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中勢地域
昭和16年9月に海軍入隊
昭和19年9月12日 乗艦していた駆逐艦「敷波」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け戦没
約12時間漂流した後、救助される
昭和19年7月 高等女学校2年で学徒動員により
中島飛行機工場へ
昭和20年2月の松阪空襲により、工場が焼失
昭和19年 小学4年の時 津市で空襲にあう
昭和19年 ジャカルタの軍事工場へ行く途中、
東シナ海で運搬船が沈没し、父を亡くす
昭和20年7月 桑名の軍需工場で学徒動員中に空襲にあう
昭和20年7月 津で2度の空襲にあい、
新潟県で疎開生活を送る
昭和14年、台湾で生まれる
昭和20年、台湾の日本人小学校へ入学したが、
戦況が悪化し、松阪市飯高町に疎開
昭和20年7月 学徒動員前日に津市で空襲にあう
兄がビルマで戦死
写真:明和町防空壕
陸軍第七通信連隊一二八部隊の駐屯地は、第二次世界大戦中の昭和17年(1942)12月15日に明和町斎宮の北野に設置された。本防空壕は、この駐屯地の施設の1つとして連隊本部の西約50mの位置に建設されたものである。
当防空壕の用途について地元の伝承では、一般兵用ではなく連隊本部の士官専用のもので、北側の部屋は天皇陛下の写真を置く場所があったと言われている。
写真:津空襲写真
当時、海軍工廠や軍需工場等があった津市も空襲による大きな被害を受けています。特に、7月24日、7月29日の空襲による被害は大きく、詳細は以下のとおりでした。
7月24日:死者947名 傷者471名 全焼850戸 半焼45戸 全壊1,264戸 半壊1,009戸 罹災戸数3,168戸 罹災人員15,840名
7月29日:死者344名 傷者246名 行方不明38 全焼9,188戸 半焼50戸 罹災戸数10,000戸 罹災人員41,000名
(参考:『三重県史 資料編 近代2(政治・行政Ⅱ)』(昭和63年))