが血で真っ赤に染まり、苦しそうに左腕で自分の体を支えていた。後で聞いた話によれば、その人は救出されたが、その間にその人の妻と娘は自殺していたそうだ。
 次々と新京へ到着するロシア人の兵隊達には、女の兵隊もかなり交じっていた。少し離れたホームには、日本の憲兵の一団がいた。その中の一人が女の兵隊に腕を捩(ね)じ上げられ、腕時計をとられていた。その人は無抵抗だったから、私は悔しい情けない思いで車窓から見ていた。
 次に、男の兵隊が一人来て、我々の客車の窓ごしに網棚の荷物を見て、よこせと言うのか「ダワイ、ダワイ。」と言ったが、無視した。彼等は、万年筆、時計、バンドを欲しがった。このようにして、私は三日三晩飲まず食わずの日を過ごしたが、空腹感は感じなかった。
 四日目の夜遅くなってから、我々の列車が動き始めた。私は寝込んでしまったが、二回目に目を覚ますと、列車は既に公主嶺に停車していた。隣の人に私の荷物をホームへ放って貰うように頼み、急いで下車しようとした。所が、暗闇の車内の通路には朝鮮人が何人も寝ていたので、怖々(こわごわ)気付かれないようにしてデッキへ出た。そこにも人が寝ていて降りられないので、ホームと反対側に拡げてあったアンペラの上を滑り落ちた。
 そして、列車の下をくぐり抜けようとしたら、運悪く自分のかけていた水筒を連結器のどこかへ引っかけてしまった。無我夢中で外し、ホームへ遮二無二這い上がると、間もなく汽車は動き出し、危うく命拾いをした。
 その後、放って貰った背嚢と風呂敷包みを担ぎ、知人の家を尋ねるために歩き始めた。所が、どこの家の窓ガラスにも中国とソ連の旗が張ってあり、所々、板が×印に打ち付けてある家があって、一層恐怖感を増した。それで、YさんやIさんの家でノックするのを断念した。途中で犬に吠えられた。
 しばらく行くと、銃剣を光らせた人と綱を持った人に挟まれ「日本人かっ。日本人かっ。」と怒鳴られた。私はとっさに「日本人です。」と答え、首筋を掴(つか)まれ、日本人居留民会へ連行された。そして、取り調べを受けた。
 その結果、運よく私の家族が前日に集団で公主嶺へ来ていることが分かり「明日連れて行くから。」と言われ、広い畳の部屋で大勢の男の人達の間へごろ寝をして休ませて貰った。その時、二十三日午前○時二十八分だった。そして、翌朝家族との再会を果たしたが、もし私が列車で寝たまま南下していたら、と思うとぞっとする。全く奇遇という外はない。
 中国残留孤児の一人にならずに助かり、テレビで孤児の来日調査や色んなことが報ぜられる度に、私は涙が出てくる。この人達を育ててくれた中国人の恩義は決して忘れてはならないし、この事実を次の代にも語り伝えて行くべきであると思う。今の自分が、残留孤児の人達の何の力にもなっていないことを思う時、何だか申し訳ない気持ちがする。
(鳥羽市 63歳)

氏名 山下  郁
タイトル 遠き思い出
本文 私達が満州(中国東北部)に渡りましたのは昭和十三年の春でした。当時主人は当地の国民高等学校の副校長として赴任致しました。大志を抱き夢と希望に燃えての満州生活は実におおらかで楽しい日々でしたが、昭和二十年七月十四日突然主人に現地召集の令状がきました。外地に居ても、赤紙が来たからには仕方がございません。「日本男子征かねばならぬ」と勇躍出征致しました。常々強気だった主人もあの時ばかりはとても淋しそうでした。北満州の小さな駅で四人の子供を連れ見送りました光景は今でも私の脳裏から離れません。長女十一才、次女七才、三女は四才で、長男は二才になったばかりでした。日本の戦況が日増しに不利になり、身の危険を感じながら子供達と不安な日々を過ごしておりましたある日の事、日本人の方から「一刻も早く逃げましょう」との電話通達があり、それからが女手一つで大変な事でした。
 家財道具一式はそのままにして、とりあえずトランクにもしかして自決をするかも知れないと、その時のカミソリと子供達の晴れ着を入れ、僅かな現金と少しばかりの食糧を持って、駅に向いました。駅に着きますと北へ行く兵隊さん、南下する兵隊さんが群れをなしていて、しかも無蓋貨車で次から次へと運ばれて行く有様は丸で戦場の様でございました。私達も同じく南下する貨車に乗り込みましたが、立錐の余地もなく、人混みにもまれて泣き叫ぶ子供達の声は今も耳に残っています。私は日本の両親のもとに何としても無事に連れてゆかねばとの一心でした。最初に降ろされたのは通化市で、その時日本の終戦を聞き愕然といたしました。行き場を失った私達はさっそく二十畳の部屋に五十人も押し込められ、愈々(いよいよ)難民生活が始まりました。一組の蒲団に親子五人が寝る生活で、安眠出来なかった事を覚えています。昼間私と長女は、物売りをしたりして、とにかく生きる事に一生懸命でした。
 当時なかなか日本に帰れそうもなく、冬の到来を目のあたりにして物価は急騰するわ、持ち金は少なくなるわで大変心細い毎日でした。そうした時にロシア兵が進出してきまして、日本人の持物を略奪して行きました。特に腕時計が珍しいのか、両腕に奪った時計をいっぱいつけて喜々としていたのを思い出します。
 お金は盗まれない様に子供のおしめの中にかくしたり、又暴行から身を守るべく、皆で子供のお尻をつねって一斉に泣かせたり、全知全能をしぼって頑張りました。其の頃から不潔と栄養失調が原因で小さな子供から亡くなり始めました。ほとんどの子供は小児結核にかかって死んでゆきました。二才の長男も同様に亡くなりました。行き合わせた親切な日本の兵隊さんに炭を一俵買ってもらい、通化の丘で長男の亡き骸を火葬にし、お骨を日本に持ち帰りました。
 通化市で難民生活八か月過ごした後、翌年の三月奉天(現・瀋陽)迄南下する事になりました。それが又賊に襲われ、列車から降ろされた私達一団は、真夜中の荒野で月明りをたよりに雪解けの泥水に膝迄つかりながら歩きました。長女は自足で、次女は兵隊さんに肩車をしてもらい、私は三女を背おって、必死の思いで歩き続けました。やっとの思いで奉天に着くや否や、三女のユキ子を亡くしてしまいました。
 長旅の疲れと栄養不足が原因だったのでしょう、「お母さんリンゴが欲しい。お餅を頂戴」と云いながら、息を引きとりました。この子も奉天の火葬場に連れて行き、エフに「山下正夫三女ユキ子」と書いて、悲しい思いで置いて来ました。当時としては他にどうする事も出来ない事でしたが、遠い思い出に浸る度に自責の念にかられます。昭和二十一年九月日本の引揚船に乗り、待望の祖国へ帰る事になりました。
 やっとの思いで乗り込んだ船中では、大人も子供も嬉しさの余り大はしゃぎでした。あの時に喰べたすいとんの味は今でも忘れる事は出来ません。大竹港に入港し下船して、日本の大地に一歩足をふみ入れた時のうれしかった事、あの時程祖国の有難さを感じた事はありませんでした。毛布や食糧品、それにふるさとへの切符等支給され、満員の列車に窓から押し込んでもらって、熊野に辿り着きました。懐しの故郷に帰り、主人の両親に二人の子供を渡した時の嬉しかった事、勿論長男と三女を亡くした気持の重さはありましたが、両親の喜ぶ顔に私も肩の荷をおろし、お互いに涙に咽(むせ)んだことでした。
 昭和二十三年の秋主人がひょっこり帰り、夢の様な思いでした。三年半にわたるソ連での捕虜生活、しかも飢えと寒さの中での重労働の明け暮れ、聞けば聞く程、よく生きて帰って来てくれたものと思いました。主人の捕虜生活に比べれば、私達の引揚げの苦労等比べものにならないと思いました。
 今日の日本は平和と物の豊かさに恵まれ有難い事だと思います。これも先人達の努力のお蔭と感謝いたしております。四季折々の美しき日本をこよなく愛し、この平和がいついつ迄も続きます様祈らずにはおれません。
 主人も昨年八十六才で他界しました。私も今年八十才を迎え感謝の日々を過ごしております。
合掌
(熊野市 80歳)

氏名 高田久之輔
タイトル 重い十字架
本文  終戦一過間前、突然のソ連軍参戦は満州(中国東北部)に住む私達の生活を一変させた。その日、満州の営口市にあった我家でも父母が家中のあらゆるものを引っ張り出し、必要最小限のものだけをリュックサックや風呂敷包に入れ、他は親しい現地の知り合いに二束三文で譲っていた。その中には、母が内地から持参した高価な着物や貴金属類も含まれていた。暴徒が日本人街を襲うと言う噂の中、作業は気忙(きぜわ)しく進められた。昼過ぎ、一つ違いの兄と間もなく五才を迎える私は、一張羅の洋服、新品の革靴に着替えさせられ、背中には真新しいリュック、肩には水筒を下げて家を出た。もんペ姿の母の背中には生後一年七か月の妹が、そしてゲートルに国民服の父は大きなリュックを背負っていた。付近の空き地には私達と同じ出で立ちの顔見知りが大勢集り、やがて隊列を作って歩き出した。私は行き先も目的も分からなかったが、一張羅の服や革靴が、そしてリュックの「お握り」や「お菓子」が無性に嬉しかった。まるで遠足気分で浮かれスキップを踏んでいた。
 そうするうちに私達は何時しか大通りに出、やがて私達の集団は更に大きな集団に吸収されていた。ところが間もなく私達の遠足気分は吹き飛ばされた。軍用トラックが機関銃で威嚇を続けながら後方から迫ってきたのだ。二台、三台、……、私達の横を不気味な音を立てて通り過ぎるトラックの上から、毛色の違った兵隊達が何ごとか怒鳴っている。『早く歩きなさい!』母が言った。それからどれくらい歩いたか。道路の中央部分に小さな盛物が目立ち出した。一定の間隔で小山をなすこうした米や砂糖を私は幼心にも勿体ない……、という気持ちで眺めていた。そして数時間……、私も兄も徐々に疲れてきた。真夏の行軍は幼い私達
の肉体を徐々に痛め出した。「足がだるい……、リュックが重い……」。
 それからどれだけ経っただろうか。最早付近には建物はなく、広いデコポコ道だけが大地の彼方へと無限に続いていた。やがて夕日は傾き、私達の体力は限界に達していた。その時である。道路とは川を隔てた線路の彼方から汽笛が聞こえてきた。集団が急に騒がしくなった。列車は近付くにつれスピードを落し、そして停車した。機関士が何か叫んでいる!。『乗せてくれるらしい!……』、付近が歓喜に包まれた。ところが、この列車との間に大きな川が横たわっている。橋などない。すると父は突然リュックを背負ったまま、両手に私と兄を抱くと、ズカズカと川に入っていった。父は当時の人間としては大柄な方で優に五尺八寸(百七十五センチ)はあったが、その父ですら、川の中央部辺りでは腰付近まで水に浸った。
 私は父の首玉にしがみついた。対岸に渡った父は私と兄と大きなリュックをそこに置くと、再び川を引っ返していった。向う岸に残った母とその背中の妹を迎えに行ったのだ。残された私と兄は徐々に心細くなってきた。付近は既に夜の帳(とばり)が降り始め、周囲の喧騒に私達の幼い心は怯えていた。人々は既に列車に乗り始めている。濡れた衣服のまま我先に列車に突入している。私達の心細さは極限に達していた。その時である。私の隣で薄暗くなった川面を不安そうに見詰めていた兄が突然狂ったように列車に向かって駆け出した。そしてそこに辿り着くや短い足をステップに掛けようかともがき出した。大人達の僅かな隙間に自らの身体を割り込ませ懸命に登ろうとしている。私は驚いた。そして叫んだ。『お兄ちゃん、お兄ちゃん……。』しかし、兄は気付かない。尚もデッキへの挑戦を試みている。私は更に呼び続けた。やっと気付いた兄は戻ってきた。兄は薄暗くなった川面に父を見失い、極限に達した疲労と混乱の中で幼い思考が錯乱したのだ。父母や弟妹は既に列車に乗り込んだものと……。私はこの時の、必死の形相でデッキに足を掛けようとしていた兄の姿を今でも鮮明に覚えている。そして、思い出す度にゾッとする。兄があのまま列車に乗り込んでいたら、多分私達とは永遠の別れになっていたであろうと……。あの混乱の中で、一時と言えども離れ離れになれば多分両者は二度と再会することは出来なかっただろうから……。

 その後私達は、ある女学校の寄宿舎跡に収容され、母はそこで私達の弟・大雅を出産した。営口の官舎を追われて二か月、予定よりも一か月も早い出産だった。その弟も内地に引揚げ後、一才十か月の短い生涯を閉じた。
 昭和二十二年八月十四日、終戦から丁度二年目であった。栄養失調の幼い体は病に勝てなかった。
 弟の死は父母にとって一生背負わなければならない重い十字架になった。その父も十年前に弟のもとへ旅立ち、そして母は二人の供養に明け暮れる毎日である。
 (津市 55歳)

氏名 湊  章治
タイトル 北満州からの引揚げ
本文  私はシベリヤに近い満州(中国東北部)の開拓団で敗戦をむかえました。父親が双竜在満国民学校の校長をしており、当時私はその学校の尋常小学校の五年生でした。
 この体験文を書くにあたり、父湊多吉が書き残していた「双竜遭難記」を参考にしました。できごとの年月日や記述内容はそのまま書き写しました。私の体験文は父の文章のあとに〔 〕をつけて書いてあります。

 昭和二十年八月九日ソ連参戦。

 八月十五日午後、瀬川副県長から「駄目だ、戦争に敗れた。巴彦(バイエン)に移動の準備をなせ」との電話連絡あり。十六日十時頃、興隆鎮(シンルンチン)弁事務所の金鐘大氏が双竜に避難して「昨日十五日、日本は無条件降伏をし、その正午から青天白日旗が同街にひるがえる」と語る。午後二時五大老会を召集して討議す。「最後まで現地で死守しょう」と一決した。十七日、周辺に迫る○○の行動露骨となり、金品の掠奪はじまる。夕刻、元吟尓浜(ハルピン)満拓公社巴彦出張所長池月氏ら白旗を高く振りつゝ入団す。「十五日正午日本国は無条件降伏をなし、天皇陛下からは一人でも多く生き延びて帰国せよ」との大御心であると伝えられ、現地に屍をさらす決意をひるがえす。明日、双竜を引き揚げることにする。
 八月十八日開拓団との訣別。○○の金品の掠奪多し。警備員の弾丸つきる。午後四時、窪興村めざして離団する。
 〔本部の周囲の鉄条網ごしに、満州人が手に手に鎌を持って群がってきていた。母はゆで卵を薬缶に入れ、私に持たせた。持ち物を取りにくる満州人が満州警察に打たれて死ぬのをはじめて見た。〕
 八月十九日、朝八時窪興村を出発。竜泉鎮前の河は濁流矢の如き水勢、これを小舟と筏で数名ずつ渡る。有為の青年小伊豆君を濁流に失なう。二十日、昨夜は竜泉鎮街に仮泊する予定であったが、治安不穏とのことで、巴彦まで夜間直行する。二十日の早朝から十時頃までに極度の疲労と飢えに堪えぬき、五百余名巴彦の満拓会館に辿りつく。
 〔暗闇の中、荷馬車の女の子供が誰かに奪われた。泣き叫ぶ何人かの子供の声、母親の子を呼ぶ悲痛な声を聞いた。明けがた妹を背負ったまま父親が、朝露のおりた道端の草をなで、手の平で喉を潤していた。〕
 八月二十六日、ソ連兵城内に入る。毎日数回拳銃や自動小銃を携行して会館に侵入し、金品を強奪した。若き婦女子を姦す。三十一日夕刻、湊多吉巴彦監獄に投ぜられる。九月一日、双竜団員の家族は元巴彦守備隊の宿舎に強制移動となる。十月十五日、城内ソ連兵は宣撫隊と交代して、八路軍入城す。男女の別なく市街地に出て、健康体は就労を許される。就労者全体の二三割。
 〔私たち子供も八路軍の飯炊きをした。薪割りや大きな釜で何百人ものご飯を炊いた。大きなカーザ(お焦げ)をもらって帰った。みんなで分けあって食べた。当時の八路軍は「回れ右」もできない、軍隊経験のない人達のようであった。〕
 昭和二十一年の新春に入り寒さも一段ときびしくなり、屍を西門に埋葬することが多くなった。四月中旬、不潔にして狭い住居と新鮮なる野菜の欠乏とは耐病性を極度に低下させた。これまでに約半数の三百余名が死亡した。
 〔隣に寝ていた奥さんが亡くなり、体温が下がると虱(しらみ)がぞろぞろ這い出してきた。一日に何人も死人を西門に葬った。すぐ野犬が掘り出し、雪の上を引っぱって逃げ去る。なす術もない場景であった。〕
 五月末日、ソ連軍に抑留されて居た、湊多吉が同行の大屋氏を失いて単身帰団する。七月中頃、三重県出身の在哈県人会長沢田佐市氏等の尽力により、差し当たり奥地からハルピンまでの引き揚げ資金にと、十五万六千円という莫大なる義捐金が集められた。同月二十八日湊と二青年でそのお金を受けとる。
 〔当時の恩師沢田寿江先生は現在宮川村江馬でご健在、先日私に戦後五十年もたつと引き揚げ当時お世話になった方々のことも忘れがちである。関係者と相談して沢田佐市氏のお墓参りを、あなたと一緒にしたいと話された。私も亡き父に代って当時お世話になった方々の墓前に額突きたい。〕
 九月十七日ハルピンを出発、十月十七日佐世保収容所着。同月二十日佐世保駅出発、二十一日午後二時松阪駅着。
 〔戦後五十年、北満州の地での犠牲者に対し御霊安かれとご冥福を祈ります。〕
 (紀伊長島町 61歳)

氏名 中岡 準治
タイトル ヴエンキの森の中で
本文  草刈りの季節が終わり、昭和二十年十月末、二百余名の俘虜はウスリー草原を後にした。軍用トラックを連ねて何日か走り続け、ある日突然山の峰で降ろされた。ウオロシロフ南部・ヴエンキ山中道はそこでとだえており、冷たい秋雨の中で焚火をした。あまりの空腹に蝸牛(かたつむり)を焼いて食べた。眼下に茫々と森が広がり、私は寂蓼(せきりょう)の思いに胸が塞いだ。冬が迫っていた。大将(カマンジール)が急いで越冬用の家を造れと言う。十人程の班に分かれ、約五坪を一米掘り、中央に通路を更に半米掘り下げ、それに頑丈な屋根を組んだ。屋根には芝土を切って敷き、その上を更に土で覆って半洞窟家屋が出来上った。が、凍土が乾くまではまるで冷蔵庫だった。すぐ冬が来た。朝日覚めると、枕元の水が氷になっていた。
 ドイツとの命運を賭けた戦いでソビエトは疲弊し、食糧や衣服の支給は極めて乏しく、抑留中の死者や病者はこの冬に集中した。私も栄養失調と肺炎で危うく失命するところだった。が、この半洞窟にはウスリーの草葺小屋にはないささやかな団欒(だんらん)があった。ストーブでスープを沸かし、松明で真黒に煤(すす)けながら、私達は僅かな食事を楽しんだ。雑穀の粥(カーシャ)は水増ししてゆっくりすすった。耳掻きのようなスプーンを作った者もいた。食後はうまいもの話に興じた。それは何度聞いても魅惑的で、私達は想像を膨らませて飽きることがなかった。けれども、話の終わる頃にはもう腹が減り、腹の存在が恨めしくなり、せんかたなく私達は泥のように眠った。
 仕事は伐採だった。監視兵に率いられて薄明の凍てついた道を行き、二人一組で斧(タボール)と二人用の鋸(のこぎり)を持って山に入る。相方の今村さんは私より五つ年上の二十五歳、細い目が吊り上がり、頬骨の出た人の良い相貌(そうぼう)で
がっしりとして力自慢だった。今村さんがこんな述懐をしたことがある。「俺は島原の水飲み百姓の息子だ。米の飯は盆と正月くらいで、年中芋と雑穀ばかり食っていた。子供の頃から力仕事をしていたから、こんな生活も伐採も俺はさほど応えないのだ。」……けれども今村さんには暗い陰は微塵(みじん)もなかった。時折面白いことを言い、細い目をいっそう細くして、一人で悦に入っていた。
 伐採のノルマは二人で六リュウーベである。二米に切った木を高さ一米余、長さ三米余に積むのだが、私にはそれは過重な労働だった。殊に運搬は生来非力な私は苦手だった。今村さんはそんな私をいつも助けてくれた。先ず今村さんが細い方を持ち上げ(太い方から持ち上げるのが普通なのだが)、私に肩を入れさせる。そうして前に回り、太い方を持ち上げて担ぐのだが、真ん中寄りを担ぐから、三分の二を今村さんが担いでいる格好だった。が、伐採は力もさることながら条件が物を言う。斜面で樅(もみ)の立枯れのある場所が最高なのだ。転がせば済むし、樅の立枯れは堅木の三分の一の重さだからだ。だから皆必死になって場所とりを競った。私も懸命に走り回って「いい所見つけたよ。」と、今村さんを呼ばうのだが、今村さんはいつもあまり条件の良くない所を指差して「あすこがいい。」と言うのである。ある時たまりかねて文句を言うと、今村さんは真赤になって怒り出し、「お前のような奴はたたき殺してやる。」と、斧を振り上げた。私は泡を食って雪の中を逃げ回ったが、すぐ二人共へたばって焚火の前に戻った。今村さんはたぎる湯に頭上の松葉をむしり取って入れ、「飲めや。」と、ばつ悪そうに言った。私は神妙にすすった。
 伐採の帰りに雪中に倒れている馬を発見したことがある。その時は監視兵がいてどうにもならなかったが、その夜今村さんは斧を持ち、大胆にも二重の有刺鉄線の柵を抜け、馬肉をとりに行った。見つかれば即座に望楼の銃口が火を噴くのだから、それは命懸けの荒業だった。やがて雪まみれになって帰ってくると、今村さんは事もなげに「焼いて食べな。」と、目を見張るような肉塊に岩塩まで添えて、どさっと私の前に置いたのである。後にも先にも、私はこれはど豪気豪勢な御馳走にあずかったためしはない。
 厳冬の後に森がざわめいて春が来る。太陽の所在も分からなかった鉛色の空が青空に変わり、すべてが蘇生する。今村さんは先ず楓(かえで)の樹液採取を伝授してくれた。冷たく甘いのだ。若草や木の芽が萌え出すと、これは塩漬け、これはお浸し、これは煮物と事細やかに教えてくれた。二人で森を這いながら、野蒜(のびる)をつまんで食べた時のことが懐かしく思い出される。
 私が大学で学んだことなど何一つ役に立たなかったが、野人のような今村さんが、厳しい生活の中で身につけた実学や行動力は、困苦の中で素晴しい力を発揮したのだ。先年、私は小さな教会の点在する美しい島原半島を旅したが、今村さんを訪ねるすべはなかった。お元気で暮らしておられるだろうか。
 (尾鷲市 70歳)

氏名 陰地 茂一
タイトル 我が半生
本文  ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、昭和二十年八月九日旧満州(中国東北部)になだれ込み、日本軍人等六十余万を、すぐ日本に帰すとだましてソ連国内に連行した。シベリアの捕虜収容所での苦しみは飢えと寒さ、過重なノルマ、それに加えて民主運動と言うソ連の権威をかさにきた同胞による重圧が苦しみを倍加させた。民主委員と言う迎合者たちに睨まれたら最後、激しい弾圧と時にはいわれのない重労働を課せられ命さえ失った。特に憲兵警察出身者は「前職者」と称され、罪人扱いだった。仲間たちは次々と死んで行った。生き延びるには自分を殺し民主運動に迎合するしかなかった。夕食後の貴重な休養のひとときは、反動ときめつけられた者への怒号とアジ演説の糾弾の地獄と化するのである。
 ソ連は日本人捕虜の送還は昭和二十五年終了したと発表したが、新中国が誕生すると、毛沢東・スターリン会談によって、日本人戦犯容疑者の中国への移管が合意され、その運命の一千名の中に私の名前が入って居たのである。
 中国東北部撫順市の「戦犯管理所規則」と言う貼り紙のある監房に入れられ、ガチャンと鍵がしまった時、目の前が文字通り真っ暗になったのを今でも忘れる事は出来ない。貧乏くじをひいてしまった、という絶望と自暴的な思いがわいてきた。しかし、翌日から日常の生活が始まってみると、驚くべき事が待っていたのである。ソ連のそれとは全く違う、奇跡と言ってもいい世界がそこにあった。暖かい白米飯と肉、野菜が食い放題、住まいは明るく贅沢にもスチーム暖房さえ通っていた。しかも労働は無し。しかし私達は、なぜこのような暖かい待遇をしてくれるのか理解出来ず、最初の一年程は反抗の連続であった。「殺すなら殺せ、
帰すのなら帰せ」と迫る者もいた。絶望と不安が自暴自棄に走らせたのだ。私は暴れはしなかったが、ただ黙りこくっていた。だが、どんなに反抗しても管理所側から返ってくる言葉は「よく学習しなさい」と言うだけだった、そして教えるものは主として日本の近代史ばかり。三十年後、当時お世話になった女医さんに再会した時「あなたは沈黙の反抗をしましたね。」と言われ、ああよく観察されていたのだな、と赤面する思いがしたものだった。
 歴史上どこの国も経験しない寛大政策を中国が行おうとしていようとは私達は知るよしもなかったのである。取調べ方法も、私達の経験と常識では判断出来ぬ事ばかりだった、自発的に自分の罪を自覚して認め発表するのを待つ、と言うそれだけなのである。拷問も威嚇も全く無い。これは大きな罠ではないかと疑っても見た時期もあったが、この驚嘆すべき温情主義、人道主義はやがて、ねじれきっていた、かつての精悍な兵士たちの心を動かし始めた。中国の人たちに与えた自分の罪がどんなに恐ろしい過ちであったか身にしみて知ったのである。
 この方針が時の総理周恩来の「戦犯の人格を尊重し罵ってはいけない。殴ってはいけない。今彼らに恨みを晴らしたら、その家族がまた中国を恨むだろう。それでは永遠に平和は来ない。我々は怒りを押さえ、気長に間違いを諭し、家族の待つ日本に返すべきである」更に「我々にとっては加害者であるが、彼ら自身は被害者でもある」という、罪を憎んで人を憎まずの崇高な考えから来ている事を後で知り、心の底から感涙した。
 六年たった一九五六年(昭31)中国の人から見れば、八裂きにしても飽きたらない罪をもつ日本戦犯に、特別軍事法廷は「不起訴」という驚くべき寛大な措置を下したのである。太平洋戦争に於けるBC級戦犯死刑者数は九七一名、新中国ではゼロであった。多くの被告は泣いた。命が助かったからではない、中国人民の寛大な処置への感謝と、自分が犯した罪の謝罪の涙だった。私自身、中国の愛国者二人をあの悪名高い七三一部隊へ強制連行したと言う罪をすでに告白していた。
 十五年ぶりの帰国となれば、様々な思いが去来した。命令だったのだから仕方がない、と言う思いは最後まで残ったが、戦争と言うのは組織者、命令者、実行者があって初めて成立するものである。私は憲兵下士官としてその忠実な実行者だったのである。侵略戦争と言うあの枠組みの中で、私の果たした役割とその責任は決して歴史の中から拭い去る事は出来ない。帰国し中年からの再出発は決して平坦な道のりではなかったが、困難に出会った時「死んだお前が何を言うとる!」と誰かがどやす。
 あの戦犯管理所での六年間の体験と感動がその後四十年の歳月を支え続けてくれたと言っても決して過言ではない。この膝の上に孫を抱き、古希と言われる年も越えた今、平和の尊さをしみじみと噛み締めている。最後に大きな声で叫びたい事は二度とやってはいけない、二度と騙されてはいけないと言う事である、そして人生の終焉(しゅうえん)が近づけば近づく程この思いは深く重くなってゆくであろう。
(熊野市 74歳)

氏名 恩田 正二
タイトル 戦後五十年の思いで
本文  昭和十四年十一月中国に出征。以来戦争終結まで中国で。満州(中国東北部)にて集結命令を受ける。
 八月十七日 奉天市(現・藩陽市)北陵大学にて全隊員武装解除命令をソ連軍より受け、武器を持たない兵士となる。陸軍病院の看護婦さんはじめ女性はすべて毛髪を切り男性に変装し、身を守るために必死であった。
 大学内では、不安の毎日であり、戦前日本から農家の方が満州開拓義勇軍に参加され、農場を営んでいた人達も北陵大学に集結せよと命令があり、勇気ある少年兵達は農家の人々の貴重品を地下二メートル~三メートル掘り起こし、その中に埋めるのを手伝ったりしてきた。そのときの貴重品等はどうなっているでしょう?
 八月十八日 千五百人単位で編成された兵士は、黒竜江を渡りソ連領に入り、石炭運搬用の列車に乗り、十五日間かかってチター市経由、炭坑村ボカチャチャー村に九月下旬到着、朝夕肌をさす寒さの中、捕虜収容所へ収容される。四つの角に高い捕虜監視塔があり、バリケードの中の二階建て木造校舎のような収容所での生活が始まった。共産国は「働かざるもの食うべからず」の言葉通り労働は厳しいものだった。
 昭和二十年九月末日 雪がちらつきはじめる。ポカチャチャー村は炭坑と煉瓦工場があり、白樺の大木がある山と山に囲まれた村で、交通の便は悪く、石炭運搬列車と馬そりの二つが交通手段に使用されていた。
 捕虜収容所には千五百人収容され、戦前の軍人階級の差別もなく捕虜は皆同等に扱われた。朝食前に人員点呼があり、朝食は馬の食料と同じ豆かす汁、昼食はあわのおかゆ、夕食はこうりゃんのおかゆと、まずいものであり、栄養失調で日本の土を踏むことなく病死する人が毎日数人あり。
 昭和二十年十月になり、炭坑で働く人と、森林伐採作業につく人とそれぞれ区別され労働作業に従事する。
零下五十度までは、野外の仕事を続け、外気が零下五十度以下になると休養を命ぜられる。外気が零下七十度以下になると眉毛がすぐ凍る。トイレは外にあり完全防寒着を身につけて行き、用便中すぐ凍ってしまう、この様な体験は南極探検隊でも経験できない状態であろうと思う。
 風呂は一か月に一回シャワーだけであり、シラミがわき、体は傷だらけだった。下着についたシラミは外気に当てると寒さで死んだ。
 昭和二十一年~二十二年 栄養失調でシベリアの土となられた方の死体を日本人墓地まで運び、火薬の爆破で穴を開け埋葬してきた。最近墓参りしてこられた方に伺うと、戦死された方の名前が書かれ、きれいに整備されている様子である。
 食糧事情も世界の赤十字団体の呼びかけにより、昭和二十年終りには、パン、ミルク、魚が支給されるようになった。
 昭和二十二年十二月 日本人捕虜百人で、村から五十キロメートル山奥に行き、山林伐採作業に従事した。山奥のため雪が多く食糧がとどかず、日本人は若草の芽を食べ、かえるを食い、キツネの肉を食べ、飢えをしのぎながら、食糧の到着を待ち続けた。
 十日過ぎても到着せず、私は馬二頭雪ぞりに乾草を積んで、十時間の道のりを警備隊長に食糧要請の話合いのため、山を下ろうとしたが、ソ連兵が必ずきつねか熊に襲われ、目的地に到着する事はできないだろうと、従来からの規則を破って、銃弾二百発入りマンドリン銃とピストルを与えてくれた。
 銀世界を走る中、キツネの目がきらきらと光り、五十匹位が追いかけてきた。そのとき乾草を燃やし、キツネを追い払い、また、熊に襲われた時懸命に銃で打ち殺し、目的地に走り続け警備隊長の所に到着。日本人、サムライと勇気づけられ、早速貨物自動車によって食糧が山頂に向かって出発。山頂の日本人は、食糧が届く事によって歓声を上げ、お互いの命を守り続けた。
 山の作業が終わり、炭坑作業になる。頭にも電灯をつけ、トロッコに乗り石炭を運ぶ地下作業が終わると、地上でパン、ミルクを支給され収容所に帰るという日課が続き、夜は雪景色、夜空の星を見ながら日本に帰る希望を抱き続ける兵士ばかり。その間共産主義教育を受けさせられ、突然帰国命令が兵士に伝達され、八月二十二日旅客列車にて、ナホトカ港に集結。日本船、大郁丸が日の丸の旗を上げて停泊している姿を見て、お互いに、日本へ帰れることを抱き合って喜びあった。
 乗船名簿順に、アメリカ軍に指揮され乗船、七百人班別編成後、大郁丸乗船隊艇団長にアメリカ軍から指名され、昭和二十三年十一月二十三日紅葉の美しい舞鶴港に到着、船の汽笛と共に甲板に出て、全員が一斉にバンザイを叫び、うれし涙が止まらなかった。九年ぶりに日本の空気を肌で感じ、三重県から迎えにきた兄と十二年ぶりに対面、暫(しばら)く言葉が出ず、オフクロの作ってくれたおにぎりを差し出され、心は両親に飛んでいた。
 二度と戦争の犠牲になる事のないよう、末代までの平和を祈りつつ戦時中の思い出の一端を記しました。
 (鈴鹿市 72歳)

氏名 川村 仁造
タイトル 私のあゆんだ戦中、戦後
本文 「入隊から終戦まで」
 戦中は兵役を義務化し、若者達を戦場へと駆り出しました。私も昭和十六年歓呼の声に送られて北満州の七七五部隊に入隊し、厳しい寒さの中、教練と軍人精神注入で扱(しご)かれました。一期の検閲も終り、腫れた顔の写真を家に送ると、よく肥えた顔を見て安心したとの返信でした。通信教育のため学校に派遣されて、その帰途新京(現・長春)の手前で列車の追突事故に通い、死傷百二十名に及ぶ大惨事でしたが、運よく難を逃れました。
 帰隊して司令部付になり通信教育を担当しました。夏は船で、冬は飛行機で各通信所を巡回していました。時々ソ連機やスパイが越境するので緊張していました。
 昭和二十年八月九日ソ連の宣戦布告を受けた関東軍司令部は、本土防衛の為各部隊に対して、吉林へ転進せよと命令し、これにより開拓団や在留邦人が見殺しにされ、何の為の軍隊かと非難の的になりました。国境の守備隊と通信所は、十日朝から砲爆撃を受け、上陸して来た数倍の敵と交戦するも、数時間後全員突入して玉砕したようです。撫遠通信所からの悲壮な電文「テキガキタコレカラゼンイントツニュウスル、ミナサンサヨウナラ」が届いた。
 富錦の木村大隊は陣地に配備し、砲爆撃の中、数十倍の敵と交戦し、肉薄攻撃等により戦車十輌余り破壊し、敵数百名殺傷する戦果を収めたが、我が方も多くの犠牲者を出し、弾薬や食糧も欠乏してきたので、十四日夜陰に乗じて脱出に成功して方正へと転進しました。同江の谷井中隊も方正への転進中、再三賊の襲撃を受けながら大隊と合流しました。木村大隊の善戦のお蔭で後方部隊は無事に終戦を迎えました。通信隊も方正に到着して間もなく、八月十五日終戦の詔書を傍受して敗戦を知り、暗号書や器材を処分しました。数日後の武装解除により、日本軍は崩壊しました。
「異国での抑留生活」
 ソ連の輸送官が来て、日本からの迎えの船が来る迄シベリヤで待つと言われて、百人一組で私が長となり出発しました。収容所に着き清掃をしていると、将棋盤と下駄が出て来ました。所長の話では数年前にノモンハンの捕虜が居たようです。
 十月が来ても帰国の話が出ません、皆が騙されたと騒ぎました。数日後作業場から八人が逃亡しました。筏で海に出る計画が、川が北に流れていたので捕らわれ奥地へ送られました。正月には皆が最後まで携行していた米と小豆でお萩を作りお祝をしました。この時期は食糧事情も最悪で稲のまま食べさせられて、血便をする者もありました。二月は寒さも厳しく栄養失調による死人が出だし、その都度埋葬していました。六月には一斉に草木が芽を出し、これを摘んで鼠や虫と共にスープにして満腹感を味わいました。附近に若い女囚の農場が有って顔を合わすと、パンと交換にと誘惑も受けましたが、空腹では花より団子の例えでした。
 二年目になると日本新聞が発行され民主化運動が始まり、非協力者は反動扱いにされていました。二年目に帰国さすからと、検査を受けましたが、情報通信をしていたからと更に奥地へと送られました。四年目の三月に帰国さすからと貨車に乗りましたが、又騙されるのかと疑いました。半月余りでウラジオに着き、住宅の建築をしました。補強材を使わないので監督に聞くと、地震が皆無との事でした。
 六月末にナホトカに行き、出迎えの信濃丸に乗り、翌朝舞鶴に着き、十年振りに祖国の土を踏み涙が止めどもなく出ました。
「戦友の亡霊を追って」
 舞鶴で帰国の手続きを終えて、引続き駐留軍の強引な取り調べには腹が立ち、敗戦国の惨めさを感じました。京都駅で兄と旧友の百々さんの出迎えを受け再会を喜び合いました。帰宅して仏壇に私の位牌の有るのに驚きました。母が朝夕私の無事を祈ってい
たと聞かされました。又戦死した旧友の仏前にお参りした際、息子の事を思い出してかお母さん達に泣かれて複雑な思いをしました。
 各地の戦友会に参加したが、国境に居た通信隊員の消息については皆無でした。入ソの際軍衣に戦時名簿を縫い込んでいたが、検査で没収されて悔やみました。この上は自分の記憶に拠るしかなく、長年かけて二十三人を思い出す事が出来ました。その後の遺骨は既に朽ち果てて、亡霊は彷徨(さまよ)い続けているような気がします。
 木村さん達の呼び掛けで、三江省方面での戦没者の慰霊碑を造るための浄財についての連絡を受けました。私もこの機会にと賛同しました。昭和六十三年八月九日高野山の奥の院に念願の慰霊碑が建立されて法要が行われました。その後、碑に過去帳の納められている事を知り、平成六年八月九日五十回忌を節目に島田(旧谷井)さんに隊員二十三柱を過去帳への記帳をお願いし、朝から合祀、法要とご冥福をお祈りしました。これで長年追い続けた亡霊も安眠されたものと思います。私も心残りが無くなり戦後が終った気がします。
 私の二十代の青春は戦争と抑留生活で過しました。どうかこのような悲惨な戦争を再び起さないよう切望します。
 北満(北満州)の荒野に散りし戦友の 御魂が眠る高野の碑
合掌
 (上野市 75歳)

<戦後の耐乏生活>

氏名 小林 つね
タイトル 戦後の物資不足
本文  今年もあの八月十五日が巡って来た。この平和に馴らされた私も、毎年八月になると、戦争中や戦後の苦しかった事を思い出す。
 八月十五日は滋賀県長浜市で迎えた。暑い日で珍しく、空襲もなく静かな日だった。配給のソテツのパン(ソテツの根や葉や茎を粉にしてパンにした物)を買うため行列に加わっていた。その味もそっけもない細長いパンをやっとの思いで手に入れて、家へ帰った時、父が「今から天皇陛下のお話がラジオである」と言う。家族がラジオを囲んで聴いた。小さなお声だったし、雑音ばかりで聴き取れなかった。でも戦争に負けたと知るのには時間はかからなかった。今買って釆たソテツのパンをかじりながら、シヨツクで涙が止まらなかった。「この日本があんな米英ごときに負けるなんて」と茫然としてしまった。きっと日本中の人が同じ思いだったと思う。
 その夜は久しぶりに、電灯の黒い布を外した。家の中の光が遠慮なく、外に輝いていた。痩せこけた汚れた家族の顔が並んでいた。でも不安であった。これからどうなるのか分からないのである。不安は的中した。
 あの辛い物資や食糧の乏しい戦後が続いたのである。戦争中も食糧は乏しかったが、勝つためにはと辛抱も出来たが、負けてしまった今の私達には、食糧難は苦しいものだった。
 食糧も日用品も配給制だった。ごく少量の南瓜(かぼちゃ)やいもや茄子などが、隣組に配給になり、それを組長宅で組員が集って、公平に分けるのである。一匁(もんめ)でも間違いのないように分配しなければ、みんなの目が光っているのだ。こんな思いをして配給を受けても、食糧の足しにはならなかった。
 そこで道端でも土手でも川のそばでも、土のある所は耕して、南瓜やいもや豆などを植えて食糧のたしにした。よごみ(よもぎ)やおおばこなど道端に生えている草は毒でないかぎり食用にした。稲をとび回るいなごは強力なカルシユウム源だった。たにしはご馳走である。醤油も砂糖もなかった。あらめと言う海草の漬け汁に少々の塩を入れて、醤油の代わりにし、サツカリンやズルチンで甘味をつけたのである。南瓜の種をきれいに洗って乾かしてすりつぶして、ごまの代わりにした。
 大人一人二合三勺の米の配給も遅配や欠配が続いた。仕方がないので少々の米にたくさんのさつまいもの茎や大根の葉を入れて、食べた。茶碗の中の米を探すのに苦労するはどだった。幸い父が畑を作っていてくれたので、少しは楽だった。或る日父が作っていたまだ小さいジヤガイモを全部とられた事があった。其の時父は「持って行った人もきっと食べ物がなくて因っているんだろう。可哀そうに」と言った言葉が忘れられない。
 欠乏していたのは食糧だけではなかった。衣料も日用品も煙草までも配給制だった。成人した男子は吸うていても吸わなくても公平に分けるのだった。祖父は吸っていたが、父は吸わなかった。或る日組長さんが父の分の煙草を自分の物にしてしまったのである。市の職員が来て、真相を正して、大騒動になった。それ以来父は煙草を吸うようになった。笑うに笑えない話である。
 着る物もなかった。衣料切符制だった。靴下が二点、タオルが二点、服だと何十点にもなる。仕方がないので、親の着物やマントをほどいてブラウスや上着やオーバーを作った。あまり上等ではなかったが、モンペをはかなくてよいだけでも私達の乙女心は満足だった。今では考えられない事である。
 電球もなかった。三か月に一回ぐらい電気会社で売り出された。十時から売り出されるのに、暗い間から行列が出来た。たった一個の電球を手に入れるためにである。
 戦争中鉄砲を作るために、供出したので、まともな鍋釜はなかった。久しぶりで少々のもち米が手に入ったので、おはぎをを作ることになった。ごはんをつぶす時、父があまり力を入れたので、釜の底がぬけて、皆が青くなった。釜はどこにも売っていなかったからである。しばらく苦労をした事が思い出される。
 石けんもなかった。風呂へいってもただこするだけだった。しばらくして石けんらしき物が出回ったが、泡の出ない石けんであまり美しくはならなかった。
 今ありあまるはどの食べ物・便利な器具・美しくて大きな家・楽しい娯楽・きれいな服、五十年前には考えられなかった生活をしている。私は思う。あの戦争で国のためだと心から信じて、命を捧げた兵隊さん、空襲で命を落とした何百万の人たちの犠牲の上での今の生活があるのだと。子供や孫たちにはあの戦争の苦労を味あわせてはならない。
 そして戦争で犠牲になられた方のご冥福を心からお祈りして、筆をおくことにする。
 (亀山市 68歳)

氏名 田中 泰代
タイトル 櫓を漕ぐ″かいな″は甲種合格
本文  終戦をタイ国で迎えた父が、抑留、残務整理と数々の任務を終え、帰国できたのが昭和二十一年八月の事。
 母は、せつない程に待ちこがれていた父に、
「あんた遅かったやないか、いままで何しとったんや。よその人は早うに帰ってきたのに。」
 父は、母のそばにいたあせもだらけの私を抱き上げて、
「女の子が生まれた言うてたが、汚い子やないか。」
 これが無事再会できた夫婦の、言葉だったそうです。
 この時の私は二歳でした。
 父は、出征前に働いていた愛知県の工場が戦災で焼失したのを知りましたが、途方にくれることなく、故郷である志摩半島の先端である鳥羽で漁師をしようと決心をし、再起に奮闘しました。
 夏場は鯛などの一本釣り、冬はボラ、コノシロの揚繰り漁がさかんで漁獲量のよいところです。気の強い父は、早く立派な漁師になって、家族が安楽に暮らせるようにと、人一倍頑張りました。さっそく知人から譲り受けた小舟を海に出し、しばらくは鳥羽湾内で小物釣りをしていました。装備など何もないちょろ舟を、海に向かって櫓一丁であやつり、力一杯漕ぎ、自分でさぐりあてた漁場に夜明け前にはたどり着くのです。舟が流されないように、左手で櫓を漕ぎながら、右手には希望を託した釣り糸のテグスを海に垂れる。釣り始めるころには空は白み、他の漁師がエンヤエンヤと、櫓を漕いでるのが見える。小さなちょろ舟で広い海を行くのは、根気のいる仕事、そのうえ足腰の踏んばり、腕、肩の強さが必要です。
 父のこの頃の口癖は、
「俺の体は甲種合格。お国の折り紙付きじゃよって、ちょっこらちょっとではへこたれんわい。」
 苦しい時、自分自身の体を励ましながら、初めて挑戦する漁師の仕事に、打ち込んでいきました。
 三か月がまたたく間に過ぎ、漁師たちがボラ漁の準備に追われる頃、漁業組合に入ることができました。網を二隻の船に乗せて海にでる揚繰り漁は、一本釣りとは違い、大勢の人数で一致団結をし、またそれぞれの役割があります。漁見小屋では常に潮のようす、魚群の確認をしながら、漁にでるチャンスをみる。父は先輩の漁師から、男らしく勇壮な揚繰り漁のありさまを聞くたびに、胸を躍らせたそうです。
 ゴム長靴にかっぱ姿で合図が町中を駆け巡ったのは、師走にはいりすぐのこと、
「ヤーイ、みんな出てきてくれ-、ボラやぞ-、ボラ獲りや-、ヤーイ。」
 父も身じたくを急ぎ、河岸まで叫びながら走った。
 二隻の船にはそれぞれ八丁の櫓がすえられ、ベテランの漁師たちが役割についていた。いまにも出漁というその時、櫓をかまえていた漁業組合長が、ひときわ大声で父を呼び、
「お-い、かわって櫓を漕いでくれ。」
父はそんな大役をと感激し、急いで船に飛び乗り、初めての大きな櫓に″かいな”をまわした。
「若いおまえの力で頑張ってくれ、頼むぞ。」
 組合長に背を押されたときに、何と答えたのか覚えがなく、とにかく必死で漕いだ。
 やがて鳥羽の平穏だった海は、父たち男の豪快なかけ声と、歓喜に満ちた叫びが響き、夜半に出漁したボラ獲りは、東の空が暁に輝くころまでつづいた。漁師だけでは人手不足なので、町中のおばあちゃん、子供まで河岸に集まり、捕獲されたボラの整理に追われ、一段と活気あふれてどの顔も、どの顔も皆、笑っていた。
 恐ろしくいまわしい戦争が終り、何もかも無くし、不安な生活の中での事でしたが、父や母にとっては、かけがえのない幸せな時だったと申します。
 あれから、幾たびも季節を越えて、歳月がすぎました。
 赤ん坊だった私も五十一歳になりました。今は亡き父の墓前に母と参り、母の語るつれづれ話に、まぶしさを味わいながらゆっくりとあいづちをうっています。
 現在、文明文化の発展は、とどまることなく進みますが、あの戦争を過去の一瞬の出来事ですませられません。
 戦争で苦しみ、その後は復興に努力惜しまず、頑張りつづけてきた人々のことを、忘れないで、今の世に感謝したいと思います。
 (鳥羽市 51歳)

氏名 森谷 悟平
タイトル 逆境の中から
本文  私は昭和八年生まれで男五人、女三人の貪乏人の子沢山の末っ子である。
 「ほしがりません勝つ迄は」 お金を出しても物の買えない時代だったので父母が工夫して兄達のお古を直してくれた物を使用した。兄が買ってくれた黒いランドセル、白いエンピツ入れ、三日月型した消しゴムは大事に大事に使った。当時は尋常高等小学校、のちに国民学校に改められた。
 空襲警報のサイレンが鳴ると急いで家に帰り防空壕に飛び込んだ。田日市、桑名の空襲は近くに火の手が上がったようでこの怖さは今も心に焼きついている。近くに小型爆弾四個投下され、中島飛行機社宅の一棟が吹っ飛んで直径五メートルの・鰍ェあいた。幸い誰一人犠牲者はなかった。川越南小学校のあたりの田んぼには不発弾、アルミ板、それをしばるハガネバンド等が散乱し、子供心にも空襲の怖さを知ったのである。
 新制中学に通う頃は少し落ちつき勉強もするが良く遊んだ。母親の残してくれた帯を利用してグローブやミツトを作り、川原で野球に夢中で家に帰るのは日が暮れる頃だった。「何時まで遊んでるのや」と親爺に怒鳴られながらも結構楽しい日々であった。私が十才の時母は過労が元で亡くなった。身体を酷使して薄倖な生涯だった。
 戦時中は考えられないことで、現在は三Kという言葉が流行し、「危険、汚い、きつい」を嫌う傾向があるが、私が野良仕事をさせられた頃は機械もなく全部労力だった。身体は小さいが力と根気とやる気だけはあった。それもこれも親爺が頑固で怖かったからである。今思うとこうした親のきびしさがあったからこそで感謝している。父は八十二才の天寿を全うし、眠るが如く往生した。元気だったころ私達に残した言葉は「食うだけなら犬や猫でも食う、食わず、着ず、寝ずに働け」と極端な衣食住の節約を説いた。真面目に贅沢しないで貯蓄を奨め、節倹は大きな収入と耳にタコの出来る程にやかましかった。
 昭和三十四年九月二十六日、私は皆に祝福されて結婚したその五か月後に幸福な家庭に大惨劇をもたらした伊勢湾台風である。天災は忘れた頃と言うが終生忘れる事は出来ない。暴風半径三百五十キロメートルという超大型だった。新婚当時は平屋建ての兎小屋からのスタートだったが私達にとってはかけがえのない愛の巣であった。会社から早めに帰宅し警防団の一員だった私は西も東も判らない妻を残し、後ろ髪を引かれる思いで朝明川の警備に当たった。風速四十メートル以上の風雨の中を五人一組になって肩を組み国道一号線朝明橋南にたどりついた。妻の安否を確かめるすべもなく高松地区は海になり屋根だけが見えた。車のライトに照らし出された人影は庭木に登った母と子の姿だった。私は思わず泥海の中へ飛び込んでいた。流木と泥油の海の中の松の木にしがみついているのは私の姉だった。乳飲み児はずぶ濡れで生きているのか確かめられない。自分一人の力ではどうする事も出来ない。とにかく手を離すことのないように励まし、姉とおんぶしている甥は同僚の応援を求めタイヤにロープを結びそれに掴(つか)まって引き上げる事が出来た。この命の恩人である松の木は当時中日新聞に写真と詳細が掲載され、一応私も感謝状をもらったのである。
 三重県災害史上空前の大きな被害で死者千二百四十六人、川越町では百七十三人、私の住む高松地区で十二人という最悪のもので海岸に近いということで高潮の恐ろしさを身にしみて体験したのである。満潮時と高潮が重なり海岸の堤防が決壊し、大惨事を引き起したのである。妻も畳がふわふわ浮き出したので外の庭木をつたって屋根に上がり棟にしがみついて居ったというが、その時の一人残された妻の気持を思うと私は公職とはいえ申し訳なく無事だった事が何よりとつくづく思うのである。たくさんの嫁入道具をこしらえて貰ったが、床上二メートルの浸水では全部泥水と石油会社から出た油で見るも無残で、手も通さない和服、洋服、帯等タンスの中に詰めこまれた娘の幸せを願った母親の心が涙を誘うのだった。
 京都から従姉妹達も毛布を持って訪ねてくれた。このご恩は何時かお返しするぞと心に誓った。一夜を明かす所は板の間にむしろを敷いてその上に毛布だけで寝る侘しさ。私達夫婦にとって伊勢湾台風程に残酷極まりない仕打ちはまたとないであろう。幸い生き永らえられた事だけが最大の幸せであるとしみじみ感じ、感謝の心を忘れてはならないと思うのである。
 備えあれば憂いなしの言葉があるが、伊勢湾台風は色々な教訓を残した。夫婦の絆をより強くしたこと、生きる勇気を与え人への思いやりがどれだけ逆境の中で尊いものか、又今は亡き親爺が生前言ってた言葉が思い出される。「水で浸かった物は乾けばもどる、火事は灰になる」
 大正の頃、村の大火事で裸一貫になった大惨事に比べるとこんな事で泣いていたら人間一生の間には山あり、谷ありという教訓がひしひしとよみがえるのである。
 (川越町 62歳)

氏名 石川奈々子
タイトル 少女の目
本文  この夏、わたくしは三重県から女性の海外研修交流事業として中国、北京での国際女性会議NGOフオーラムに参加させていただきました。そのおりの写真を整理していたときに上海駅での乞食の少女の淋しそうな顔を見つけました。その瞬間、わたくしの胸は衝撃を受けたようにその写真に釘づけとなりました。それは、日本の敗戦後のわたくしの姿と重なったからです。少女の写真は、研修が北京から上海へ移り、上海駅の雑踏の写真を撮りたいため、乞食の少女に小銭をやった。その時は、たったそれだけの気持ちだった。しかし写真が出来上がってみてその少女の淋しそうな、哀しそうな顔はわたくしの体験と重なるものでした。
 わたくしが昭和二十三年、小学校二年生のときに親の命令で嘘をついて学校を休みました。そして一人で半缶(一斗缶の半分)を木綿の唐草模様の風呂敷に包んで背中に担ぎ、父がメモした仕入れ値を大切にポケツトに入れて、満員電車で名古屋駅の駅裏にでかけたのです。駅裏には浮浪児、土管を住み家にしている人、バラツクの家、みすばらしい服装の人々などがうようよしている中をひたすら一キロぐらい歩くと、一角だけが戦災に焼けのこった立派な門のついたわさび漬けの製造元がありました。
 わたくしが缶を渡すと番頭さんが出てきて缶を受け取り、わさび漬けを詰めてもらっている間、たまたまそこの家のお婆ちゃんがいました。側にはわたくしと同じくらいの年ごろの女の子が、風邪をひいて学校を休んで鞠をついていました。そのお婆ちゃんは「今日は学校はどうしたの」とわたくしに問いかけました。わたくしは、子供だから電車賃が半額だし、その聞に父と母は働くことができる、だから家の為に嘘を言って学校を休んできた、そう話したその時のわたくしの顔は、上海駅での乞食の少女の姿と同じであったのではないでしょうか。話し終わったときに「待っとり」とお婆ちゃんは腰を曲げながら奥へ入って黄色い小さな箱を持ってきました。それは当時、非常に高価な森永のキャラメルでした。しかも二個もありました。
「あんたは偉いなあ、これ持ってき」と言われても、貰っていいものかどうか迷っているわたくしを前にまだ手を引っ込めている手をとって「ギユツ」と握らせてくれました。
 いつも仕入れの帰りには肩に食い込み、痛いのと重いのとで何度も肩からおろしてやすみやすみに駅まで歩くわさび漬けが、嬉しさで、いつもいやだった仕入れがさほど苦でもなく感じて家へ帰りました。
 そののち、キヤラメルを貰ったことを父母にもいわず机の奥に入れて、一粒、一粒大切に、一箱の半分くらい食べたときのことです。学校から帰ったら母に呼びつけられ、わたくしの店に売っている森永のキヤラメルを盗んだのだろうと決めつけられ叱られました。その頃は家が貧しかったので、貰ったキヤラメルを親に見せたら取り上げられて、きっとわたくしの店で売られてしまうことが子供心にわかっていたからです。名古屋の駅裏は当時、危険で恐いところと言われていたのに、なぜ幼い娘を使いにやったのか疑問であったが、それでも返答がえしもせず、わたくしは恨みがこもって涙をいっぱい浮かべた目で母親を「キツ」と睨みつけていた自分を未だに忘れることができません。そのうえ、むうひとつのキヤラメルは母に取り上げられてまだ二歳の弟へ手渡され、なにもわからない弟が喜んで走り回っていた姿、その事件はわたくしの心に傷を残し、わたくしと母と弟の関係にいまだに響いています。そこまで傷あとを残すとは、その当時には思いもよりませんでした。
 その後も年老いた母をどうしても引き取ることができず、今年の初夏、病院で独り八十九歳で亡くなった母を思い出します。
 戦争と貧困は目に見えないところでまだ後遺症をたくさん残しています。北京での国際女性会議NGOフオーラム’95で出会った開発途上国の女性が熱っぽく貧困を語っていました。とぎれとぎれしか理解できなかった英語での演説でしたが、わたくしの体験と重なって胸打つものがありました。
 あの上海の乞食の少女の淋しそうな、哀しそうなまなざしをおもうたび、少女の未来がどうか幸せにと祈らずにはおられません。
 (川越町 55歳)

氏名 羽地 久子
タイトル 中野学校の生残り
本文  結婚後十数年たったある日、亡夫は言った。
 「もう話しても良いだろう。長い間黙っていて悪かったが、私は元陸軍参謀本部直轄特務機関員だったんだよ」
 世事にうとい私は、こう聞かされても飲みこめなかった。解説されてちょっと分かり始めたのは、陸軍は内密に諜報員を養成するための学校を作った。それが陸軍中野学校であり、夫はそこの第一期生であったらしく、卒業した後特務機関に配属されていたことがある。
 本名を名乗ることは禁じられ、偽名で通していたそうであり、私と会ったときの姓も後者であった。
 外地へスパイとして派遣された者は、戸籍から消されていたそうで、その厳しさに驚く。夫は内地にいて、外から入ってくる諜報者を探索する使命を帯びていた。
 戦後、米軍に見つかると銃殺、または戦犯とされる危ない立場であった。
 阪神の海岸に、彼等の巣とみられる、表面は工場に見せかけたアジトに目をつけ、多数でこれを襲撃した。そのとき逆に敵弾にあたり、よしの生えた海岸に、夫はかすかな息で生きていた。
 幸いにも土地の人に助けられたが、長期間本部への連絡を怠った上、機密事項に通じた点など、味方からもねらわれるかも、と、ある人が人目の届かない田舎へ行きなさいと教え、彼は歩き続けて三重県の村里にたどりついた。そして最終的には私と結婚する運命となったのである。
 「君は仏心を持って生まれてきたのか」
と私に言ったことがある。褒めすぎだと黙って聞いていたが、彼の頭の中に宗教を求める何かが流れていて、つい言葉にしたのではないかと思う。
 高級キャバレーに出入りし、日本を調べにきたスパイ達の行動を見張る任務にいた夫、仕事とはいえ、彼の指示によって、どこかへ連れ去られて消された外人も多数いたことだろう。後で考えると、罪の意識に夫は苦しんでいたのではないだろうか、と思われる節がある。宗教界に知人が多かったのもその一つであろうか。
 「私がもし米軍に見つかった場合、妻や子を巻添えにしてはいけないから、戸籍に入れなかった」
 この言葉で、結婚以来私の箱を入れない彼に、病気になる程疑った暗い日々がよみがえってくる。しかしこのときから心は晴れてきた。早速結婚届は成され、同籍となったことを喜んだのは昭和四十年である。一人娘の誕生は認知されていたので、すぐ記載されたが中学三年になっていた。
 「アメリカでは、自分に人並み以上優れた才能があれば、堂々と誇るそうや、私はユーモアが得意なところがいい点や」
と奥ゆかしい日本人に反した発言をしていた。彼はどちらかと言えば、白人好きだったのではないか。
 狩猟民族は、日本人の勇敢さに負けず劣らずの勇気の持主であることを褒めたり、芸術に秀でている長所をたたえた。日本人だけが賢くて正しいと決して言わなかったのは、歴史文科に学んだ顔がのぞいている。
 彼と結婚して、私は絶えず金の無い生活を送っていた。夫は武家の出で、そのせいか金もうけに皆目見当がつかなかったようだ。県庁で通訳が必要とか、某高校の英語教師に、と良い話はあったのに、何のかのとごまかされて断ってしまった。今思えば、彼は目立つ所へ行けなかった黒い影を背負っていたのである。
 土に親しみ、鳥や豚を飼うことに傾こうとした態度にも今は納得が行く。個性が強くてうまく世の波を泳ぎ切れなかった性格も否めない。
 私の近隣にソ連抑留生活から辛うじて生還した人がいた。留守中に貧困と病で妻が死に、自分が召されて苦労していたとき、内地の人はどうして守ってくれなかったのか、となじった。皆は欠食と恐怖の毎日だったが、と言ったものの、私は深く悔い、心の中でわびていた。
 友の一人が十代の後半に、兵役にあった人とラブレターを交わしていた。最近彼の手紙を見たが、清純そうな人で、国を思う青年の至誠が胸に迫ってくる。そのきちょうめんそうな文字に私の目は食い入った。今は亡き彼を想像し、それ故か、ずっと独身を通してきた六十余歳の彼女を見るにつけ、何年かの期間をくぐり抜けてきた、多くの人達や私は、戦争から強い影響を受けてきて、今に続いているのを感じる。
 (四日市市 67歳)

氏名 久世 和代
タイトル 平和をもとめて
本文  目がとび出し内臓がねじ切れる様な爆風の衝撃もおさまり、壕からはい出して初めて生きていたという実感と同時に、余りにも無残な周囲の変り様にただ呆然と立ちつくす。我にかえってけが人や死人の山を踏み越えやっと我が家へたどりついた。
 コンクリートの塀のみを残したがれきの山。その中で泣き叫ぶ妹の頭や腹部に布をあて、自分も泣きながら必死に手当てをしている母の姿。近所の人々も何か大声でわめきながら右往左往している。いつもは静かな住宅地も一瞬にして阿修羅の巷と化したあの津市大空襲。
 更に数日後の焼夷弾攻撃、その日足首切断の手術を受けた母と、頭部、腹部の爆弾破片の摘出手術を受けた妹を背負い、四~五キロメートルの山道を必死でにげた悪夢のような一夜。
 それから一週間、破傷風とわかりながらも一本の血清もなく、ただ死を待つばかりの母の苦しみ。八月八日遂に全身けいれんで一滴の水ものどをうるおすことも出来ぬまま、四十五才の一生をとじた。
 それから一週間後の八月十五日の終戦。
 私は流す涙もなくただ呆然。気が狂った様になった父をかかえ、妹達をはげましながら焼け跡の整理。拾い集めた焼け残りの木材を柱に、小さな掘立て小屋を作った。海へ行って海水を汲み、木片を燃やして煮た水の様なおかゆを、焼け跡から拾い集めた丼に注ぎ大切そうにかかえこんで食べる父の姿に何度涙した事か。
 しかし近所の人々、市(まち)中の人々も大同小異。平和な家庭が見る影もなく崩壊してしまったあの戦争の無残さ。多くの人々が死に、傷つき、家を失い、肉親を失い、一体何のために、なぜ、どうしてと自問自答の毎日。
 父や妹の看病のため家をあけられなくなった私は、母が嫁入りのためにと縫いあげてくれた僅かばかりの着物を売り、代りに買ったミシンで知人や近所の人達の洋服仕立ての仕事を始めた。夜はローソクの光でミシンを踏み細々と暮しを立てた。
 昭和二十二年復員して来た主人と知り合い結婚、ゼロからの出発で私の第二の人生が始まった。二年後に長男に、更に三年後に長女に恵まれ、貧しいながらも新しい人生に、少しは明るい光も見えて来た。
 私も近くの小学校に再就職出来て、生活の安定もいくらか目安がつき出した。然しあの戦争の悲劇はいつも私の脳裏からはなれる事はなかった。
 そんな時主人がブラジルに行こうと言い出し、ブラジルの情報調査を始めた。あれだけ戦中戦後の苦しみをたえて来たのだから、未知の国ブラジルに行っても心配ない。これからこの二人の子供をあの大国ブラジルで育て、心豊かな、そして可能性の秘められた国で育てたいという主人の切なる望みにひかされて、一九五九年六月、父母兄弟のねむる日本をあとに、二か月の航海を続けブラジルに到着した。
 以来三十六年。十才と七才で渡伯した子供も四十六才、四十三才になり、二人ずつの子供に恵まれ、平和で幸せな生活を送っている。長男はサンパウロ大学を卒業し、現在建築設計事務所を経営している。私も四人の孫にかこまれ、平和で心豊かな余生を楽しみながら、あの戦争の痛手も遠い昔の夢であった様にかすんでいる。
 そして今、日本の文化の美しさ、豊かさ、深さをつくづく感じると共に、このすばらしい日本文化を、平和をもとめて来たこの大国ブラジルに植えつけることが出来たらと大きな希望に胸をふくらませている。
 そして、まず自分がやらなければと老骨に鞭うって、茶道に華道、書道、なぎなたと、よく深くあさり出した。幸いに県より立派な三重会館をいただき、そこを根城にこの日本文化を少しでも多くの方々に知っていただき、更に深くきわめていただく足場にでもなればと張り切っている。また来る十一月五日には三重三曲協会の方々が御来伯になり、日本文化の普及と共に日伯修好百周年記念事業の一環として、サンパウロで演奏会を開催して下さる事になり、またまた私の夢が大きく花を咲かせようとしている。これを機にこの三重会館で琴の会が生まれ、美しい琴の音色が流れる日も遠くないのではないかと思っている今日この頃です。
 (ブラジル 74歳)

氏名 磯部 衛一
タイトル 青木知事と我が国際家族
本文  サンパウロで生活する私と妻と母は日本人一世、子供五人の内、長男と長女は帰化ブラジル人、次女は帰化日本人で奈良市に居住、孫も一人いる。次男と三男はパラグアイ人、たった一人の一世の弟はアルゼンチンで州立病院の院長をしている医者で帰化アルゼンチン人、妻は亜国美人で子供二人に恵まれている。全くの国際家族になってしまったが、一九四五年八月十五日、私は北朝鮮咸興で国民学校の三年生だった。父は咸鏡北道の道庁の役人だったが、応召で出征し、ソロモン群島のブーゲンビル島で飢餓と戦いながら米軍に対抗していた。
 母一人子一人で、進駐したソ連軍の占領下で一年半暮らした後、在留邦人の集団引揚げで三十八度線を脱出し、米軍管理下の議政府で二か月の収容所生活の後、引揚船大隅丸で仁川港より九州の博多に引き揚げたが、二年振りに見る引揚船の大きな日章旗が眩しい程綺麗に青空にはためいていたのを、皆で感動に震えながら涙一杯で見上げていた事を今でもはっきりと憶えている。
 終戦直後の満員列車に揉まれ帰り着いた津駅前は見渡す限り一面の焼野原で、母も私も愕然として立ち尽くしていた。見当をつけて塔世橋迄歩くともう瓦礫(がれき)の中に津城の丸の内の石垣が、大きくハツキリ近くに丸見えで、他には何もない焼野原だった。お互いに生死不明で安否の判らなかった父は、幸運にも一週間前に生まれ故郷の鈴鹿市稲生町の家へ無事に復員していて、やっと面会出来た。骨と皮ばかりに痩せ衰えていたが元気そうだった。四年振りに再会する父は丸で別人の様だった。
 父の母校三重高等農林専門学校、即ち新制国立三重大学農学部に入学したが、卒業前後の昭和三十年代初めは不景気に伴う未曾有の就職難で、外地生まれ、外地育ちの引揚者の一般の傾向として狭い日本は肌に合わず、又海外雄飛を夢見た私は三重大学学生自治会内に海外移住研究会を創設しサークル活動を始める事になった。段々と同志も増え、特に三重県庁内海外協会連合会の斎藤熟氏や木村女史には大変御世話になり、ボリビヤ、パラグアイ、ドミニカ、ブラジルの海外移民の資料等を提供していただいて展示会を開いたり、アルゼンチン帰りの前田氏や大門の井田氏等の協力で週一回のスペイン語講座を開講したり、卒業迄の二年間結構忙しくサークル活動に励んだ御蔭で、自分自身が南米パラグアイ共和国へ独立開拓自営農として渡航する事になったのは昭和三十三年の春だった。
 三月に卒業、五月に結婚、六月に移民訓練所へ入所、万全の準備を整えて神戸港よりサントス丸で出帆したのは十月の事だった。以来移住研の後輩達が実習生として来芭する様になり、北村、徳力、角谷氏等現在ブラジルで大活躍される事になる諸氏にトラツクターやコンバインを使用しての機械化農業を体験してもらう事になった。
 時の青木知事が移住地視察に来られたのは丁度その頃だった。故日沖海協連エ市支部長が御案内して移住地視察の際農場に来られ一泊される事になり、県民同士水入らずで歓談された方がと気を利かして、日沖支部長はジープで八十キロ離れた当時パラグアイ第二の都会であったエンカルナシオン市へ戻って行かれた。当時電話も電報も水道も無い開拓地の農場に泊まると言う事は、世間とは完全に没交渉になりラジオもテレビも何も無い別世界に置かれる事を意味していた。
 一日一杯テーラロツシヤの赤土の中を土埃を巻上げて走り回ったので、原始林の中腹に立つ我が家より谷間へ降りた湧水の流れる小川のほとりにある、ドラム缶の露天風呂に入ってもらった所、知事は山猿の鳴き声や野鳥、オウム、インコの叫び声などの交響楽の中、原始林の大木の間より見える中秋の名月を見上げながら露天風呂が気にいり大いに喜ばれた。公害の全く無い清冷な空気の澄み切った開拓地の夜空は満天の星空で、こんなに沢山の星を見たのは生まれて初めてだと感激されたが、私自身も入植当初に感嘆したもので、特に満月の夜は庭先で本が読める明るさだった。風呂より上がり日本の浴衣にくつろいだ知事は、家内が一日かけて準備した現地食を大変珍しがって喜んで食べて下さった。知事のほんのりと上気した赤い顔が室内のガスランプに照り映えて本当に幸せな楽しい語らいの時が過ぎていき、今から日本式の布団で休んでもらおうと言う時に、一キロ先の農場正門より自動車のヘッドライトが光り、向かいの谷の山腹を照らしたのはもう午前一時頃だったと思う。
 夕方エ市へ帰ったばかりの日沖支部長が慌ただしく来宅されて、我々はあの有名な伊勢湾台風の発生と甚大な被害を知る事になり直ちに知事は帰国の途につかれた事だった。私も護衛がてらジープでエ市迄お送りし慌ただしいお別れをした事が昨日の様に思い出される。
 (ブラジル 60歳)

<復興・新教育・女性の活躍>

氏名 東  和子
タイトル 橋のたもとの蔵は見ていた
 塔世橋のたもとに白い壁の蔵が建っています。この蔵は明治三十一年三重県農工銀行が設立され、明治三十四年に蔵は建てられ、昭和十二年三月二十五日合併により日本勧業銀行津支店となりました。その後昭和三十一年七月二日より長らく三重県町村会が使用いたしておりました。明治、大正、昭和、平成と津の街の移り変りを眺めてきました。
 私は戦後まもなく銀行に入行いたしましたが、この蔵の中で当時の支店長代理から七月二十四日の爆撃の話を聞かされました。空襲になると現金や書類を金庫にしまい、倉庫の扉を粘土で密封してから退避しますが、蔵の窓が開いているのに気づき、窓をしめようとしますと、窓の下に女の人が子供を抱いて伏せていました。子供の泣き声が中まで聞こえ気になったので、蔵の扉をしめると石垣をつたって川に降りてみました。その途端すごい爆風で必死に杭にしがみつき気がついてみるとその辺にいた人々は爆風で飛ばされてしまったのか、誰もいなかったそうです。私は蔵の窓をしめるたびにこの話を思い出していました。女子の先輩の人達の話によると、営業室はめちゃくちゃになりとても営業するどころではなく、そのまま家に帰ったそうです。その後の空襲で家は焼かれ、親戚の家へ疎開したりして、女子行員は一人も出勤することなく、休んだまま終戦を迎えたそうです。
 戦火が収まって後、国民を悩ませたのは食糧不足であり、今一つは急激なインフレでした。二十一年二月十七日預金の封鎖、新円切り替えが行われ、国民一人当り百円だけ新円と交換することとなり、手元に残った旧紙幣は強制的に預金させ、その払出しは一か月当り世帯主に三百円、世帯員一人につき百円と制限され、給与の支払いは月額五百円までは新円による現金払いとし、残りは封鎖払いとされました。その後封鎖預金は第一封鎖預金と第二封鎖預金と区分し、第二封鎖預金は補償打切りによる金融機関の損失補填に備えられ、第一封鎖預金は一口三千円未満のものはその全額、三千円以上のものは一世帯一人につき四千円に世帯人員を乗じた金額で、それ以上は第二封鎖預金となりました。二十三年三月三十一日再建整備を完了し、当行は第二封鎖預金も打ち切ることなく全額預金者に支払いましたが、当時インフレのため貨幣価値が下がり何にも買えませんでした。
 戦争中発行した戦時債券は十年経ち、満期が到来し額面の通り支払いましたが、満期から十年経って時効により消滅いたしました。
 終戦、とくに食糧の欠乏は著しく、夢といえば ゛おいしいものを腹いっぱい食べたい ″金より物といった切実な時代で、宝くじは、賞品にタバコがつき、爆発的人気となりました。そのなごりで今でもタバコ販売店が宝くじ売捌店になっています。又大変な人気を集めた三角くじ、正方形を二つに折って糊付けした三角形の被封くじです。ヤミ市に机を置き、米櫃(こめびつ)の罐(かん)の中に三角くじを入れて売り始めるとたちまち人が集まり、売り切れました。二十二年三重県復興宝くじが発売され、その賞品に一等が住宅一棟、地下タビ、カッターシャツ、カタン糸等で、特に土地付きの住宅には魅力がありました。地方宝くじは地方財政補填のために発売され、今年で五十年。この間宝くじ納付金として県の財政に少なからぬ貢献をいたしました。
 戦後農地改革があり、この農地改革に伴う農地買収代金支払事務には、現金支払外、農地証券が発行され、元利金支払、買上償還事務があり、全国にわたってその件数も莫大で処理上細部の点まで綿密さを要する仕事だけに苦労いたしました。
 新円切り替え後、再封鎖の不安を抱いてか「タンス預金」と言われる傾向になり、預金吸収運動を推進させるために、ミシン、タオル、サッカリン等の景品くじ付の福徳定期預金、復興定期預金、無記名式の特別定期預金といった新種預金が創設され、銀行は競って新円預金の獲得に努力いたしました。私達女子行員は事務の合い間や、土曜、日曜日に親戚を始め知人友人に預金の勧誘に歩き、骨身惜しまぬ献身的な奮闘をいたしました。
 政治経済金融諸制度の改革により、当行もこの激浪の中に立たされ、今まで債券発行機関としての特殊銀行でしたが、普通銀行に転換し、預金吸収に積極的な活動をいたしました。そして、明治の三重農工銀行時代より続いた、県金庫事務の取扱いも百五銀行に移りました。
 電話の普及にともないその架設に対して電話債券が引受けられ、電話債券発行事務取扱いをし、津支店は債券母店として三重県全体の取りまとめ店となり、そして電々公社が民営化されるまで行いました。この様に地域の人々の中に密着し親しみのある銀行となりました。
 三十一年七月「三重会館」が新築落成し移転、蔵は三重県町村会に譲り渡りましたが、塔世橋のたもとに私達のシンボルとして建ち、津の街を眺めています。
 (津市 65歳)

氏名 河合 虎郎
タイトル 農家の悲願が実った日
本文  昭和二十二年九月九日は、いわゆる戦後の農地改革によって、三重県下で初めて、田んぼが耕作する者の手に渡った日である。
 幕藩時代以来、ほとんどの農家は収穫した米のかなりな割合を、「年貢米(ねんぐまい)」として領主または地主に納めなければならなかったから、生活は苦しく、農地はいつになっても自分のものにはならなかった。
 そうしたことに反発して、大正の半ばごろから全国的にまき起こった小作争議の旋風は、三重県下でも各地で地主と小作人の対立抗争を招き、なかには大審院(いまの最高裁)まで調停を持ち込んだものさえあった。
 父祖何代にもわたって叫び続けられてきた「土地は耕す者の手に」というこの願いは、しかし思いがけなくも終戦による占領政策の一環として解決をみる運びとなった。
 もっとも、わが国でも農地制度の改善を図るため、自作農創設事業が大正十三年(一九二四年)以来実施され、三重県でも国の方針に従って、農政上の最大課題として、農地購入資金貸付の制度などにより推進されてきた。そして私は県職員として、昭和三年(一九二八年)三重県内務部農務課に勤務し、この自作農創設事業に取り組んできたのである。
 昭和十三年、農地調整法が施行されるに伴い、農地委員会の設置などによって、この事業は一層整備されたが、なんといっても地主の理解と協力による小作地の開放が先決であることから、市町村では該当地主にその旨要望の手だてをつくす一方、県では大地主の実状を調べた。すなわち十ヘクタール以上が二百三十戸、うち二十ヘクタール以上九十戸、五十ヘクタール以上十八戸、四百ヘクタール以上は二戸ということが分かった。
 そこで十九年八月十六日、県会議事堂に地主八十三名の参集を得て「自作農創設懇談会」を開催し、決戦下における食糧増産の根本策として、所有農地開放に一段の協力を求めたが、なかなか計画通りには進まないまま、終戦を迎えたのであった。
 ところが、占領下という特異な状況のもとで展開された今度の農地改革は、わが国の歴史に長く深く根を下ろしてきた地主対小作人の関係を、急転直下に解決し、伴う紛争にもようやく終止符が打たれることになった。
 昭和二十一年には、この改革の実行のため、新たに十一月に農地調整法、十二月に自作農創設特別措置法が改正施行され、それに伴って本県でも十一月十八日、新しく農地部が設置されて、私も従来の関係から、農地課でこの事務の一端を担当することになった。
 しかし、その第一線の執行機関は、新しく改組された市町村農地委員会で、その委員(自作、小作、地主別に選挙された十名)と、専任職員によって、まず市町村民大会、集落ごとの集会などで法令の内容を説明、とくに地主の理解と協力を求めた上、不在地主は小作地全部、在村地主は七アールの小作地を残して買収し、当の小作者に売渡すという手順で進められるのだが、在村地主の場合はどの小作地を買収するか、あらゆる角度から検討し、また買収基準価格は、国の定める十アール当たり県平均で田約六百円、畑約四百円などの問題で異議の申し立ても多く、そのつど前記の委員と職員は一体となって、厳正公平を第一義において解決を図られた上、県の農地委員会の承認を得るという事務処理に、言語につくせない苦労を重ねられたことも忘れるわけにはいかない。
 そうした過程で迎えた昭和二十二年九月九日は、三重県の農地改革にとって、まさに歴史的な日であった。
 それは、本県最初の政府買収農地の買主となられた萩原与三郎氏(現・一志郡三雲町)にとっても終生の記念すべき日で、三重軍政部バーンズ隊長、同ウィルス民間情報教育課長はじめ、県下各界代表の列席するものものしい中で、時の青木理知事によって第一号の売渡通知書が手渡されたのであるが、これは独り萩原氏ばかりでなく、多数の農家の長年の悲願が実った一瞬であり、自作農創設事務に半生を傾けてきた私にとっても、ひとしお感慨深く、感激極まる一幕であった。
 その後も私は、こうした行事や、農地改革完遂の記念式典に参加するたびに、旧地主の心情などあれこれと追憶にふけったことであった。
 こうして農地改革は完了し、多くの農家は生産力の向上増進、経営の刷新改善に努め、農村の発展と農家の福祉充実に大きく成果を上げ、改革の目的は達成されたのである。
 しかし昭和四十年代に入って、急ピッチで進展した経済成長の余波は、農業のあり方を一変させ、また外国との関係も多角化して、農業をめぐる状況がゆれ続ける現在、官民一体になっての強力な施策の推進が痛感されるなど、複雑な思いに駆られるこの頃である。
 (松阪市 92歳)

氏名 平子 清則
タイトル 戦災復興土地区画整理事業とともに
本文  太平洋戦争の末期に米軍による日本の都市に対し無差別爆撃が行われ、東京を始め、日本の都市の大部分が壊滅した。そして最後に、広島、長崎に原子爆弾が投下され、昭和二十年八月十五日に苛酷な戦争は終った。
 そしてこの年の十一月に、内閣総理大臣直属機関として戦災復興院が設置され、同年十二月に戦災地復興計画基本方針が閣議決定、それに基づき三重県内では、知事施行として桑名、四日市、津、伊勢(宇治山田)において戦災復興土地区画整理事業を実施することになり、直ちに疎開工事事務所の機構の中で調査を開始し、昭和二十一年五月に桑名、四日市、津、伊勢に都市計画復興事務所を設置して、事業に着手した。
 また、昭和二十一年十月、国は復興都市計画の手段として、法制的に新たに特別都市計画法を制定し、被害が極めて大きい都市百十五都市(桑名、四日市、津、伊勢を含む)を特別都市計画を行う都市として指定した。
 特別都市計画事業は、戦災復興土地区画整理による大規模な事業で、仮換地指定(換地予定地指定)、建物等の移転、宅地整地工事、街路工事を急速に進めていたが、国家財政及び地方財政の窮迫により、ドツジ・ラインに基づく経済九原則を樹立し、昭和二十四年六月戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針が示された。それに従い事業内容を縮小し、昭和二十五年度より五か年計画にて施行することになった。
 私が四日市都市計画復興事務所に臨時職員として就職したのが昭和二十三年で、工務係に配属され、工事測量、設計、監督補助を行った。
 四日市の復興計画は、市街地を分断していた近畿日本鉄道(諏訪駅から国鉄四日市との合同駅に迂回)の軌道移設を行い、東西に結ぶ中央道路(70m道路)に相対して国鉄(JR)四日市駅と近鉄四日市駅を設置し、市役所の東側を南北に50m道路、国道一号線を36mに拡幅する大都市級の壮大なものだった。
 工事測量現場へは、地下足袋にゲートルを巻いて行き、あちこち焼け跡が未整理となっている街に出て、計画街路の交差点杭を打ち高いヤグラと長い竹竿、そしてポールとスチールテープ(少し前までは竹テープ使用)を用いて測点杭を打ち、続いて縦横断測量を行った。
 事務所では、測量成果を基に原図を画き、これを日光による青写真で図面を作り、工事の実施設計をまとめ、工事請負業者が決まると、現場渡しとして中心杭を指示し、工事測量(丁張り)を行った。
 その当時の事で印象に残っているのは、近鉄四日市駅の予定地付近で三交の軌道敷をはさんで菜の花が一面に咲くのどかな田園風景で、収穫時に焚く菜種がらの煙と鈴鹿の山に沈む夕日で安らぎを覚えたものだ。
 又、昭和二十七年三月には、その敷地を利用して四日市博覧会が開催された。そこで展示された戦後の新しい工業製品等により、産業の躍進と復興の芽生えを感じた。
 事業的には、昭和三十一年度に実施した近鉄四日市駅前の植樹帯及び舗装工事の設計と工事測量では、施設の機能的な位置形状とか舗装の排水等で苦心したが、戦災で廃墟となった都市の復興、新しい道路、水路、公園が整備されてゆく喜びと誇りは私にとって貴重な体験であった。
 その後、経済社会情勢の変化と、県内における十三号台風、伊勢湾台風によるあいつぐ大被害の復旧のため、県市とも財政に窮し、当該事業は大幅に遅延し、そのため、事業の推進および新たな予算措置として、事業区域内において、公共事業である都市改造事業、街路事業、公園事業、失業対策事業、特別失業対策事業を行い事業の早期収束を図った。
 伊勢湾台風のとき、私は桑名に転勤しており、特別失業対策事業の施工中であった。現場は浸水のため約一か月間工事が中断し、更に資材(セメント)が水浸しで使用不能となり難渋したものだ。
 また、復興土地区画整理事業費は物価高騰のため増大し、追加補助は認められたものの、ついに、昭和三十四年度で打ち切られた。(その後、四日市および津は、事業の早期収束のため換地処分に必要な経費に対して国庫補助を受ける)それ以後は県単独事業費のみとなったが、その財源の一部として保留地処分金が充当され、事業の進捗が可能となった。そして、ようやく清算業務を残して昭和五十六年七月津の換地処分を最後に県内四都市の事業は収束した。長期間経過したこの事業の成果として、これらの都市の道路、公園等都市基盤が整備され、都市発展の礎となった。
 戦後五十年を迎えた今、私はあらためて平和の尊さを痛感し、絶対に戦争は起こしてはならないと思っています。
 (津市 63歳)

氏名 川上 弘子
タイトル 玉音放送を聞いた「名張少女(なばりおとめ)」の五十年後雑感
本文  五十年前の八月十五日、敗戦の玉音放送を聞いた名張国民学校五年「は組」の「名張少女」四十三名の作文がよみがえった。当時の「は組」担任だった西出美津先生(上野市でご健在)が、五十年間、大切にしまっておかれたものである。今年(七年)の三月末、私に送ってこられた一束の黄ばんだ原稿用紙を見ておどろいた。時、まさに世間は宗教のマインドコントロールでさわいでいた。
 何人かの友人に尋ねても、そんな作文を書いたことすら覚えていなかった。読んでみると、殆ど全員が、初めて聞いた天皇のお声にもったいないと思い、負けたのは自分達の責任だと書いている。そして鬼畜米英に原子爆弾を先に使われて、くやしいと綴っているのだ。神国日本の三千年の歴史がけがされて残念。天皇陛下に申しわけがないと表現している。私の作文から抜萃する。
 「八月十五日 父が『今日正午に畏くも天皇陛下が御自ら御放送遊ばされるから、弘子も聞きなさいよ。』といはれたので私はたいへんもったいなく思ひました。それから私の心は早くお聞きしたいのともったいないのとでそはそはしてなかなか落着きませんでした。やがて時計が正午を打ちました。……君が代が奏されました。天皇陛下の御放送が始まりました。……私ははっきりわけがわかりませんでしたが、後で父に聞きますと、『天皇陛下はこの間廣島へ原子爆弾が投下されたのでこれからもあのやうな事があったらとたいへん心配しておられたが、將来に必ず日本民族がほろびるだろうと仰せられてボツタム(ママ)宣言を受け入れられたのだ。その事を今、和平の大詔によって明らかとなったのだ。』と、いはれた。……學校で先生からお話をお聞きして私達は皆、机の上へひれ伏して泣きました。さうして一そう頑張らうと思ひました。終」
 提出日が九月初めとなっているし、原子爆弾と表現しているところから、夏休みの宿題だったと思われる。提出していない人も何人かいるのだ。広島、長崎と落とされた直後、敗戦のあとは、ピカドンとか新型爆弾とか云われていたように思う。
 私達が一年生入学の時に国民学校となり、その十二月八日に大東亜戦争が始まったのである。それ以来、少国民、皇国民として、軍国教育を受け、日本は日一日と戦時色が濃くなっていった。十一才の時にこんな作文を書いた私達は、批判力もなく、思考力も幼い年頃で、唯、スポンジが水を吸い込むが如く、先生や両親、新聞の記事などに染まっていったのでした。
 最近友人達との会合の中で、これが建前か、本音か議論がふっとうしました。宿題として出すからには、こう書くのが極く普通だったのだと、その時の背景から思われます。しかし本音のところでは、子供の事ですから、灯火管制もなく、開墾作業などの重労働から開放されて、嬉しくほっとしたのも事実です。私など殊の他身体が弱かったものですから。
 玉音放送は、言葉遣いが漢籍の素養のある人ならいざしらず、又放送技術も悪かったようで、殆どの国民には理解出来なかったようでした。私達子供は、ラジオの前で大人が聞いている様子を、遊び半分に眺めていたと云ってよいでしょう。少なくとも私はそうでした。校長先生でさえ、まだ頑張るようにと仰せられているのだと、先生方に言われたとか、五十年たった今、聞きました。
 こうした状況の中、翌日か翌々日、登校して先生から説明を聞き、全員は青天のへきれき。そして、今で言うマインドコントロールされた作文を書いてしまったようです。
 教育はありようによっては、善にも悪にも影響する重要なことと、今更ながらに考えさせられます。戦時中はラジオの天気予報もなく、情報もかたより、一億一心火の玉と、戦地へかりたてられ、特攻隊員として散っていった先輩諸兄の犠牲には、本当に胸が痛みます。
 私達は国民学校在学中で、機銃掃射を時おり体験したというものの、牧歌的な田舎の小さな町で、比較的食糧にも恵まれた生活でした。しかし、見聞した戦争の惨状と、軍隊が政治までも支配していった歴史を後世に語りついでいかなければなりません。
 戦後、新制中学一期生として、男女同権、主権在民と、絵にかいたお餅のように、民主主義を教わり、おどろきましたが、今から思うと、戦争の経過や反省を教わることもなしに来てしまったようです。
 戦後五十年の平和は、有史以来はじめてのことですが、色んな未解決な問題が、ふき出しているようです。教育の問題、宗教のこと、……原点に立ち帰って、不熟状態の民主主義、主権在民など、地に足つけて考えていきたいものです。新制中学一期生も還暦を過ぎました。
 七年夏、作文集は「神國日本は敗けました」(東方出版)として出版されました。
 (名張市 61歳)

氏名 竹田 友三
タイトル 廃墟で若ものたちは元気だった
本文  第二次世界大戦は、幾十年調べ語り論じつづけてもつきない。極限を超えて深刻な体験と問題は今日もまだ続いている。そんな中でまさに青年期に戦争に遭い、学途中で軍服生活に入ったといえ、まだ四十五年八月のうちに、「臨時召集を解除され」と、「大きな声で現金な奴」と隊長に苦笑されながら、申告し、部隊のトラックで松本市南の駅へ送ってもらい、焼跡の名古屋を、夜行列車の窓の白む頃始めて見たという私などは半人前の戦争体験もない。むしろ帰り来て塔世橋から廃墟ごしに結城神社を遠望したり、母校津中が鉄骨の屑になっているのを見たり、無二の親友が爆死したお屋敷町を徘徊したりしつつ、切実に「後めたさ」を感じたものである。帰ったわが家も屋根が大破、晴れの夜は寝床から月見、降れば畳をバケツにかえしばらく呆然。
 そうこうして草茫々(ぼうぼう)の大学に「復学」はしたものの、ノートどころか食う米もままならぬ。陸軍の靴や袴(こ)(=ズボン)をはき古着の学生服、先輩ゆずりの角帽でその日食うためのバイトに忙しく、大学の講義もろくになく、二年で「早く出てゆけ」と、就職難どころか会社自体が大崩壊、国家自身が被占領の街へつき出される。「皇国」は消散し、マルクスはまだ押入れの中、岩波の本が出ると噂立つと寒空に学生たちの行列がつづいているという中で、思想の飢餓もきびしかった。
 しかし総じて当時の学生は軍隊帰りのタフさと新憲法のゆめを抱いて元気であった。学生自治会の組織化に熱中するもの、教会に集うもの、文学論に徹夜するものさまざまいたが、その背に日本国憲法が、草案、審議、公布、施行と太陽のように上ってきていた。
 私自身も、教育自治連盟という-今振返れば泡沫的な-教育運動に加わり、地方自治専攻の教授の室に出入りし、卒業とともに何の成算もなく連盟三重支部をゆめ見て帰郷する。ゆめはゆめに終わったが、七十三才の今日なお、若いひとと共生しておれるのは若い日の馬力に負う部分もかなりあろうと思う。
 帰郷した頃、三重の若ものも多種多様に元気な顔をしていた。新町小学校で激論していた三教組の若い闘士たちの顔、直接はふれなかったが松阪その他各地で「文化団体」が簇生(ぞくせい)していた。鈴鹿や員弁の教員のサークルもあった。すぐ近くには早逝した県議小田義重君らも雄弁をふるっていた。
 一方、軍政部CIEや新設の県教育民生部社会教育課も「公民館をつくろう」「PTAを進めよ」と、それよりはるかにラディカルな六・三・三制改革と併行して走っていた。ことにこの地方のCIEはラディカルであったと思う。とにかく右も左もごっちゃごちゃ゛軍国主義をのりこえろ、文化国家をつくり出せ、進め!進め!″の元気があった。その蜜月は短かったが。
 帰郷一年後、私は久居連隊跡の新制高校に迎えられた。県立一中と県立一女が対等合併し、しかも周辺の高校と対等の格で出発しているという点は全国的に珍しいことではないか。その上、女学校から来た青年教師が若林実、片木清、後藤裕文と賑やかで、私も実は彼らのすすめで久居に来たのである。加えて当時の津高には歌人川口常孝、弁論家小出幸三、やや年上に速水正等が賑やかであった。私も静かであったわけではない。
 これら青年教師はほとんど本気で、日本の新教育を創成してゆくのは俺たちだという自負心に燃えていたから、生徒の一つの問題行動をめぐって職員会議が夜までの教育大討論会と化し、余熱が宿直室での二次会になることなど珍しくなかった。
 生徒も雑多な経路をへて集まっていた。明朗で横着であった。「ゴキブリって英語で何というの」とカマをかけて新任教師をテストし、それを通ると「先生、教室なんかうっとうしい。木陰で授業しようよ」とこわしかける優等生も。「青い山脈」はここにもあった。しかしそんな生徒も引揚船の経験、空襲の夜の恐怖、そしてシベリア抑留の父への心配を抱いているので、青年教師らの理想と呼応する点は広かった。いま、その頃の卒業生たちが、多方面で頑張っていてくれる。「平和とか人権の尊さを私たちは高校生活の全体で学んだ。」と時おり聞かせてくれる。
 廃墟で青年たちは元気だったというこの感想が、現在の、未来の日本へ向ってどう結実しうるのか、思うことは多い。しかし戦後民主主義の不徹底とか矛盾とかも直視しつつ、その肯定面も確かな遺産へと練りなおす必要を痛感する。われらの民主主義はまだ創造の途上にある。
 (津市 73歳)

氏名 竹田 綾子
タイトル 戦後の教育民主化の忘れられぬ一駒
本文  八月十五日の天皇の戦争終結の詔書の放送を正午に聞いたのち、内閣は総辞職、その日のうちに新しい内閣が組織された。一億玉砕の抗戦から降伏への百八十度の転換、しばらくは国民は呆然としていたのが実感だった。
 何しろそれまでは民主主義という言葉など危険思想で英語も敵性・黷ニいうので、学校の授業からは追い出され、京都帝大卒の英語の岩永先生なども勤労作業の授業の監督をされていたのだから。女子中等教育のにない場である女学校でも、男子の中等教育の実施校である旧制津中学校とは著しく差があった。教師陣から教料書の内容、日常の教育、しつけなどでも一段低く、封建時代の家族制度の因習がそのまま家庭を支配し、女性の発言権はほとんど省みられず、女子は家庭に入ると同時に進歩を中止して夫に仕え、子を育てることが女性の本分とされた。県立津高女の校歌を見ると「おみなの道をおさめつゝ おみなの道をきわめつゝ のちに幸ある身の運を開くは今の時ぞかし」という詞がある。おみなの道とは何か、夫への忍従と無抵抗、子を生み育てる子育ての担当者ということである。女子が自主的な意見などを持ったり、口にすれば女だてらにとか生意気なとかいわれたのである。
 無条件降伏のあと連合軍が進駐して占領政策が矢つぎ早やに施行された。それは全く嵐のような民主化であったといってよい。教育政策についても婦人参政権、労働組合結成、教育民主主義の採用となり、十月二十一日には軍国主義教育者の即時解職追放令が出た。天皇「現神」の特権否認、学校にあった神棚はのぞかれ、御真影奉安殿はこわされて御真影は県庁へ返納された。男女平等が憲法に明記され教育の上での不平等は撤廃されることとなったが、深く根づいた男女の不平等の因習と意識は長い女性自身のたたかいと努力を必要としていた。
 昭和二十一年の春、第一次アメリカ教育使節団が来日、教育の進路について示唆を与え、それに基いて六・三・三・四の新学制と新しく社会科の学習が重点とされた。教育の民主化、教育の機会均等ということが重点であった。津市には教育民生部という組織がおかれて、日本の軍国主義教育の解体と新しい教育政策の実施を見守っていたようだ。そうしたある日突然上山熊之助校長が軍国主義教育者として追放されることになった。戦争中の杉野校長は戦争中の責任者負って辞職、そのあとに迎えた校長であった。戦時下の生徒会雑誌に書かれた内容が問題になったという。六・三・三・四制による学校の解体と統廃合がどう行われるのか、それが大問題で毎日放課後はその論議を果てしなくつづけていた。市内には県立津中学、県立津高女、県立津工業、津市立励精商業、津市立高女と中等教育をになうのは五つの学校である。新制中学は全部新設となるが、中等教育はどう新制高等学校に再編するかは大問題だったのである。上山校長辞任の後を受けて岡団治氏が新校長として赴任された。
 教育の民主化政策の中で教育民生部は教育の国家統制を排除、学校にもPTAとして父母住民の声を、生徒会組織として教育を受ける生徒自身の声を反映させるよう、民主的な組織づくりや民主的な会議の持ち方などの講習、アメリカ式新教育の紹介などを精力的に行った。私もエセル・ウイード女史の講義を県会議事堂で今は亡き竹島とよ、大石あや、の両先生と三人で受講したのである。伝統ある、そしてある意味では保守道徳のにない手であった県立津高女にも生徒会が生まれるのは時代の必然であった。さてその生徒会がこの高校の再編に大きな関心と意欲をもって自分たちの問題として取組みはじめたのであった。彼女たちはそれまでのことにこだわらず全く原則に立って教育の機会均等と男女平等の上から旧制津中学校と旧制県立津高女の合併による新制津高等学校の成立を希望し、これを生徒会幹部が県教育委員会と教育民生部に自主的に陳情を始めたのである。正に新時代の到来を実現した快挙であったというべきであろう。時の教育民生部は近畿地方の中ではとくに原則に立ったラヂカルな考え方だったようだ。近府県では男子校の県立第一中学校は全く単独で新制高校となっている。旧制愛知一中は旭丘高に、北野中は北野高校に、京都一中、神戸一中も皆然りである。県立第一中学と県立第一高女が合併して津高校にというような再編は全国でも珍しいのである。
 津高女は激しい焼夷弾攻撃の中、杉野校長の必死の消火でこのあたり唯一の焼けのこり校舎であったが、義務教育優先という教育民生部の意向により新制橋南中学に校舎を明け渡し、久居の三十三連隊兵舎跡へすでに焼け出されて入っていた津中学と統合すべく大移動、更に教員は中学、高等女学校より新制中学へ再配置され、嵐のような教育再編が始まったのだ。
 (津市 71歳)

氏名 児島 誠一
タイトル 学制改革と職業教育実践
本文  太平洋戦争の末期昭和二十年四月、中等学校への進学に胸を膨ませて私は農家の二男坊で兄貴も通学していた県立農林学校の林業科へ入学した。電車通学で宇治山田線中川駅乗換えで名古屋線へ、そして久居駅下車、駅から学校まで徒歩二十分、県立農林学校は周囲樟(くす)の木が茂り、運動場から眺めた校舎は実に美しく、校庭の樹木特にモミ、イチョウの緑が印象的であった。
 「君達は日本の国を背負って立つ軍人の幹部候補生になる有望な人達である。よく自覚して勉強に励んでもらいたい」教官のこの言葉通り日常生活は厳しく、勉強も熱心に教えられた。特に教官に対することよりも、下級生にとっては上級生に対する礼儀作法は手厳しく指導を受けた。小学校初等科から入学した新入生にとって、家を出て家に帰る道が規律正しい生活の日課であった。
 太平洋戦争の戦局は日本にとって不利と感じても、口に出せなかった。宇治山田市(現・伊勢市)、津市が空襲に逢い電車が動かない日でも登校した。松阪から久居まで電車の線路沿いに歩いた。津方面に勤めておられる人々も同様である。雲出川の鉄橋を渡る時は大変勇気がいった、狭軌道の鉄路が二本、その中央部に巾十五センチの板が二枚並べられている上を歩いた。現在の鉄橋の様にトラスはない、渡ることが困難な人は二百米下流にある橋まで迂回せねばならなかった。
 学校に着いても空襲の回数が多く授業にならない避難の毎日であり、ボーイングB29が日本の戦闘機と闘って青山方面へ落ちていったのを目撃したのもこの当時の出来事であった。実習等の作業は農林学校生徒全員の集団行動で学校行事なども行われたあの暑い夏の日、昭和二十年八月十五日全校挙げて演習林の下草刈り実習に参加した日であった。朝集合場所で教官からの連絡事項は「今日特別な放送が行われるが君達と直接関係のない事だ。一日下草刈り実習を実施する。場所は一志郡中郷村地内(豊地地内)南山演習林」であった。その日で日本は戦争に敗れた。神風の吹く日本が負けたのである。
 一学期末の軍事教練のテストは軍人勅諭の暗唱で、一人ずつ教官の中央に立って暗記したことの総てを発表した。一般教養科目の授業も実施されたが、特に軍事教練という科目の履習は特別で、履習した一つ一つの体験が明確に残っている。八月十五日以降、当分の間、学校で行われたことは教科書の墨入れで軍事に関係する文字、文章は総て塗りつぶした。
 昭和二十一年から昭和二十三年の間は戦後の動乱期であった。教科書を始めとする教材は不足し、その日その時間の授業を消化するだけの教材が与えられた。その時期の三月の卒業式の日、松阪駅を出発した各駅停車が火を吹いて焼けた。先輩はこの事故の犠牲者となって亡くなったし、同級生の友は身体にやけどを負っての災難であった。
 新しい教育制度の下で高等学校が発足した。昭和二十三年五月二十三日、中村一郎校長代行は新制高校の発足について挨拶した。普通科を併設、女生徒もいた。男女七才にして席を同じくせずという躾(しつけ)教育の大変化であり、質実剛健の気風を培ってきた男子生徒にとっては日常生活上戸惑いが多かった。
 旧制県立農林から新制高校に変化しても職業科としての教育内容は継続したものだった。旧制中学で二か年、付設中学で一か年、計三か年の職業教育は実に理論と実際が併行していたから高等学校が発足して学習することは半ば復習の観があった。
 「峨々(がが)たる山を測量し 荒野に溪に造林し わが日の本の山の美を育成するは吾等なり 農林の健児いざや立て 使命をおびて果さなん」 林業科の先生で飯田久雄先生は旧制中学の頃からよく歌われて生徒にその心構えを指導されたのは印象深い。万事がこんな調子で授業が展開されていたから、大学卒業の新しい先生の参考書に頼った教科書の授業では、誰も聴く者はなく幾度か先生を困らせたものだった。授業時間も単位制という新制度であったから授業時間全部受講する必要はなく、学級運営や授業運営で多くの先生が難しい学年であると指摘されたが、それだけに生徒の側も自覚していて、良く遊び良く学んだと感じている。
 高校三か年の学習は実に充実した時代であった。体験学習という名の職業教育はこの時代にすばらしい成果を挙げた。先生不在でも実習が進行し、計画に基いた成果が挙げられた。この当時の実習生産物を眺めるだけでも戦後復興の時代の中で生徒が学びとった生産技術は立派なものであったと自負してよい時代であった。学制改革は種々な点で人間教育を徹底したとも云える。男女共学という変化のある学校生活は時代の経過と共に定着したし、経験した職業教育六か年の成果は前後に比較することの出来ない教育実践であったことは当時の生徒達の一番の喜びであった。学校運営の点から問題点が多かったと記録されているが、教職員と生徒が戦後復興という困難な中で真剣に学習したことは確かであって、多様化した現教育と比較して意味が深い。有意義な生徒が社会に送り出された時代だったと回想している。
 (明和町 64歳)

氏名 藤田 一男
タイトル 戦後三重県国民学校教員被追放者生残の記
本文  戦後の教育追放は、連合国軍の日本占領政策に基づく教育政策の一つで、中央(文部省)と地方(都道府県)に設けられた教員適格審査委員会による、不適格者の判定を受けた者への処断である。換言すれば、表面は、戦後における民主的、平和的な教育界への粛正であるが、内面は、教育上の戦犯者宣告であり、安政の大獄や、蛮社の獄とも相通ずる点があるとも言えよう。
○ 昭和二十二年度三重県教員適格審査委員会の設置と審査
 本県の第一次適格審査委員会は、三重師範学校教授某氏を委員長として、外十二名によって構成され、同年三月二十七日付で、不適格の判定を受けた十九名(国民学校の部)にそれを文書で通告し、校長は三重県では地方教官(一般教員)に降格された。これは、山形・長野県各二名、香川・広島県各三名、秋田五名、北海道六名、新潟七名に対し、本県は、全国で最多の比率であったのは、神宮鎮座の県では奇怪で遺憾ともいえる。
 本県の第一次審査委員会の審査の根拠は、第一に昭和二十一年勅令第四九号第七条の調査様式(三)による調査表である。これは個人の責任において提出を厳命されたものである。然るに、本県の第一次審査会は、奇怪にも無記名投書を実施し、それが内容を重視した事であった。これでは、公正な審査にならないのは明白で、同会の権威の失墜は勿論、三重県教育界を冒涜(ぼうとく)し、内部分裂を来す因ともなるは必定である。更に投書された者への損害は至大である。
 同会から不適格者の判定を受け、教育界から追放されるの悲運に遭遇した者は一同が団結して対策を立て、先ず各人への不適格判定理由を具体的に文書を交付の上、面接による意見の陳述を申し入れ、四月十四日付でその運びにいたったが、その不当な判定内容と委員の頼りなさに誰もが不服で信頼のおきようがなかった。よって申し合せて、各自が中央へ再審査請求書を資料と共に四月五日付で一斉に提出することに一決したのである。第一次審査委員会は、審査終了直後、一名を除いて辞任して、この会は解散。県第二次同審査会(構成員四名)が設置された。かくて、中央審査委員会から、再審査の結果、殆ど全員が原審査差戻しになり、第二次審査委員会で慎重に、公正に再審の結果、全員が適格と判定され(昭和二十三年十二月二十五日)、二十九日付の正式文書で適格の通知に接した。この時の安心と感動と喜びは知る者でなくてはわからない所である。私はこれを生涯の記念にと、貯金の全部を払い出して祖先の墓を新しく建てた。翌年一月十二日津市小森上野の故大広保三氏宅で、運命を共にし、協力し合った者が集合して小宴を開催した。この席で「今後どう生きていくか」を話し合ったが、殆どは、「平教員に格下げられて、面子(メンツ)上からいって、この際潔く勇退する。そして新しい天地の開拓にがんばり、第二の人生をより生きがいあらしめたい。」であった。この時、私は一同に頭を下げて、つぎの了承をお願いした。
 「私は、昭和二十一年三月末日付で、員弁郡十社村国民学校教頭から、同郡山郷村国民学校長に補せられました。僅かに一か年で、追放格下げの身となりました。妻は、開戦以来激しい労働と、私の追放による精神的打撃で、肋膜炎となり病床に臥(ふ)しています。その上子供が五人あり、祖先からの財産とてなく生活は苦しい実情です。それに追放の身とて、これという職場に就けず、先日も蔵書を売って長男の桑中通学用の電車賃にあてるようなことでした。そこで幸いにも教育の場が与えられましたら、以前校長、教頭で勤めた学校でも、その他の学校-妻の看護ができる範囲内でしたら、面子も、体面も、恥もかまわず一教員として一家を支えたいんです。私は、過去の校長一か年を『樹下一宿』の人生と思っています。この際、心機一転新任当初の初心に帰って、教壇の実践に邁進し、名利栄達以外の人生を歩みたいと念じています。これは私が退職するまで見つづけてもらえば、わかってもらえるの決心です。これによって盟友に対する節義の一貫となしたいと存じおります。」と声涙下る思いで申し述べたのである。
 「藤田君。よくわかった。われらの代表として、教壇に復帰し、いまの決心で忍び難きを忍び、耐え難きに耐えて生き抜いてくれ。」と激励と了承をもらったのである。かくして昭和二十四年一月中旬から、以前四か年間教頭であった東藤原小学校の平教員として教壇に立ち、その後、阿下喜の大和中学校(後の北勢中学校)教諭の平教員の身で、昭和三十九年三月末日退職したのである。これで、去る日、大広氏宅で申した所信の実践において男子の節義を果してきたことは、自ら省みていさぎよしとするところである。運命を共にした方々は、次々と死没されて、今は、わずか三人の生存者となってしまった。故人の霊よ安らかに。つつしんで合掌。
 (藤原町 89歳)

氏名 綾野 静夫
タイトル 新制中野球ばかりが強くなり
本文 昭和二十二年四月、わが国の第二次教育改革といわれる新制中学校の第一期生として入学した。
 名ばかりの中学校で教室は小学校の校舎の一隅に遠慮気味にあり、教員も寄せ集めの見切り発車のひどいスタートであった。それでも英語科でアルファベット・ローマ字を半年位かけて学んだことで、中学生という気分にはなった。
 戦中は、敵国のスポーツとして禁じられていた野球が戦後のアメリカイズムによって、全国津々浦々に流行し百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の様相を呈した。子どもの遊びにも野球の簡易化したものが入ってきて変化がみられた。
 巷(ちまた)には、灰田勝彦の歌う「野球小僧の歌」が流行し、いやがうえにも野球が子どもの生活の中に蔓延(まんえん)した。私も一端(いっぱし)の野球少年であった。
 しかし、当時は生きるための最低限の衣食住の確保が最優先され、野球用具の購入など全く考えられなかった。手造りの木のバットで、くず糸や毛糸を布で包んだボールまがいの球を打つ程度の遊びであった。しかし、戦中時代に集団で遊ぶことの少なかった私たちには、大変面白い遊びであった。来る日も来る日も狭いお寺の境内で遊びに熱中した。ボールが寺の障子を破ったり、近所の家の屋根へ飛んだりで、よく叱られたが懲りることなく遊び惚けた。
 やがて、徐々にではあるが生活にも余裕ができ、野球用具も整って本来の野球らしくなってきた。私たちは、遊びから試合へと夢が大きくなった。どの地区にも、中学生を主体に小学生の高学年も入ってチームが結成された。他から教えられたり強制されたものでなく全く自主的なチームづくりであった。だが、それだけに全体的な組織がないため、試合場の確保が難問であった。
 戦中は、食糧確保のため、さつまいも畑となっていた小学校の運動場も元の形になっていたが、休日は大人の野球チームが優先して使用していた。し方なく荒れ野原を整備して試合をした。イレギュラー・バウンドが多く野球試合の形態をなしてはいなかったが、それでも勝敗に熱中し愉(たの)しい時を過ごした。
 中学校の体育の時間は、私たち男子は毎時間ソフトボールの試合をした。体育器具の無い中学校では、バットとボールだけで出来るソフトボールは恰好の教材だったのであろう。クラス対抗戦も実施され、野球熱は一層校内全体に高揚した。
 また、部活動としての野球部も出来て、益々野球が盛んになった。当時の部活動は、部の数も少なく今日のような全生徒が部活動することはなかった。従って、技能の秀れた生徒だけが所属するエリート的な面がみられた。特に野球部はその感が強かった。それだけに、応援で全校生徒が参加することが要求された。私は技能未熟のため応援する方であったが級友の活躍に満足を覚えた。
 一方、観る野球も多くの機会を得て、私たちの野球理論、技能向上のうえで大変参考になった。松阪、伊勢地区でも実業団チームの結成がみられた。松阪地区では、新日本工業チームが東洋紡富田チームを松阪市営球場に招いての試合に熱狂した。県下の実力チーム同志の試合であり、白眉の戦いであった。宇治山田クラブが法政大学を招いて宮川河川敷球場での試合もすばらしかった。地元出身の服部力投手や関根潤三選手の活躍も忘れられない。高校野球では、東海地区の雄で甲子園で好成績をあげた享栄商業高校と宇治山田高校・宇治山田商業高校とのダブルヘッダーが旧市営球場で行われた。甲子園に出場した享栄商業の水野投手に地元両校とも完全に押えられ残念ながら実力の差を見せつけられた。また享栄商業の一年生投手金田正一選手が少し投げたのも忘れられない。
 当時の県下の野球の隆盛を物語るひとつに「球界三重」という月刊誌が刊行されていた。県下の実業団野球、高校野球に関する記事を中心に編集され、多くのファンの愛読書だった。松阪北高校(現・松阪工業高校)のエース北村投手の勇姿が表紙を飾ったのも懐かしい想い出となった。
 わが国の戦後復興の歩みが野球の隆盛と同じ歩みであったと言えるが、三重県においても同じ事が言える。当時「新制中野球ばかりが強くなり」と揶揄(やゆ)されたが、一面では正鵠(せいこく)を得ていると言える。
 私たちの野球三昧の中学生時代を現在の中学生の置かれている受験中心の生活から見ると夢の様な感がする。
 (多気町 60歳)

氏名 萩原 量吉
タイトル ぞう列車
本文  このセピア色の写真は私のとっておきの一枚です。ぞうの上に乗った、前から二番目が私です。ぞうの背中が本当に高かったことや、背中の毛がとても硬くてズボンを通してお尻がシカシカと痛かったことを今も忘れることができません。これは、一九四九年(昭和二十四年)、私が津市立高茶屋小学校の三年生、九才の時の写真です。戦争が終って、食べるものがなく、お腹がすいて楽しみもほとんどなかった私達にとって、名古屋の東山動物園へいってぞうを見ることがどんなに楽しかったか、この日の前夜は遅くまで眠れませんでした。
 戦争は本当に悲惨で残酷だと思います。戦況が厳しくなり本土空襲もはじまった一九四三年(昭和十八年)の夏。食糧が足らないし、逃げたら危険という軍の命令で、各地の動物園のぞうやライオンなどの動物がつぎつぎと殺されていきました。東京の上野動物園では、ぞうが毒入りのエサを食べないので餓死させたこと、最後の死の直前にはぞうが「エサをください」と前足をついて芸をして懇願したことなどは悲しい事実にもとづいて、「かわいそうなゾウ」と題した絵本などで今も多くの子ども達の涙をさそって読みつがれています。ところが、この戦争の中で、東山動物園では当時の北王英一園長らの必死の勇気と努力によってぞうの命が守られ、この写真にあるエルド(左)とマカニー(右)は生きつづけてきたのです。
 戦後、この生きのびたぞうを見ようと全国から名古屋に向けて「ぞうれっしゃ」が走りました。三重県からも多くの子ども達が国鉄の「ぞうれっしゃ」に乗って名古屋の東山動物園に出かけたのです。
 今ではちょっと想像できないような光景ですが、ぞうがオリから出て私達子どもらといっしょに遊んだり、しかもぞうの背中に乗せてもらって写真をとるなど、親しむことができました。この事実は「ぞうれっしゃがやってきた」という絵本と歌物語として全国の多くの子ども達に歌いつがれています。
 この写真は私の同級生の男子ばかりですが、この子どもらの中にも十人ほどの子どものお父さんが戦死をしています。戦後五十年、この父親をなくした同級生がどんなに大変だったことか、心が痛みます。
 私はこの写真を見るたびに、ぞうに乗せてもらった一人としても、このぞうを生命がけで守りぬいた人達の勇気と努力に学びながら、二度とふたたび戦争を起こさないためにあらゆる努力をしなければならない、といつも考えています。
 (四日市市 55歳)

氏名 佐々木かよ
タイトル 女性の自立と生きがいをめざして
本文  私は五人姉弟の長姉としてのんびり育ち、小学生時代も男生徒と同様に学習し活動した。女学校、女子師範学校でも「張りだ気品だ」「教師とは愛情と自己練磨」といった校長訓話は心に残っているが、大正デモクラシーの時代でもあったためか「没我随順」の女大学式の教育は受けなかったように思う。
 ところが昭和二年隣村の小学校に訓導として勤めた四月の給料日、男子の新任訓導は五十円、私は四十円、驚いて隣席の先輩女教師に尋ねると「女だから」とさも当然のような返事に複雑な気持ちになったが口には出せなかった。その後一志郡教育会主催の大研究会があると、「若手で」と推され公開授業や研究発表も何度かしたが、昇給期には男子は三円、女子は二円、男女差の壁の厚さに憤慨しながら社会は戦時体制となっていった。兵隊送り、空襲、学徒動員とあわただしくなる一方、家庭的にも夫の発病、死去、子供は幼く苦境の中生きるのが精一杯で、男女差の矛盾等考えるいとまもなかった。

◎女教師の母体保護と地位向上を
 終戦、民主国家再建の大きな流れの中、昭和二十二年六月三重県教職員組合が発足、私も一志教組婦人部役員に推され、県教組井阪湧子婦人部長のもと女教師の緊急課題解決運動に参加した。厳しい交渉により同年八月には母体保護規程として生理休暇三日、産前産後休暇十六週間、産後一年間の哺乳時間の保障が実現した。更に十二月末には前年からの三教組全組織による給与の凹凸是正交渉と関連して、長年の男女差も撤廃された。
 昭和二十四年秋になると教育界にレッドパージの嵐が吹き、婦人部の正副部長三名共やむなく退職、十二月の婦人部大会で東條しずゑ氏が部長に、山村ふさ氏と私が副部長に選出され、既に進められていた産休補助教員の獲得運動を強力に展開した。組織を挙げての署名を携え県教育委員会へ陳情、久居町出身の小原茂教育委員長は趣旨をよく理解され、積極的に財政部局と交渉、一月から漸定的に、順次正式に認められることとなった。
 私は昭和二十七年四月久居中学校から県教育委員会へ転出、社会教育主事、指導主事を経て昭和三十三年四月教育委員会制度下初の女性校長として久居町立桃園小学校長となった。この背景には当時県議会議員であった岩下かね氏を中心とした各層女性代表者による女性の地位向上運動のもと小和田県教育長、小山久居町教育長の配慮によるものであった。
 しかし着任直前から校区の一部有力者による拒否運動があり、半年余り困ったことがいろいろあった。けれども子供達は明るく、教職員は全員力強い協力姿勢を示したので、共に農村児童の教育課題と生活環境を確かめ、PTAを初め区長会や青年、婦人会等との連携を深め地域ぐるみの教育を推進した。お蔭で伊勢湾台風による大被害後の復旧に地区あげての協力も得られ、八年間落付いた運営を進めることが出来た。研究面、施設設備環境の充実共に前進、児童は生き生きと主体的に、感性も豊かに成長し、図書館教育や子ども会活動等の表彰も受け、県内県外からの参観者も多く、子ども達や、地区民に喜ばれたものである。
 私は少し落ちついた頃から後継者づくりにとりくんだ。幼、小、中、高の同志の女教師と図り、先ず幼、小、中の女教師宛に「身近な主任から教頭、校長への進出についても意欲をもってほしい」旨の文書を送ると共に県教育長はじめ校長会長、教育事務所長、市部の教育長に面接陳情した。趣旨は理解されたものの実現はむつかしかった。が松阪市の赤塚教育長は、「教育研究所に起用して育てていこう」と具体的に配慮されたことは今も忘れ得ない喜びであった。そして吉田米子氏が研究所主事から指導主事、教頭を経て松阪市柚原小学校長に進出したのは、私が出てから十八年目であった。続いて久松、中津氏と続き、各々実績をあげた結果年々進出するようになり、本年度は小、中で教頭百三名、校長五十三名となり感慨無量である。又中堅女教師も校内やブロックの各種研究主任として活躍し力強いことである。

◎新しい時代を創造する力を
 戦後女性の法的地位を画期的に高めたのは昭和二十年十二月国会での婦人参政権成立であった。翌年四月十日の衆議院選で初めて投票、全国で三十九名の女性議員が、又三重県でも澤田ひさ氏が当選した。翌年の統一地方選挙で石田マサヲ氏が、次期には掘川恵つ、岩下かね氏が県議会議員に、市町村議会にもこの頃二十七名が進出、力強い感を深くしたものである。しかし投票率は男子より十二%も低く一般女性の政治や選挙への関心は低かった。
 そうした時文部省は「人権尊重を基盤とした家庭や社会の民主化、青少年の育成に女性の新しい組織力の発揮を、又それに教職員の参画を」と指示し、各市町村へも通達された。そして私も久居町の婦人会、更に一志郡や県連絡協議会の結成、また未亡人会の結成にも参画、休日には精力的に活動した。
 軍政部が引き揚げた昭和二十七年四月私は県教委社会教育課に転出、婦人教育を担当した。女性自身の生活意識に又家庭や地域の慣習に根強い封建性が残っている中、婦人団体や婦人教室の拡充に努力した。
 男女共生時代を迎えた今、改めて女性自身が資質を高め問題意識をもって男性と共に進むことの大事さを痛感する。
(久居市 86歳)

氏名 松井 つや
タイトル 私の戦後五十年
本文  私は今七十八才です。敗戦当時、大阪に住んでいました。ですから大阪の大空襲も食糧不足も経験し、配給の豆粕やさつまいもの葉を食べて食いつないで来ました。
 夫と幼い子供二人の四人家族です。夫の会社は戦災に遭い再起不能で失職。私の実家(津市)は戦災で焼失し、両親は終戦後半年の間に疎開先で相ついで亡くなりました。
 幼い子供二人を抱えて、たよれる人も物もなくなった私は、今後どう生きて行くか方策もないまま夫の実家に帰らざるを得ませんでした。
 夫は会社のあと始末に大阪に残り、取りあえず私だけ子供を連れて夫の実家(現住所)に身を寄せました。姑と義弟の二人でひっそりと住んでいた静かな生活の中に幼な子を二人伴って帰って来た嫁です。居心地の良い筈はありません。姑の農作業を手伝う日々を送らねばなりませんでした。
 姑も飯米位は自分でと田一反と自家用菜園畑を耕していました。主人名義の農地は、農地改革により不在地主と云うことで二町あまりの農地を一反六百六十円で小作に解放し、わずかに姑の作っていた農地だけが残ったのです。かっては中地主で割合裕福に小作米で食べていた姑も、生活の糧をなくしてしまいました。私は町の商家に生まれ育って、割合のびのびと小学校の教師をして娘時代を過ごして来ました。はじめて経験する農村生活です。麦と草との区別も分らない嫁で、姑についての農業はつらいものでした。
 しかしそれにもましてつらいことは、旧家と云われた家の中にみちみちている封建的な空気でした。これには耐え難いものがありました。何度誰もいない畑の隅で泣いたことか。「このままずるずると過ごしていたら私の一生は駄目になってしまう。何とかしなければ」とあせりに似た思いを持っていました。
 そんな時、町で女学校時代の友達に逢い、今県が生活改良普及員(GHQの命令で設置されることになった)の募集をしていること、又、資格試験が近々行われること等を聞き、その仕事の内容は農村の生活を改善すること、農村の嫁の地位の向上も一つの目標となっていること等々を聞き、「これこそ私に与えられた天職であり、この仕事に自分の生きがいを見出したい」と試験を受け、資格取得と同時に県に採用になりました。
 現地を訪問して知る農家の実態は私の生活の比ではありません。事毎に驚いたり、憤慨したり、同情したり、事情を知るに従いますますこの仕事にファイトが湧いて来て、日曜日と云わず、夜と云わず、農村を駆けまわったものです。料理講習、農繁期の共同炊事、保育所作り、共同の味噌作り、わら布団作り、住居の改善、学童保育等々、仲間と共に励んだことが昨日の様に思い出されます。その一つ一つが嫁の地位の向上につながっているのだと、自分自身で確かめながら仕事を進めて来ました。そして自分の生活にも自信を持つ様になりました。自信を持つことが地位の向上に如何に大切であるかを身をもって体験しました。
 それから二十年。定年退職のあとは、労働省三重婦人少年室の特別協助員をして十年間やはり婦人問題と取り組んで来ました。
 つらく悲しかった思い出も今では貴重な体験であったと思う様になり、憎かった人や言葉も自分を磨いてくれた糧であったとゆるせる様になった昨今です。あれから三十年、永い様で短い年月でした。私の人生で最も充実した生きがいを持って生活した時期であったと思います。その間、知り合った大勢の人々に支えられ幸せでした。
 今農村に堂々と自分の考えをのべる婦人が育っているし、又、集まって来る主婦達の何とはれやかな顔つき。かつての農村には見られないものでした。時代の変遷と共に女は強くなっています。三十年前を思うと目をみはる様な変化です。何もかも豊かになって、こんな良い生活が出来るとは夢にも考えませんでした。
 私も来月誕生日を迎えて七十九才になります。何時迄生きられるか分かりませんが、その日まで元気で天寿を全うし、この世に感謝して生を終りたいと切に願う今日此頃です。
 (鈴鹿市 78歳)

<平和を願って>

氏名 小瀬古月子
タイトル 五十年目に叶った親子の対面
本文 駅のホームに立つ一人の出征兵士と、母の背でもみじのような小さな手を振って別れを惜しんでいた親子の姿がありました。昭和十九年六月のことでした。可愛い子供のために必ず生きて帰ると誓っての旅立ちだったのでしょう。
 その時の幼な子が私です。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りましたが、戦後の混乱期の中で幼な子を抱えた母子の生活は、貧乏と、食糧難にたえかねて「親子心中」を何んど思ったかわかりません。
 ある日、母は四才の私の手を引いて生まれたばかりの妹を背負い「お父さんの所へいこうね」と言って近くの近鉄線路に立ちました。電車の音を目前にした時、幼い私が「お父さんが帰ってくるから家に帰ろう」と母の手を引っぱったのです。思わず母は自分をとりもどし、死ねなかったそうです。そして父の写真の前で三人はしっかりと抱きあい「いつか父が帰ってくる」と信じて、どんなことにも負けず生きぬくことを誓いました。
 その日から母と子の苦労がはじまりました。どん底の生活の中で一生懸命頑張った私達でしたが、父はとうとう帰らず、フィリピンのルソン島で戦死をとげたのです。
 そして五十年、「お父さん」と呼ぶことの出来なかった私でしたが、終戦五十年目の今年一月に父の最期の地となったフィリピンに慰霊巡拝として訪れることができました。
 「父がどんなところでどんな思いで亡くなっていったのか、一度でいいから父の眠る地に行って見たい」との念願が叶い、五十年ぶりの親子の対面を夢みて胸はずませ、
 「海山越えて 幾千里 父を尋ねて フィリピンの島へ」
と出発いたしました。
 幼い時父に抱かれた肌のぬくもりを思い出し、写真の父の顔が浮かんでは消え、頭の中を五十年間の母と妹と寂しく過ごした出来ごとが、走馬灯のように駆け抜けました。ルソン島の南部にある二千メートルの高い山「バナハオ山」のふもとに立った時、いつも消えることがない霞が消え、山頂がくっきりと姿を見せました。父が成長した私をしっかり見ようと姿を表わしたのだと思いました。
 「お父さん、やっと会いにきました。つらかったでしょう。ひもじかったでしょう。今日はふるさとの水も、我が家のお米も持ってきました。思う存分食べて下さい。飲んでください。」と父の大好物を並べました。
 「こんな遠いところで家族のことを思ったら死にたくはなかったでしょう。どんなにか日本へ帰りたかったでしょうね。」
 父への思いは限りなく浮かんできます。
 私は家族のこと、五十年の思いを次から次へと話かけました。そして慰霊の誠を捧げました。
 たくさんの線香の煙が、やしの木の中を通り抜け「バナハオ山」へ消えて行きます。山の高さ、大きさは父達が戦った時と変わってはいないでしょうが、父の姿はどんな形となって、どんな魂となって、眠っているのか、父の姿をさがし求めて、私の肩に乗せなつかしの日本へ、家族のもとへ連れて帰りたいと思いました。
 長い間、父に逢いたい、「お父さん」と呼んでみたい、父子の生活がしてみたかった、と五十年間の苦労の数々が一度に胸にこみあげ、山に向かって大きな声で、長い間呼ぶことのできなかった「お父さん!」と思いきり何度もさけびました。
 父も故郷を想い何度か口ずさんだであろう、なつかしい唱歌「ふるさと」を大きな声で、ジャングルに向って届けとばかり歌いましたが、父が祖国に残した私達親子のことを思ってこの歌を唱ったのだと思うと、始めて父と一緒に合唱しているような気がして声がつまり、流れる涙をどうすることもできませんでした。
 父もやっと我が子と対面でき、家族が力を合わせ、歯をくいしばってりっぱに生き抜いたことが確かめられて、これで安らかに眠れることと思います。
 戦後五十年、四才の幼な子が、五十四才になるまで父を思い、多難の人生を歩みましたが、五十年ぶりにしっかり親子の対面ができ、「父と子」として一層固い絆(きずな)で結ばれることができました。
(楠町 54歳)

氏名 後藤千鶴子
タイトル この秋・五十年
本文  今年の夏は、ことさらに暑さが厳しかった。その夏が過ぎ、庭先に秋桜(コスモス)の揺れ咲く頃、私は五十才の誕生日を迎えた。五十年-何と長く生きてきたことか。そしてまた、何と疾く過ぎ去った歳月であったことか-。

 五十年前、私の父はフィリピン・レイテ島でその命を国に殉じた。私が生まれて半年も経っていない。私誕生の知らせの便りを受けとった父からは、よろこびの便りと共に、多額のお金が送られてきたという。しかし、命名を知らせる便りは父の元に届いたかどうか-。おそらく届いていないであろうそのうちに、父は若い命を終えた。日本は絶対に勝つと信じて果てていったのか、それとも敗戦の近いことをうすうす感じとっていたであろうか。父の心を思うとき、せめて、「自分達がここで命を落としても、そのことによって日本は勝てる。父母や妻や子の暮らしは安泰となる」と信じていてほしかったと思う。そうでなければ何のために若い命を捧げたのか、その意味すらも余りに悲しくむなしいものになってしまう。
 私の五十年の歳月の後ろには、いつもそんな亡き父の私への思いと、父亡きあと、私のためにひたすら生きてきた母の姿が重なって在る。夫を戦いに亡くした母に残されたものは、ひとり息子を失って悲しみにくれる夫の両親と、忘れ形見の赤ん坊の私であった。娘時代を自由に幸せに生きてきた母は、その後を今日まで、父との恋愛時代や短かった結婚生活の思い出と、父と交わした「子供がいたら子供のために生きてやってほしい」という約束を守ることだけを心の支えに生きてきた。軍人であった父は、元より戦死は覚悟の上であったろうし、母もそれを承知し、心得てはいたで・黴€ろうけれど、そんなに早く別れがこようとは思ってもみなかったであろうし、現実にその時が目の前に来てしまった悲しみは、どんなにか大きかったであろうと思う。
 戦いの終わった後も、夜半にコツコツと革靴の音が聞こえてくると、もしかしたら帰ってきてくれたのではないかと思わずふとんの上に座し、通りすぎてゆく足音を悲しく耳で追ったという母。その時の母の胸中を思う時、私は今も胸が痛むのである。
 七十五才になった母-。年老いた今も、母の胸の奥深くには、永い歳月を超えてなお鮮やかに父が生きている。美しいと思う。

 私が小学生の頃、母は保母の資格に挑戦、見事、一度で合格して保母の職に就いた。私をことさらに厳しく育てながら、いつの時も私に父を忘れさせなかった。「この洋服はネ、お父さんが買ってくれたのよ。お父さんからいただいたお金で買ったのよ」「学資もお父さんがちゃんと出して下さるから、心配しないで勉強してネ」……。わずかに国から戴く父の恩給を、母は私にこんな風に話した。いつも計画性を持ってわずかずつでも貯金をし、私にまとまったお金が必要な時は、「お父さんからネ」とポンと出してくれた。おかげで決して贅沢は出来なくとも、私は十分満足のいく子供時代、学生時代を過ごすことが出来たのである。母は偉かったと思う。

 私は戦争の痛手をこうした形で覚えている。しかし、実際に戦争を知っている訳ではない。ましてや自分の子供を含む今の若者の心には、戦いの影などありはしない。五十年前に終わったあの戦争の悲惨さは、時の流れと共に風化し、忘れ去られようとしている。
 「時の流れ」の仕業-それはある意味では幸せなことかもしれない。が、見方を変えれば再び恐ろしい出来事に結びついていってしまう可能性もないとは言えまい。国や民の幸せを、自分の命を捧げることによって守れると信じて果てていった父のような人達の思いや、残されて家を守り、国を建てなおそうと辛酸をなめつくしながら懸命に生きてきた母のような人々の生き様は、どんなに時が流れ世代が変わっても、忘れてはならないと思う。語り継いでゆくことの大切さを痛感する。


 -あと、いのちの残りはどれ程あろうか。父の倍も生きてきた今の私。手元にあるささやかな幸せの中に喜びを見出しながら、これからも日を加え歳を重ねてゆくであろう。そして、命終えたら、天国の父との初対面が待っている。その時どんなことを話そうかと考えてみる昨今である。
 (四日市市 50歳)

氏名 大平  睦
タイトル 祖母の体験した戦争
本文  私は昭和四十年生まれですから、戦争はもちろん知りません。三年前こちらへ嫁いで、今一歳六か月になる男の児がありますが、生家の祖父が戦死していますので、毎年八月十五日が巡ってくる度に、私が高校生の頃、里の祖母から聞かされた「悲しい戦争の体験」を思い出して、ジーンと来るものがあります。その里の祖母の話を書いてみます。
 祖父(祖母の夫)は独身のとき、上海事変にも召集になり、五十日程上海に行ったことがあったそうです。この時代は召集令状が来ないと肩身の狭い思いをする時代だったので太平洋戦争が始まっても、召集の掛かるのが遅かった祖父は、毎日毎日、今か今かとその日を待っていたそうです。
 その祖父に運命の日、昭和十八年九月七日の午後九時頃、当時の村役場の人が令状を持ってきたそうですが、祖父は少しも慌てず祖母や両親に落ち着いて「とうとう番が回ってきたわ。四日後に敦賀へ入隊する。後のことは頼む。」といって翌日から出征の準備にてんてこまい。この四日間と言うもの、祖母はどんな心境だったのでしょうか。「行かんといて」そう大声で叫びたかったんじゃないのかな。でもお国のために戦いに行くのだからって祖母は自分自身に言い聞かせていたのかも知れません。
 そしていよいよ出征の日、「うちのことは両親が若いから心配しないが、おまえが弱いから留守中に無理をしたらいかん。」と、くれぐれも祖母に念を押して家を後にしたそうです。このとき、祖母の頭の中には「きっと帰ってきてくれる」という気持ちが半分、「考えたくないけれど、もしかしたら駄目かも知れない」という思いが半分あったそうです。
 それから十日余り経ったら「面会が許されたので、来れたら来てほしい」という手紙が届いたので病気の祖母に代って父(私の曾祖父)が敦賀へ面会にいったら、「腰から上に被る蚊帳(かや)が支給されたから、どうも暑いところへ行くらしい。」と言うだけの情報で、その後は何の便りもなく、その年も暮れようとする十二月末、初めて届いた手紙に「濠北派遣……」の文字を見た祖母は「ニューギニアへいっている」と、ピーンと来たそうです。
 それから二~三回の手紙のやりとりはありましたが、日本の敗色は日増しに濃くなり、音信不通のまま終戦を迎えました。家族は「これでやっと帰って来る」と、首を長くしてその帰りを待ったそうです。ところが終戦後一年近く経っても現地から帰る人はなく、やっと昭和二十一年五月に戦友が帰って、祖父は十九年八月二十三日に戦死していたことが分かりました。祖母は覚悟は出来ていたものの、一週間ほど涙が止まらなかったそうです。
 その時私の父は小学校二年生で、学校から帰るなり「アッ、仏さんに灯が灯っとる。お父さん、どうかしたんか。」といって泣きくずれたそうです。この姿を見て祖母は「この子はお父さんが無い子だから……」と、後ろ指を差されないように、どのようにして育てたら良いか、で頭の中が一杯になったそうです。
 その頃は農家でありながら食べるものも充分無く、着るものも切符制で思うように買えない時代でしたが、祖母はまず子供の物からと、四方八方駆け回ってどうにか、学校へ行けるだけの衣類を揃えたそうです。それから他の家族の着るもの、食べるものの準備、田畑の手入れなど、言葉では言い尽くせない苦労があったそうです。
 昭和四十七年に父は、お父さん(私の祖父)が眠るニューギニアへ遺骨収集に行きました。その頃、まだ七歳だった私は、ニューギニアがどこにあるのか何も分かりません。二~三日経つうちにだんだん心細くなって、毎日「お父さん、いつ帰ってくるの」と聞いていました。今考えてみると、たった半月、父がいなくても、とても寂しいと感じた私に比べ、当時五歳だった父が二年も三年も、それも無事かどうか分からないお父さんを待つのは、どんなに寂しかっただろうと、その気持ちがよく分かります。
 ニューギニアから帰った父は、遺骨収集の旅を八ミリ映画(その頃はビデオではなく、フィルム)に編集しました。完成した映画を私も何回となく見ましたが、終る頃にはいつも泣いているのです。「おじいちゃんが、こんな遠い、こんな暑い所で、家族にも看取られずどんな思いで息を引き取っていっただろうか」と思うと、かわいそうでなりません。
 父が映写してくれるこの映画を、いつも一緒に見た祖母も、一昨年(平成五年)八十三歳で祖父が待つところへ旅立ってゆきました。だから、祖母は自ら「体験記」を書くことが出来ません。生前、私にこのことを詳しく話してくれたのも、祖母が私に代筆をせがんでいるような気がして、拙いペンを執りました。
 二度と戦争で、こんな悲しい妻を、子を、孫を作ってはならないと思います。
(多度町 30歳)

氏名 帰山・セーサル・ナポレオン
タイトル VIVIR(生きること)を学ぶ
本文  もしかしたら、ある人々にとっては、VIVIR(生きる)は五文字で出来た、ただの言葉にすぎないかもしれません。
 でも、私にとってはそれ以上のものなのです。私の短い半生をふりかえって、なぜかということをこれからお話しします。
 夢、戦争、空腹。これらは私の両親とたくさんの家族が、祖国から出て海外移住をするという大変な決断をした理由でした。
 一九一〇年代の初め頃、アルゼンチンは既に酪農大国になっており、その酪農産物をヨーロッパやアジアに輸出していました。
 私の祖父は、ある日、ある雑誌を見て、この国のもつ自然の豊富さに気づき、家族を連れて出国することを決意しました。大農場主になるという夢をかなえたいために。
 一九一九年に北海道を出て、ブエノスアイレス港からアルゼンチンに入りました。何か月か過ぎ、酪農業でやっていくことは困難だということに気づき、また、気候の問題もあって耕作に適した新しい土地を探さねばならず、最終的に、ミシオネス地方に定住することになりました。
 自分の土地を所有できる、という希望と夢を抱いて、子供達に食べさせるため、日の出から日没まで働きました。新しい土地に順応するための障害となった言葉の障壁も、来る日も来る日も茶栽培に粘り強く精を出す彼らにとってはなんでもなかったのです。
 一九四五年に戦争が終わり、彼らの愛する人々が飢えなどの様々な原因で亡くなっていくのを見ました。それが、私の母親が、三十六歳で三重県熊野市を出て、私の父親と結婚をした理由のひとつです。
 その後、四人の子供が生まれました。私は四人兄弟の末っ子だったのですが、ごく普通の子供時代を過ごしました。おそらく、私たちが他の人たちと違っていたのは戦争についての会話をよく耳にしたことです。戦争に対してある決まった姿勢をとることを学びながら、それを理解するようになりました。
 戦争を学ぶことによって、我々は戦争からは何も得られない、失うものが多いだけだということを理解し、命や自然が与えてくれるものの真価に気づき、浪費せず節約すること、他人を大切にすること、団結することを学びました。
 働いて一センターボ得る度に、そのお金は私たちの学校での教育費へと変わっていきました。私たちの心に刻みつけられた手本と助言は、私たちの人生のいろんな場面に反映されています。
 一九九二年に三重県庁の計らいで、研修生として奨学金を頂きました。そこで十か月間日本のあちこちを巡り、いろんなことを知ることができました。テクノロジーの発達、激しい競争社会……等。しかし、その中でも、平和の真の意味を理解していること、そして教育の場においても、家庭でも、平和の意味を教えていることに注目しました。現在、日本は最も安全な国のひとつです。
 私の国では、一九八二年にフォークランド紛争がイギリスとの間に起こりました。国民は直接その紛争に参加していません。しかし、兵士たちは確かにひどい寒さと飢えに苦しんだのです。現在、我々の政府はフォークランド諸島(マルビナス諸島)の統治権を決めるために外交上の解決策を模索しています。また、全世界の国々と同じように、私たちは広島と長崎に原子爆弾が落とされた日のことを忘れません。そんなことが二度と起こることのないように祈ります。
 戦争では、勝者も敗者も存在しません。そのかわりに、破壊と傷跡が永遠に残るのです。
 こんなことわざがあります。
 「最後の川を汚し、最後の木を切り倒し、最後の魚を殺してしまってから初めて、人間はお金は食べられないということに気づくのだ。」
(アルゼンチン 30歳)
(翻訳は熊野市 河合佐好子氏にお願いしました)

氏名 村林 友子
タイトル 戦争を知らない私たち
本文  "戦争″。あなたはこの二文字を見てあるいは聞いて、何を連想しますか? 私は今まで学校、TV、ラジオなどを通して、又祖父、祖母から戦争のいろいろな話を聞いたことがあります。そしてそれを聞く度、人として当たり前ですが、戦争の非人間さに驚き、恐怖感を覚えました。そして" いけないこと "だと学びました。
 でも、私はやはり″戦争を知らない子供 ″です。戦争を神話か何かの作り話のように、又「もう起こらへんやろ」と自分に関係のないことのように受け取り、すぐに″戦争 ″を頭の奥底にしまい込んでしまっていました。つい何十年か前のことなのに、何百年も前のことのように思え、″歴史 ″、日本の歴史として間接的にとるだけでした。そして、自分から進んで戦争に目を向け、真剣に考えることはあまりありませんでした。戦争=いけないこと。学校等で教わったように、何かの定義みたいに決めつけ、何がいけないのか、なぜいけないのか、どういけないのか、又どのようなものだったのか、学校等で教えられる範囲でしか知ろうとせず、それ以上は知ろうとせず、ただ″戦争 ″と聞くと、戦時中の悲惨な様子より先に、「あっいけないこと」という定義が頭に浮かんできました。
 戦争体験者の方から見れば「何て薄情な」と思われるかもしれませんが、″戦争を知らない子供 ″、それも戦後三十五年も経った平和な世の中で生まれ、育った私には″戦争 ″はそれだけのものでしかありませんでした。「何百万もの人々が犠牲になった」そういう大まかな数字を聞いただけではあまりピンとこず、「かわいそうだな」と同情するだけで、「やっぱりいけないことだな」とまた頭に浮かぶだけでした。
 そんな私を変えてくれたのは、文化祭でのクラス展示″VOICE OF ASIA ″でした。それは、日本軍の被害にあったアジアの国々、中国、タイなど六か国の高校ヘアンケートを送り、その結果を展示したものです。他に、南京大虐殺、従軍慰安婦や沖縄戦、原爆などの資料、写真パネル、それに軍服等の遺品を展示しました。
 それをし終え、本当に日本、今私が住んでいる日本、今私が立っている地、日本で戦争があったんだ、たくさんの爆弾が落とされ、たくさんの人々、罪のない人々が死んでいったんだ、又同じこと、それよりももっともっとひどいことを日本も他国にしていたんだ、と今さらだけど実感しました。
 そして、自分が思っていた戦争と、現実に起こっていた戦争とのギャップにとても驚きました。いかに自分が戦争に対して甘い考えをもっていたか思い知らされました。戦争は思っていたよりも遙かに恐ろしく、気持ち悪く、思わず目を背けてしまいました。先へ先へと調べていくのがとても怖く、すごくつらかったです。でも、それは本当にこの日本、私達が住んでいる日本で起こったことです。又私と同じ国、この地でまれ、育った人、同じ言葉を話していた人、同じ顔立ち、同じ文化をもっていた人、もしかしたら血がつながっているかもしれない人が、本心からではなかったとはいえ、他国にしてしまったことです。絶対に目を背けてはならないことです。しっかりと目を向け、真剣に考えていかなければならないことだ、と思いました。
 又アジアの高校生の戦争に関する知識の豊富さ、意見のしっかりしていることにとても驚きました。日本の高校生からは考えられなく、いかに私達が戦争に対して無知で、無神経か思い知らされました。
 今日、″戦争を知らない子供 ″はどのようにして戦争を知ることができるでしょうか。学校、TV、ラジオなどにおいて、体験者の祖父母から、広島、長崎、沖縄へ観光したとき。でもそれは、ごくごくまれなことです。学校は夏休みの登校日、社会の授業でちらっとです。TV、ラジオの報道は八月だけ。新聞はそうでないけど、子供はあまり読みません。祖父母とはなかなか話す機会がなかったり、体験者でない世代の孫も今からどんどん増えてきます。観光旅行はそんなに行けません。
 私達″戦争を知らない子供 ″は大人が思っている程戦争を知りません。「どこで何戦争があった」ぐらいしか知りません。戦争の上辺しか知りません。深い事はぜんぜん知りません。でも知りたいです。すごく知りたいです。
 このままでは私達は、情報の多いあわただしい生活の中に、平和で豊かな生活の中に溺れ、戦争を、犠牲になった多くの人々の″死 ″を忘れてしまいそうです。もっともっと、もっともっと私達に戦争にふれる機会を、戦争について真剣に考える時間を与え、私達の目を覚まして欲しいと思います。
 (久居高一年)

氏名 藤島麻衣子
タイトル 白い伝言板
本文  夏休みには、五十年前の戦争の苦しみを映画やテレビの画面の中でよみがえらせていました。
 家や建物が壊れて、ただの″ゴミ ″と化した中を、元気に歩く人々の姿はありませんでした。もちろん笑顔などもありませんでした。そして、失ったというより、奪われてしまったさまざまな物。失ったというより、奪われてしまったたくさんの大切な命。その中に与えられたものは、苦しみと悲しみという、何よりも悲惨なものです。
 一体誰がこのようなものを期待していたのでしょうか。確かに戦争当時の人々は、日本の旗を持って、戦争に賛成していました。しかし、それができたのはきっと、本当の戦争の恐ろしさを知らなかったからでしょう。戦争を何よりも大切なものだと考えていた人々も、きっとあとで後悔したでしょう。でももうその時は遅すぎたのです。怯えてすごすのは、たった一日だけではありません。何日も何日も続くのです。その日々の中で、きっと気付いたでしょう。本当の戦争の恐ろしさを……。
 私達はこのような事を、決して再びおこしてはならないのです。そのために被爆者の人々は私達に、戦争を語るのではないでしょうか。しかし中には、あの時の出来事を口にしない人もいるでしょう。今はまだ他にもたくさんの被爆者の方々がいて、私達に戦争の恐ろしさと無意味な事を教えてくれます。しかし、五十年もすれば、戦争を語ってくれた人達はいなくなるでしょう。
 そうなった時、私達は戦争を体験した人々が、今まで必死に語り伝えてきた後を引き継いでいかなくてはならないのです。もし、そこで私達が誰一人として、今まで必死に語られてきたことをやめてしまったら、新しい世代の子供達は、戦争という言葉さえも知らずに育っていくでしょう。そして五十年前の苦しみを、再びよみがえらせてしまうことになるのです。だから私達は、重要な伝言板なのです。そしてこの枠から逃げてはいけません。一人でも多くの人が大切に語り続け、一人でも多くの次の世代の子供達に伝えなくてはなりません。そして確実に、正確な事を伝えるのです。
 被爆者や被災者の人々の伝言板の内容を、今の私達の、まだまだ白い部分がたくさん残っている伝言板へ。そして私達の伝言板から真っ白な次の世代の伝言板へ。そして永遠にこの伝言の内容を、あやまった内容にならないように、一人一人が責任と自覚を持ち、語り続けなければならないのです。今の私達は実際に戦争を体験してはいません。画面の中でしか見ていません。だから本当の戦争は全くと言っていいほどわかりません。そしてそれについて語り続けるのはとてもむずかしい事かもしれません。しかし、五十年前のあの出来事は今でも叫んでいます。そして今、町はきれいになっても、被爆者や被災者の人々のあの時の出来事や傷害は、まだまだ生々しく生きています。
 私達は平和を選ぶのか、それともあの生々しい恐怖を味わうのか。選ぶのはこの二つのどちらかです。私は絶対戦争に反対し、平和に賛成します。
(多度中三年)

氏名 水谷紗由香
タイトル 今に生きれる私達は
本文  私は、直接経験していません。しかし、いかに戦争が悲さんかはとても良く知っています。
 私は、特に沖縄のひめゆり部隊について考えました。私くらいの女子が、とてもつらい怖い、そんな現場で働いていた彼女達は、
「戦争などしないでほしい、これ以上私達を苦しめないでほしい。」
と言いたかったと思います。きずついた兵士をつれてにげるのがいかに怖かったか、両親の所に帰りたかったか、そんな事を考えると日本は、そして世界中の国々は、なぜこんな事を起こしたのだろうか、今しっかりと考えなければいけないと思います。
 今年は、戦後五十年目ですが、これで戦争は終わったとは言えません。五十年たった今でも被害者はたくさんいるのです。もし、もう五十年後に、戦後百年と拡大するでしょうか、その頃には、被害者は、居なくなっていると思います。平和の大切さを語り続けるには、今が一番大切だと思います。
 平和、この言葉を実行、続けるためには、一人一人の考え、平和に対する気持が大切だと思います。これが無くなってしまえば、日本でも又戦争をしてしまうかもしれないし、今まで多くの人々が戦死されたのは、一体どうなってしまうのか、私達が平和を愛し続ける限り戦争は起きないと思います。
 しかし、日本が平和になるだけでは、いけないと思います。日本が世界に、特にアジア地域において行った事柄については、深く反省し、一日も早くその方々に平和が来る様にしなければならないのです。
 平和、人々によって考え方は違うでしょうが、誰もが「戦争、色々な武器等の実験」は必ずやってはいけないと考えていると思います。今、フランスの核実験は世界中で問題となっています。いくら自分の領地だからといっても実験を行うことは、平和を乱す行動だと思います。
 私は、平和な時代に生まれ、平和な時代に育っています。私達が大人になる時、世代は「戦争を知らない平和な世代」と呼ばれる様になる事は、確実です。写真がいくら確かでも、心や考えには残りにくいはずです。だから、平和に対する教育を、もっともっとしなければならないと思います。私は今まで教わったのは、本当に少し、大きな出来事のみで戦争の作った爪あととしての、残留の人々、アメリカが散布した枯葉剤等、新聞等でしか見る事はないと思います。だから、学校の教科の中に、「戦争」「平和」だけを教える時間がつくられても良いと思います。社会科や特別活動、集会でほんの少しだけ話すのではたりないと思います。今の大人の人が、平和がいかに大切かを私達、次の世代に伝えていかないと、取り返しのつかない事がおきる様な気がします。
 テレビ等で戦争や内戦をみると、私達は幸せか分かります。それに戦争で勝つと何が良いのでしょうか、きっと喜べるのは、国のえらい人達だけだと思います。そんな人に限って、つらい、苦しい、悲しい思いをしていないと思います。戦争を一番いやがるのは、国民です。権力で押さえられるのは一番つらいと思います。
 私の願いは、世界の人々の幸せ、平和です。これがかなうには、差別を無くさないと出来ません。今、世界で起きている戦争の多くは人種差別から起きていると思います。だからこの問題を解決すれば、世界は、平和に近づく事が出来ると思います。
 私は、戦争を起こす人が居たら、一人になっても反対を続けます。それは、私の平和への考え方であり、平和を愛しているからです。私は、自分の考えを押し通せなくなるまで言い続けたいです。平和には利益があるけれど、戦争には、なんの利益もない事が分かっているからです。
 私の世代が平和であった様に、次の、その次の世代も平和であってほしいと思います。そして、今まで日本が起こしたあやまちをもう二度と起こさないでほしいと思います。そしていつまでも平和を乱さないで、平和という一本のとおとい線を切らないでほしいと思います。
 世界中の人々が戦争をしてしまった今、平和の大切さを、もっと表現していく事が一番良いと思います。
 平和な今に私は生きれてうれしいです。
(光風中二年)

氏名 坂﨑 郁美
タイトル 戦争のつらさ、苦しさ、悲しさ
本文  今年で終戦五十年をむかえました。
 祖母や祖父に戦争の時の思い出などを聞こうとすると、なぜか悲しい顔をしたり、はぐらかされてしまうことがよくあります。その祖母や祖父の様子を見ていると、「戦争とはとてもつらく、苦しく、悲しい出来事だったのだなぁ。」と言うことが伝わって来ます。
 私達、現在の子供は、戦争をその場で見たことがないので、戦争のおそろしさなどは、戦争を体験したことがある人以外、だれも知らないと思います。だから反対に私達は、平和があたりまえと言う風に考えてしまい、平和の美しさ、喜び、尊さに気づかないのだと思います。
 戦争とは、どう言ういきさつで始められるのでしょうか?
 私は思ったのですが戦争のきっかけとは、国同士のけんかみたいなものではないかと思います。別に、普通の人が誰かとけんかをしたかと言うことだけで、戦争なんかになるとは思えません。だから国同士の意見があわなくてけんかのようになったとか。そう言う考えかたをするしかないのではないかと思っています。
 今年の夏、私は祖母の家の近くでやっていたお祭りに母達といっしょに行きました。そこのお祭りでは、終戦五十年企画で広島の原爆後の写真などの展示会をやっていました。
 私は、母達といっしょにその展示会の写真を見に行きました。展示会の写真はとてもひどいものでした。私が始めに見た写真は、子供が母親の背中で真っ黒になって死んでいた写真でした。その写真を見たとき、涙がぼろぼろ流れて来ました。他には、井戸のようなものの中で二、三人で抱き合っている人が死んでいる写真や、とても人間だと思えないぐらい皮膚がたれ下がっている人の写真や、顔が誰だか分からないほど大やけどの人の写真や、手足がない人の写真や、手や足などからたくさんの血を出して布団に横たわっている女の子の写真や、原爆の光で、影だけ残っている写真や、大きなトラックの荷台に何十人もの死体が乗っている写真や、とても悲しそうな顔をした人の写真などがありました。
 中でも私が、一番忘れることができない写真は、原爆の光で自分の着ていたもんペや着物などのがらが身に焼きついて残ってしまった女の人の写真です。その写真を見たとき、写真に写っている人達が語りかけてくるように思えました。写真の中の人達は、「もう戦争などおこさないで、お願い。もうこんな苦しみは現在の子供達にあじあわせたくない」と言う風に聞こえました。私は「ああ、そうだなぁ。この人達のような苦しみは、もうだれにもあじあわせ
たくないな」と思いました。
 以前、祖母に聞いたことがあります。昔、戦争をしていたころは、おしゃれもできず、みんな同じような、つぎはぎをしたもんペなどをはいていたそうです。それに砂糖などは、「戦争に勝つためだ」と言われてほとんど、兵隊さん達に送っていたそうです。私は、戦争をしていても、えらい人達は、とても楽なくらしをしていて、普通の人達はなにもない、とてもまずしいくらしをしていたのではないかと思います。私はときどき「今はとても平和だな」と思う時があります。昔、戦争をしていたころとはちがい、甘い物もたくさんあるし、とてもいい服を着れておしゃれもたくさんできるからです。
 私は今まで、他の国の争いや戦争のことなどには、あまり興味をもっていませんでした。しかし、今年、終戦五十年企画で色々な戦争の話をテレビでやるようになってから、少しずつ他の国のことに興味をもつようになって来ました。なぜか、人事のように思えないのです。私でさえ人事のように思えないのだから、戦争を体験したことのある人は、もっと人事のように思えないと思います。
 平和とは、この世にぜったいになくてはならないものだと思います。現在の若い人達の大半は、「平和」と言うことをよく考えたことがないと思います。なぜかと言うと、現在日本はとても平和だからです。平和すぎて、平和だと言うことが当たり前だと思っているからだと思います。だから「平和」と言うことにひたりきっていると思います。もちろん、その中に私もはいっています。
 私はこれからこの日本や世界を背負って行くのは私達現在の子供達だと思います。だから、もう二度と五十年前のようなあやまちをおかさないようにするには、世界の人々が手をつなぎ合えばいいと思います。
 そのために私は、優しい心を忘れずに、そして大切にして行きたいと思います。世界から戦争をなくすと言うことは、すごく大変なことだと思います。だから後、何年先になるか分かりません。何十年も先になるかもしれません。それでも私はがんばって行きたいと思っています。
(久居東中一年)

本ページに関する問い合わせ先

三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 保護・援護班 〒514-8570 
津市広明町13番地(本庁2階)
電話番号:059-224-2286 
ファクス番号:059-224-3085 
メールアドレス:fukushi@pref.mie.lg.jp

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

ページID:000024614