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令和元年07月08日

自作品を前に

陶芸家 林 克次
2019年三重県文化賞 大賞 受賞記念 特別レポート


0 はじめに

 今回のレポート記事は、林さまのご希望により、敬称を略してお送りいたします。
  
 

1 プロフィール

 林克次は、昭和18年に、陶芸家・林紫光の次男として、四日市市に生まれた。昭和42年に漆芸家・辻光典氏に師事し、創作活動を開始する。
  

(創作者として)
 伝統的な技法を尊重しつつも革新的な技法にも挑戦し、とりわけタタラ技法に独自の世界を開拓した。昭和47年に「朝日陶芸展」特別賞、「光風会展」光風工芸賞を受賞するなど、陶芸家として長年にわたり優れた業績を重ねている。昭和58年には三重県文化奨励賞、令和元年には三重県文化大賞を受賞した。
 
 
(人材育成と社会福祉に)
 自宅の工房で陶芸教室を開き、人材の育成、後継者の発掘に努めるほか、社会福祉施設においても陶芸を教え、高齢者や体に障がいのある人などの生きがいを高め、社会復帰と自立の促進に貢献する活動も積極的に行っている。
 
 
(陶芸文化の振興へ)
 平成6年に第9回国民文化祭三重県実行委員会に企画委員として参加し、国民文化祭の成功に多大な協力・支援を行う一方、三重県陶芸作家協会(現:三重県陶芸協会)の設立にも参画して、平成6年の設立以降、同協会の事務局長、会長、理事を歴任しながら、同協会の主要事業として開催されてきた「三重のやきもの展」を通じて、陶芸の振興、情報発信及び人材の育成にも貢献している。
  

(広く文化振興のために)
 陶芸以外でも、平成11年から毎年5月にいなべ市藤原町で「炎のイベント・窯炎と薪能」を開催するなど、文化発信による地域おこしにも貢献している。
 
 
2 陶芸家 林 克次 に接して
 
(作品・得意分野について)

 林は、タタラと呼ばれる薄い陶土を、広げ、折り曲げ、形づくり、陶芸作品に仕上げる技法の第一人者で、その技は「タタラマジック」と称される。
 
 「薄い土を、それが乾くまでの間に成型するのは時間との戦い。私は『手仕事であることを見せるが、手の跡はつけない』という考え方で作っていて、成型は簡単ではない」と林は言う。
 
 林作品を目にしたとき、まず目を引くのはその独特のフォルムだが、それに加えて、形の大きなものや、非常に複雑な形のものなど、様々な特徴の作品があることに気づく。美しい形を作るための「時間との戦い」は、本当に厳しいものであることに思い至る。
 
 「形が面白いと皆が褒めてくれるけど、なかなかお金を出しては買ってくれないんだよ」と、林は明るく言うが、見た目の個性の奥に、わかる人にはわかる、わかる人にしかわからない、他の誰にも真似することができない凄まじい技があることを垣間見ることができた。
 
 
 
(作品の系譜について)
 
 林の自宅がある四日市には、古くから萬古焼が産業として存在していた。そこには非常に細かい「手わざ」があって、その「わざ」を競い合っていた時代があった。その中に、「型萬古」という木の型に薄い土の板(タタラ)を貼り付ける独特の技術があった。その技術のもとで作られていた装飾に、林は強く惹かれたという。
 
 今から50年ほど前に陶芸ブームがあり、いろんな伝統陶芸が評価された。ただ、それは柳宗悦の民藝運動の流れを汲むもので、「用すなわち美」と素朴さを是とする側面が強かった。そこでは、四日市萬古の、「手わざ」で装飾された美は評価されなかった。そのまま価値が認められず、現代に至っている。林はそれが惜しいと思った。そのため、20代から50年近く、その「手わざ」の発展と普及を目指し、陶芸ブームが去った後も、自分の作陶の中心に据えている。
 
 ただし、四日市萬古で行われていたものは、基本的に、あくまで工芸だ。地場産業としての職人的なものだった。陶芸ブームはその工芸の中の実用的な美に光を当てるものだった。そこから外れるような装飾でも、「デザイン」として経済活動の対象となりうる。しかし、林には、さらにその装飾を「アート(芸術)」に昇華させたいという思いがある。
 
 「アート」に限らず、何かが経済活動の対象となるためには、有り体にいえば、それを評価して買ってくれる人が必要となる。そこで、「アート」を買ってもらうことを、林は「説得」と表現する。自分の中にある美の意識、そしてそれが美の体系の中でどういう位置にあるかということを、皆にわかってもらうという行為であると。美の体系は「伝統」と言い換えることもできる。「伝統」の中で自分の場所を探して探して、それを人に「説得」する、それが「アート」というものだと、林は考えている。
 
 
 ところで、今回の<プロフィール>に、「伝統的な技法を尊重しつつも革新的な技法にも挑戦し、とりわけタタラ技法に独自の世界を開拓した」と書いた。林作品を紹介するとき、こういった表現がよく用いられているからだ。これが芸術の体系の中での林の位置を的確に説明するものであることは間違いない。何より、わかりやすい。
 
 しかし、その説明は、四日市萬古焼が元々持っていた世界に対する林の思想や取り組みを、本当に正確に描写しているといえるだろうか。「伝統的な技法」と「革新的な技法」を単純に対比させ、それを融合したのが林作品だと説明したときに、その文章から人々が受け取る印象は、林の思いとどこまで一致するだろうか。
 
 この疑問をぶつけたとき、林は言った。
 
 単に受け継がれているものは、「伝承」に過ぎないのだと。「伝統」というためには、新しいものを継ぎ足して、発展させていかなければならないのだと。
 
 今の世の中が高い価値を与えるのは、彼のいう「伝承」の方だ。林は、それを、「知識で芸術を語ること」だとする。良いと「される」もの、良いとされるものと「同じもの」を作ることを目指すものなのだと。「そういうことが大事だと思う人には、私の作品は評価されない」と林は言う。林の作品を高く評価するのは、「好き嫌い」の感性で美の価値を決める人であると。林は、そういう人を「説得」するために、探して探して自分を形づくってきたのだと語る。
 
 その時代の一人ひとりの人が、直感的な好き嫌いで美を決めることを、むしろ「伝統」に親和的なものと位置づけるのは、一見矛盾する考え方にも思える。<プロフィール>の表現は、「伝統」と「新しい技法」を対比させ、林作品の中で併存しているとすることによって、その矛盾を解消する側面があるのかもしれない。
 
 しかし、林には、四日市萬古が持っていた強烈な「伝統」の中に、きちんと「伝承」されていないものがあるという思いがある。本当は「伝統」の中でとらえられるべきものが、林が形にしたものとして「革新」のカテゴリで把握されているとすれば、そこには齟齬がある。そして、「伝承」と対比された「伝統」観によるなら、林自らが発案し創作し実現した技法等の中にも、「伝統」に含まれるものがあることになろう。
 
 思うに、それは、林が、芸術や美を「人」を前提に捉えているからではないか。「伝統」を作るのはそれぞれの時代の「人」であり、今、目の前にあるものを美しいと感じるのも「人」であると。「知識」で芸術を語るとき、生きている「人」と離れ、概念として美が存在することになってしまう。そうではなく、美は「人」と離れて存在するものではないのだと。「伝統」も「新しい技法」も、「人」というキーワードでくくるなら、そこに対比も矛盾もない。すべて林の中で一体のものとして存在する。そんな気がした。
 
 
 
(社会福祉活動について)
 
 林は、社会福祉施設での陶芸教室を、もう何十年も前、ボランティアなんて言葉がないような時代から開催している。高齢や障がいのため、土を手でギュッと握ることがやっとという人が作ったものを、そのまま焼き入れしてきた。土の感触だけでもリハビリ効果があるといわれるが、それ以上に、林は、出来上がったものを一つの作品として考えている。それらをまとめ一つのオブジェにして、作品として美術館に展示したこともある。
 
 良いと「される」もの、良いとされるものと「同じもの」を作ることを目指すような陶芸では、彼らが作ったものに価値はないことになる。しかし、陶芸をして自分らしさを「説得」する行為だと捉えるなら、その人が持っている力や感覚を駆使して作り上げた物は、誰のものでもないその人だけの独特の作品であって、自己の個性を「説得」するための武器となりうるものといえるだろう。実際、彼らの作ったものに、一つとして同じものはない。
 
 
 
(後進育成について)
 
 四日市の地場産業としての工芸の伝統は職人の世界だった。林は、それを芸術にする助けをしたいと思い活動してきた。三重県陶芸作家協会(現:三重県陶芸協会)を作ったのもそんな思いからだ。
 
 「三重県には伊賀焼のような重厚なものから、四日市萬古焼のような装飾的な『手わざ』まで、両極端なものが揃っている」と林は言う。その文化的な土壌を芸術に昇華して表現したいという林の思いを、引き継ぐ人間を育てようとしている。
 
 今の世の中、何でも数字で価値をはかられてしまう。芸術さえもそうなっている。そうではなく、自分という人間をもって「説得」することが芸術であると林は考えている。その上で、三重の陶芸文化が、その「説得」の背景となるに相応しいものだというのが林の思いだ。今、林の薫陶を受け、彼のその思いを受け継ぐ者が何人もいる。単に林の技術を継ぐのではない。むしろ、彼の技術は、林一代限りのものも多いだろう。そうではなく、思いを伝えたのだという自負が林にある。
 
 
 
(陶芸以外の活動)
 
 林は、いなべ市にある藤原薬師山の紫光窯で、毎年、「窯炎(ようえん)と薪能(たきぎのう)」というイベントを開いている。
 
 「薪能」とは、野外で薪の火の明かりをたよりに能を鑑賞することをいう。このイベントでは、その明かりとして、登り窯の薪の火で舞台を照らしている。窯の炎をアートとして表現しようという試みだ。
 
 林によれば、陶芸とは、火の力で土が動いた結果として、作品を「さずかる」ものだという。そして、茶道の精神として、焼き物の価値を決めるのは使用者だと考えられていると。そうではなく、自力で作品を完成させてみたいと思ったことが、林がこのアートをやろうとしたきっかけだった。
 
 甥の林伸也(陶芸家)の作陶活動の拠点を作るため、人のツテをたどって藤原に土地を探したときに、ただ窯を作るだけのスペースに加えて、舞台を作って観客席を設置する広さも求めた。この場所で能をやりたいと、パッとイメージが浮かんだからだという。それまで能にとくに関わったことがあるわけではなかったが、喜多流能楽師・長田驍(おさだたけし)(平成13年国重要無形文化財能楽総合指定認定者、平成15年三重県民功労賞受賞)の協力を受けて、もう22回もイベントを続けている。
 
 その舞台で演じる戦国武将の古田織部を扱ったオリジナルの能作品を作りたいと、林は思った。窯と舞台のある藤原は、関が原で島津と戦った織部と縁のある土地だったからだ。そこで、新聞社の記者だった知人に頼み込んで脚本を書いてもらい、創作能を一から作り上げた。能楽の専門家ではないにもかかわらず、伝統芸能の世界で新しい作品を作ろうなどと考える者が、彼以外どこにいるだろうか。
 
 林は、そんな風に、ただ思いついただけのことを、人の縁で実現してきた。同じ舞台で世界的なクラッシックギタリストの演奏会を開催したこともある。「自力で」といいつつ、そこでいう「力」が人を動かすことであるのが面白い。人というものが大好きで、人というものをとても大事にしている林のために、皆、つい一生懸命に協力してしまうのだろう。
 
 「何も知らない方がいろんなことができて楽しい」と林は言う。入場料も何も取らないから、お金なんか何も儲からないけれど、お金や数字で表される価値なんて、後からついてくればいいと。彼は、「世界へ届くような夢」を見て、ずっとやり続けている。
 
 
 
(今後の夢)
 
 陶芸ブームで光が当たらなかった四日市萬古の『手わざ』を埋もれさせたくないというのが、常に持ち続けている林の思いだ。彼は自分の陶芸は一代限りのものだと思っているが、焼いたものを土に還すのではなく、残していけるような事業をやってみたいと考えている。
 
 たとえば、土というのは場所によって含まれている成分・不純物が違っていて、焼き上がる作品に無限のバリエーションが生まれる。そこに四日市萬古の『手わざ』を加えたらどうなるだろうか。
 
 林は、そんな『手わざ』を体系的に保存する仕事を、残りの人生をかけてやってみるつもりだ。この受賞(三重県文化大賞)によって、林のこれまでの仕事がまた高く評価されたことが、その思いを強めるきっかけになった。
 

 

作品名「同床異夢」

作品名「しりあい」

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